2011年6月26日日曜日

新入生歓迎コンパ

 6月24日は、広島大学医学部の野球部に入部した新入生の歓迎コンパに行って来ました。
 例年は4名くらいの入部ですが、今年は9名が入部しました。部の先輩としては、うれしい限りです。

 主将(5年)が司会を務め、OB会長、野球部長、野球部監督が挨拶や乾杯の発声をして、それから無礼講になります。
 新入生は、挨拶を聞いている間、慣れない正座をしてかしこまっていました。しかし、無礼講になるとほっとして目の前の料理をぱくついています。受験勉強を終えて入学したての彼らは大変楽しそうです。私は9名新入生のところへ、話しに行きました。

 一人一人に声を掛けます。聞くことは出身地、出身校、野球の経験があるか無いか。経験の無い子もいました。
 このあたりの質問は答えに困ることが無いので、すらすら会話が進みます。

松坂「ポジションはどこやるんですか。」
新入生「ピッチャーがやりたいです。」
松坂「へえー。」
 
 19歳から22歳くらいですが、最近の若者は屈託が無いというか、物怖じせずにしゃべるので、面白い会話になります。変に気を使っていません。
 9人のうち、ノリの良いのは神奈川と奈良の子でした。土地柄でしょうか。あとの子たちも、みんな礼儀正しいきちんとした学生でした。

 20も30も歳の離れた相手と会話をするのは、頭がリフレッシュされて、非常に良い気持ちになります。学生時代に友達とばか話をして、頭の中が爽やかな気持ちになっていたことを思い出します。何も気を使うことも無く、相手に気を使わせることも無い爽快感です。

 日常の仕事の中ではなかなか味わえない、貴重な感覚です。

2011年6月23日木曜日

広島市中央図書館(後編)

 5月の10,11日、広島市に大雨が振りました。そのため広島市の貴重な古文書を収蔵している浅野文庫へ雨漏りし、古文書が濡れてしまいました。幸い古文書は毀損するほどではありませんでした。自然に乾燥させて、ほぼ現状に戻すことができました。
 12日の朝、浅野文庫の雨漏りを発見した図書館員が、すぐに屋上へ上がりました。浅野文庫は3階にあり、その上は屋上です。
 屋上は雨水が溜まって、プールのようになっていました。雨水を流す排水口があるのですが、水が流れていません。
 図書館の周辺は樹木たくさん生い茂っています。木の葉が舞い上がって排水口を覆い、雨水が流れずにプール状になったのです。そのため、屋上を覆っている遮水シートの下に雨水が流れ込み、天井から壁伝いに水がしみこんで古文書を濡らしたことが分かりました。

 ここからが前々回の屋上へ向かう続きです。
 
 私は6月3日に図書館を訪れ、浅野文庫に入りました。壁、床、天井は総ヒノキ張りでした。ヒノキの天井の裏側はコンクリートの天井でしたが、その上は屋上とのことでした。屋上から水が漏れれば、すぐにヒノキの天井が濡れることになります。
 新聞で有識者が、「なぜ1階や2階に浅野文庫を配置しなかったのか理解に苦しむ。」と述べていましたが、全くその通りだと思いました。

 屋上に上がると、シートが屋上いっぱいに敷き詰められていました。そして、シートと屋上とのすきまに溜まる空気を抜くパイプが立ててありました。前日の昼ににわか雨があり、そのせいで屋上にはわずかに水たまりができていました。

 水たまりの真下はどの部屋なのか尋ねると、図書館長は「浅野文庫です。」と答えました。排水溝にも水があり、この下も浅野文庫でした。ちなみに、乾いている屋上部分の下は事務室でした。
 平成9年に屋上の改装をしたようで、結果として浅野文庫の上に水たまりが出来る構造になり、一番先に雨水が染み込むようになってしまったのです。事務室に雨が漏るより先に、浅野文庫に雨漏りしてしまうようになりました。

 工事によって改善される手立てがあれば行いなさいと指示しました。
 とは言え、一番の原因は排水口に溜まった木の葉を掃除していなかったことです。これからは、図書館員が毎日屋上に上がって、木の葉を掃除すると言っています。どうやって確実に、かつ継続的に履行させるのかが課題です。

 広島市の市民局生涯学習課が、公園課に「木を切ってほしい」と頼んだり、営繕課に「屋上の工事をして水がたまらないようにしてほしい」と依頼したりしました。
 しかし、「まずは葉っぱを掃除しなさいと」言われてしまうと、図書館側は何も言えませんでした。

2011年6月20日月曜日

スポーツの休日

 この土日は、スポーツをして過ごしました。

 まず土曜日は軟式野球です。
 野球は中学校の野球部に入部して以来、ずっと続けています。足が遅く肩も弱いため、しぶとい打撃だけではレギュラーポジションは獲れませんでした。それでも飽きずに続けています。

 今はチームの幹事兼、監督兼、選手です。メンバーを決め、二塁手として試合に出ながらサインを出し、選手交代も一人で決めます。ヒットは打てませんでしたが、敵4番打者の痛烈なゴロを難なくさばきました。
 試合は5対4でしぶとく勝ちました。

 日曜日は段原小学校区の卓球大会でした。4チームが参加、体協の卓球部があり、ほとんどの参加者はそのメンバーの人たちです。あとは大学や高校で卓球をしている若者なので、勝負になりそうにありません。

 試合は、ダブルスで5ゲーム行います。1セット11点で、3セット先取すると1ゲームとることになります。私は5ゲームのうち2ゲームに出て3チームと対戦したので、計6ゲームを戦いました。

 1ポイントも取れないのではと不安に思っていましたが、ペアの選手が打ち込んだり、相手がネットに掛けたりオーバーしたりで、意外と善戦しました。スマッシュがたまに決まったり、自分のリターンを相手がオーバーしたりすると、思わず福原愛選手のように声を上げてガッツポーズを取って、喜んでいました。

 結局、出場した6ゲームのうち1勝出来ましたが、チームは0勝3敗に終わりました。帰ってから体重を量ったら3キロも減っていました。激しい戦いでした。
 2日間も動き回ったので、日曜の午後からは腰が立たなくなって寝てすごしました。月曜からは、立ち上がれるようになりました。

 非常に疲れましたが、スポーツは心身ともに清々しくなって良いと思います。

2011年6月19日日曜日

広島市中央図書館(前編)

 広島市の中央図書館は、昭和49年に建設された図書館です。広島城近くに開設されたこの図書館は、当時としては画期的な冷暖房完備の閲覧室と自習室を持ち、映像文化ライブラリーでは日本の名作映画を放映していました。
 
 その図書館での出来事がニュースになりました。
 5月10,11日に降った大雨のため12日に雨漏りし、浅野文庫という貴重な古文書が濡れてしまいまったのです。浅野文庫は、旧広島藩主の浅野家から譲り受けた、江戸時代の文献です。
 これは放置しておくことはできないと思い、6月3日に図書館を訪れました。市民局の生涯学習課長、そして図書館長と副館長が同行しました。
 
 雨漏りについての視察のため屋上に向かったのですが、その前に色々な点が目に付きました。
 
 事務所の前の階段には、大学から借りた資料と捨てる予定の古本がごっちゃになって置いてありました。そのため階段は半分ふさがってて通れません。 
 壁のなかに設置された、消防用のホースの収納庫の前にはテーブルがあり、ふたが半分しか開きません。
 消火器の前にはついたてがあり、消火器が隠されていて、すぐには分かりません。 
 色々と気になり、これらを館長、副館長に指摘しました。目的は屋上なので引き続き進みました。
 
 閲覧室に向かうには中央廊下から階段が10段ほどあり、車椅子を使う人はリフトで上がっていく構造になっています。「リフトをご利用のかたは、係員を呼んでください。」という張り紙がありました。一人ではリフトに乗れないので、人の手を借りることが必要なのです。
 
 「呼んでくれといっても、閲覧室にいる係員を呼ぶには閲覧室まで上がっていかなければならない。車椅子を使うひとは、上がれません。大声で叫んで呼ぶのですか。」と、館長に尋ねました。
 すると副館長が、「呼」ボタンを押すのですと教えてくれました。
 
 「呼」を押して時計を見ながら待っていました。誰も来ません。2分たったころ、副館長がたまりかねて「呼」を押し続けました。その間でも、誰も出てきませんでした。しびれを切らした副館長が、係員を連れてきました。
 係員によると、ベルの絵が描いてあるボタンを押すと、閲覧室に音楽が流れるのだそうです。それが流れると、係員は降りていってリフトを操作します。
 それなら、ベルの絵のボタンを押してくださいと書いておけと指摘しました。呼びたいのなら「呼」ボタンを押すと思いますし、現に副館長は「呼」ボタンを押せば、係員がやってくると思っていました。
 「呼」はリフトを呼ぶボタンで、階段の上にいたリフトが下りてきただけでした。

 
 さらに驚いたことがありました。
 3階から4階に行く階段に、張り紙がありました。
「傘を干す人は、邪魔にならないよう片側に寄せて干してください。」

 私はあきれ果てました。
「公共施設の階段は、いつから傘干し場になったのですか。市役所の階段や、市民病院の階段に傘がほしてありますか?」
 館長も、副館長も二の句が告げない様子でした。館員は図書館を自分の物だと錯覚しているとしか思えません。

 まだあります。
 非常口と表示された避難用ライト。火災中停電になっても点いている、緑色のライトです。
 廊下の突き当たりに避難用ライトが点っているのですが、その手前にはもれなく、
「関係者以外立ち入り禁止」
 と書かれたついたてが立っていました。

 「非常口が立ち入り禁止だと、火災のとき非常口に立ち入れなくて、焼け死ぬのではないですか」と問うと、館長も副館長も下を向いていました。
 とにかく、来館者を事務室や厨房などに極力近寄らせないという意識が強いようでした。

 なかなか雨漏りにたどり着きません。

 次回に続きます。

2011年6月16日木曜日

京橋町の市街地再開発事業

 16日の夕方に帰宅すると、電話がかかってきました。広島市都市整備局の住宅政策課長からでした。京橋町の市街地再開発事業について、事業の施行認可が下りるので、説明したいと言うので自宅に来てもらいました。 
 若草町の市街地再開発では、シェラトンホテルが入居している高層ビルの施行者であるダイワシステムが倒産。広島市が40億円の無利子貸付を行うなど、市街地再開発は悪戦苦闘中です。

 京橋町の6番地に、京橋会館という店舗付き市営住宅があります。かなり老朽化が進み、建て替えが急務となっていました。ここ数年で事業化が進んで、今年3月に都市計画決定がなされました。それを受けての事業認可です。 
 京橋町の建物は地上21階建てです。1,2階はデイサービス、歯科クリニック、保育園。3~5階は、28戸の高齢者向け市営住宅。6~9階は、64戸の高齢者専用賃貸住宅。10~21階は、72戸の分譲住宅です。

 施行者は広島京橋開発企業体で、(株)レガロホテルシステムなど4社です。この企業体が設計や入居者の募集などを行うそうです。土地と建物を所有していた広島市は、権利者として3~5階を所有します。総事業費は42億4千万円です。

 この開発企業体が事業不振となった場合、どうなるのかと聞きました。課長は、開発企業体と西松建設とが基本協定を結んでおり、企業体による事業の継続が断念された時には、特定業務代行の西松建設が建物を買い取ることになっているから安心だと説明しました。

 その基本協定書を見せてくれというと、持って来ていないと言います。
 総事業費42億4千万円の内訳を聞くと、分からないと言います。
 一体何を説明に来たのかと尋ねると、役所に帰って資料を整えてから説明したいと言います。

 それでは、一旦帰庁して準備が出来たら電話で呼んでくださいと言い、帰ってもらいました。

 1時間後、課長から電話がかかってきました。
 実は基本協定書については区画整理課長の所管で、私の所管では無いと言います。そして、区画整理課の人間は誰もいなくなっていて説明できない、明日説明させて欲しいと言います。

 「あなた、さっきなにを説明にきたんですか。あなたの所管でないなら、なんで区画整理課長が来なかったんですか。それで、明日は何時から説明してくれるんですか。」

 「明日の時間は分かりません。」

 私は課長にからかわれている気持ちになりました。
 事業説明の段階ですらこんないい加減なことでは、42億4千万円の事業は目茶苦茶になってしまうでしょう。

2011年6月15日水曜日

ミュージカル メンフィス

 NHKの衛星放送では、ブロードウェイ・ミュージカルを放送しています。演劇やミュージカルの優秀作品に与えられるのがトニー賞で、先日は2010年にトニー賞を受賞した「メンフィス」を見ました。

 さすがに、ニューヨークのブロードウェイのトップスターたちの共演は、素晴らしいものがありました。特に、ダンスのダイナミックさには魅了されました。激しい動きのみなもとは、鍛えられた肉体です。どの俳優も筋肉の付き方が半端ではありません。

 ストーリーの展開は他愛も無いものでした。人種差別の激しいテネシー州のメンフィスで、白人男性のディスクジョッキーと黒人女性の歌手とが、差別や偏見にさらされながらも強く生きていくという話です。
 フィナーレでは、成功した歌手がメンフィスでリサイタルを開きます。そこにディスクジョッキーが飛び入りで歌い、ステージを盛り上げます。
 
 途中の複雑ないきさつはさておいて、ハッピーエンドで終わります。どうやらアメリカのミュージカルや映画などは、こういう楽観的なパターンが多いようです。

 一方、フランス映画はラストで主人公が死んだり、主人公の彼女が死んだり、非常に悲観的な終わり方をします。以前このブログでも紹介した「望郷」では、主役のジャン・ギャバンが自殺して終わります。「ヘッドライト」では、ギャバンの恋人役のフランソワーズ・アルヌールが病気で死にます。

 イタリア映画はというと、今辛くても明日があるというメッセージの映画が多く見受けられました。
 「ブーベの恋人」では、ヒロインのブーベ(ジョージ・チャキリス)が、殺人犯となって獄につながれます。映画の後半は婚約者(クラウディア・カルディナーレ)が、牢獄に通う場面が延々と映ります。

 「出獄するあてもないのに、どうしてそんなに通うんだ。」という問いに、婚約者はこう答えます。

 「私は、ブーベの恋人だから。」

 映画はここで終わります。今は絶望していても、きっと将来は開けるという話です。


 最後にロシアの小話を紹介します。
 ベルリンの壁の崩壊後、インフレが厳しい時代の話です。

 「今日も厳しい日だったなあ。」
 「ああ、本当に厳しい一日だった。でもさ、あの日よりゃましだ。」
 「あの日って、一体いつのことだ。」
 「明日だ。」

2011年6月12日日曜日

犬を飼うということ

 私が最近見ている連続ドラマは、「犬を飼うということ」です。10日が最終回でした。

 ある日、小学1年生の女の子である眞子(まこ)は、捨てられていたポメラニアンを拾ってきます。父親(錦戸亮)と母親(水川あさみ)は、あまり深く考えずに承諾します。眞子の家からはスカイツリーが見えるので、スカイと名づけました。
 眞子は皆にこう言います。「私がスカイのお母さんよ。」


 スカイを飼い始めて、いろいろな事件が起きます。しかしそのつど、家族はきずなを取り戻して行きます。 
 最終回、スカイは病気で死んでしまいます。
「これからもスカイは家族だよ。」と父親はたんたんと語ります。

 特別ではない家庭の日常を描いた傑作だと思います。

 
 昔、我が家でも犬が飼われていました。名前はエルでした。曾祖母が出かけた時に、家までついて来て離れなかったので、飼うことにしたのだそうです。
 おとなしい犬でしたが、ある日私が小学校に行っている間に死んでしまいました。帰ってみたらエルの姿はありませんでした。庭に埋めたと聞かされました。

 10年くらい経って、家を建て替えるときに地中から犬の骨が出てきました。エルの骨だったのです。

 とてもかわいそうで、それ以来犬を飼うことはありませんでした。

2011年6月6日月曜日

消防上下水道委員会

 6月6日、私が所属している消防上下水道委員会の会合がありました。選挙後初の会合です。議題は、5月12日に安佐南区長束で発生した、小学生3名の水死事故でした。
 子どもたちは下水道局の管理する雨水用の管きょ(トンネル)を通って、新安川へ侵入したと説明されました。

 私は質問に立ち、
「事故以前に、下水道局はこの管きょのパトロールは行っていたのですか。」
と、たずねました。以下、委員会のやり取りです。

 下水道局管路課長「安佐南区の下水道課がパトロールしています。ただし、この管きょに人が入るという認識はありませんでした。」

 自分たちの管理する施設で子どもが3人も死亡したというのことは大変な事故です。事の重大さが認識されていないように感じました。

 また、6月6日までの期限付きで、水道局所管の管きょについて調査させているそうです。委員会では調査させていると説明がありましたが、日付はあえて報告しませんでした。質問されると困るからでしょう。

 ついで消防局に質問しました。
「この子どもが死亡した管きょや新安川について、危険との認識はあったのですか。」

 消防局防災課長「消防局のパトロールは、洪水や土砂崩れの危険についての情報を集めるためにやっています。」

 安佐南消防署は事故前日の11日、新安川をパトロールに行ったそうです。そこで異常なしと判断し、翌日の12日はパトロールに行かなかったとのことでした。しかし、消防局がこの事実を知ったのは6月6日の委員会の後でした。一ヶ月近くも経つのに、現場の報告が全く上がっていません。

 5月10日は大雨が降った日でした。当日、私は太田川源流の廿日市市吉和に行っていましたが、まさに豪雨でした。
 下流の新安川は11日に異常がなくとも、翌12日のほうがかえって水量が増えて危険だったのかもしれません。事故の後ですが、そのように思えてきました。

 消防局の危機管理部長も、洪水と土砂崩れの危険地帯以外に、どうして消防がパトロールしなければならないのか理解できていませんでした。子どもが3人も死亡したのに、消防局はあまりに冷淡です。

 こんなことでは、市民の生命と安全は守れません。

連続無失点記録

 広島カープが連続無得点記録を更新する一方で、日本ハム・ファイターズが52イニング連続無失点の日本タイ記録を樹立しました。こちらはカープと違い、立派な記録です。

 先発投手陣は、ダルビッシュ、ウルフ、ケッペル、吉川、そして特に武田勝が素晴らしい投球を披露しています。中継ぎ陣、抑えの武田久も、役割をしっかり果たしています。
 今までの記録は、1942年阪神タイガースがうち立てていました。この年の阪神の順位は、巨人、大洋についで8チーム中3位でした。

 この時代は太平洋戦争の最中で、どのチームも主力選手を兵役に取られていました。

 阪神の主力からは、巨人の沢村栄治と投げあった西村幸生投手。そして、漫画「あぶさん」のモデルとして有名な、景浦将投手兼内野手。いずれも1939年かぎりで、試合に出場することはありませんでした。
 ミスター・タイガースと言われた藤村富美男内野手も、この42年は兵役のため出場はありません。

 42年は、監督兼エースの若林忠志が26勝12敗、御園生(みそのお)崇男が13勝16敗、木下勇が7勝7敗。藤村富美男の弟、藤村隆男が3勝5敗と頑張り、チーム防御率は1.75でした。
 これだけの防御率でもリーグ4位。チーム打率は.204ですが、リーグ2位でした。
 戦争中の物資不足で、飛ばないボール、飛ばないバットの時代でした。

 沢村も西村も景浦も南方で戦死し、二度と野球をすることはありませんでした。他にも数多くのスター選手が、戦争で帰らぬ人となりました。
 明日をも知れぬ命の中、何を考えながらボールを投げ、打ち返し、グラウンドを駆け抜けたのでしょうか。全く想像がつきません。

 戦争のない平和な時代だからこそ、野球だけに集中した、ひたむきなプレーを期待したいものです。

2011年6月5日日曜日

無得点記録の更新

 プロ野球交流戦も、たけなわとなってまいりました。ここにきて広島カープは、50イニングス連続無得点のセ・リーグ記録を打ち立てました。まことに不名誉な記録です。日本記録は、1953年大映スターズが記録した59イニングス無得点です。

 この年の大映は弱小チームだったのかと思い、色々と調べてみました。しかし、南海ホークス、阪急ブレーブスについで、7チーム中3位のAクラスでした。
 さすがに貧打ではあったようで、チーム打率が.237で6位。しかも、この年のホームラン王である西鉄ライオンズの中西太の36本に対し、大映は規定打席に到達した6人を合計しても23本にしかなりません。ホームランの打てないチームでした。 

 しかしチーム防御率は、2.67で1位でした。エースの林義一が17勝11敗、姫野好治が13勝12敗、ビクトル・スタルヒンが11勝9敗、高松利夫が9勝9敗、小川善治が6勝8敗と、投手陣が揃っていました。少々打てなくても、ピッチャーが抑えて勝つというチームだったのでしょう。

 監督の藤本定義は、1936年のプロ野球発足以来、巨人軍をはじめとする名門の監督を歴任したベテラン監督でした。特に投手の養成や起用法に秀でていました。

 私は1960年代の後半から、巨人・阪神戦をテレビで観ていましたが、阪神の監督としてベンチに立つ、高齢の藤本監督を思い出します。村山実、江夏豊、ジーン・バッキーらを擁してV9巨人に向っていった姿は語り草です。当時の阪神も貧打のチームでしたが、この時も1,2点取れればピッチャーが抑えて勝つというチームでした。

 今のカープは、1,2点とれれば勝つというチームとは違います。
 また、こうもころころと選手を替えてしまっては、選手は信頼されていないと感じるでしょうし、何を目指しているのかも見えないでしょう。
 
 どのような野球で勝負するのか。それをはっきりさせることは、目先の結果よりも大事なことだと思います。