2011年7月30日土曜日

原対協と聖徳太子

 原対協(広島市原爆障害者治療対策協議会)は、1953年被爆者への医療を組織的に行おうと医師会や広島市が中心となって発足させました。濱井信三・広島市長が会長に、松坂義正・広島県医師会長が副会長に就任しました。以後、歴代の広島市長が会長を務めてきました。
 
 ところが、1999年に就任した秋葉忠利市長は会長に就任できず、代わって杉本純雄副会長が会長に就任しました。現在の松井一實市長も会長ではありません。

 「広島市と原対協が請負関係なので市長と会長の兼務ができない」という広島市の担当者の説明ですが、私には理解できません。
 1953年当時の広島市は財政に余裕が無く、国から被爆者支援の補助金を獲得する必要がありました。ところが、原対協を医師会のメンバーだけで運営すると、国から補助金を貰えなくなる懸念がありました。そのため、市長を会長に頂く必要があったと聞いています。
 そこには、中央政府や国会議員、厚生省の官僚などとの丁々発止のやり取りがあったと思われます。水面下の決定だったかも知れません。

 それが、ただ請負関係にあるという陳腐な理由で、原対協発足に心血を注いだ先人の努力が無に帰すかと思うと泣けてきます。広島市の原爆被害対策部の調査課長に原対協発足のいきさつを尋ねましたが、全く知りませんでした。おそらく部長も同様でしょう。
 わずか58年前の、広島の被爆者援護における重大なエポックを、市の担当職員は誰も知りません。

 593年、聖徳太子が推古天皇のもと摂政となり、三宝興隆の詔(594年)、冠位十二階の制定(603年)、憲法十八条の制定(604年)、遣隋使の派遣(607年)など画期的な政治を行いました。1400年以上も前の出来事が事細かく記録に残されており、日本人はみんな知っている出来事です。
 1400年前の日本史上画期的な出来事を国民はみんな知っているのに、広島市の被爆者援護における画期的な出来事を市の職員は誰も知らず、別に知らないでも構わないという態度です。
 
 8月6日までは忙しいから調べられないと課長は言いましたが、むしろこのような重要な出来事は8月6日までに調査して、鮮明にしておくべきではないでしょうか。見識を疑います。 

2011年7月24日日曜日

日馬富士の優勝

大相撲名古屋場所は、大関・日馬富士が14勝1敗で2度目の優勝を飾りました。今場所はまさに気力充実。連日、頭を下げて前まわしを取り喰い下がるという得意の形に持ち込んで、14連勝をとげました。
 日馬富士はしばらく怪我で低迷していましたが、今場所突如として快進撃を続けました。
 一方、優勝候補の筆頭であった横綱・白鵬は、12勝3敗に終わりました。お尻や背中の肉にやや張りが無く、力を落としている印象でした。
 大関を目指した関脇・琴奨菊は、白鵬を破ったものの終盤2連敗し、大関昇進のチャンスを棒に振りました。

 これらの結果が、すべて本気で取った相撲なら素晴らしいと思います。
 ここからは、あくまで筆者の推測です。

 どうやら日馬富士を優勝させたグループの存在があるようです。引退したとはいえ、元横綱・朝青龍の存在は、モンゴル力士の間では絶大です。特に、日馬富士は朝青龍の信奉者です。

 その朝青龍が13日目の夜、日馬富士に電話をかけたそうです。
 
 「心配ないから、自分の相撲を取れ。」
 
 そのとおり、日馬富士は自分の相撲に徹して白鵬に勝ちました。同じく朝青龍を信奉する、関脇・鶴竜と最古参の前頭2枚目・旭天鵬が協力したと思われます。もう一人、日本人力士の前頭3枚目・安美錦。彼は日馬富士と同じ伊勢ヶ濱部屋の所属です。当然協力すると思われます。そのため、旭天鵬も安美錦も2勝13敗の成績でした。いろいろ符合しているように思えてきます。

 一方の琴奨菊は、把瑠都、白鵬、鶴竜を連破。うまく運んでいたのですが、平幕の隠岐の海、若の里に連敗してしまいました。
 隠岐の海と若の里は、おそらくガチンコ力士なのでしょう。琴奨菊の固さが、二人との対戦では際立っていました。大関昇進は、見送られました。

 間違いなく15日間ガチンコを通したのは、稀勢の里でしょう。千秋楽の一番は、大熱戦の末に日馬富士の全勝優勝を阻止しました。ガチンコ力士の面目躍如です。

 来場所、日馬富士は連続優勝を遂げて横綱に昇進するのでしょうか。
 琴奨菊は大関昇進をつかむのでしょうか。
 関脇で10勝をあげた鶴竜、稀勢の里にも大関の声がかかります。

 4人とも、本当の実力で今場所以上の成績を収めれば、立派に昇進できるでしょう。
 今から秋場所が楽しみです。

2011年7月22日金曜日

相撲存亡の危機

 7月の名古屋場所は、半年振りの本場所となりました。3月の春場所は中止、5月場所は技量を見るだけで興行は行わない場所でした。この名古屋場所が不評だと相撲はもう見られないのではないかと思い、名古屋へ駆けつけました。

 さすがに名古屋は暑く、会場の周囲もあまり人がいませんでした。切符を切ってもらう入り口に行くと、親方が二人、それぞれの入り口に座っています。一人は元・栃の和歌(とちのわか)の春日野親方。もう一人は定かではありませんが、たぶん元・富士の真(ふじのしん)の陣幕親方だったのではないかと思います。

 陣幕親方は私の切符を切ると、半券を返さずにじっと見ています。ひょっとして、日にちが違ったのか、何か問題があったのか不安になりました。ずいぶん経って、親方は自分の後ろを示しながら、
 「あなたの席は東ですから、後ろの階段を上がってください。取り組み表は、そちらにありますのでご自由におとり下さい。ストラップも無料で配っていますので、どうぞ受け取ってください。それではどうぞご入場ください。」
 と、半券を返しながら案内してくれました。切符の小さな文字を読んで、私の席を教えてくれたのです。

 土俵の充実はもちろんですが、協会を支えている親方自らホスピタリティを発揮して、奮闘しておられました。一人一人のお客さんを大切にする親方の姿勢に、非常に好感を持ちました。

 残念ながらその日は3割程度の観客で、大変淋しい入りでしたが、地道な努力が人気の巻き返しにつながると思います。

2011年7月21日木曜日

市民球場の公衆トイレ

 カープファンおなじみのマツダスタジアム。正面の敷地内には公衆トイレがあります。
 昨年、一昨年と、予想を上回る来場者がありました。ビールを大量に飲む観客も多く、試合終了後にトイレに行きたくなるのです。広島駅に着くまで我慢できないので、多くの観客が駅までの道中、暗がりや駐車場で用を足していました。
 球場周辺の皆さんから苦情が寄せられ、新球場周辺整備の担当課長に依頼して、このトイレを設置しました。財源はもちろん広島市の税金です。トイレの所有者は広島市で、管理者は広島カープです。
 
 そのカープが、トイレの使用時間を一方的に午前9時から午後5時までに設定し、5時から翌朝9時までは施錠してしまいました。

 新球場周辺は、ジョギングをする人、ウオーキングをする人、ベンチで休む人、談笑する人で、早朝から夜間までにぎわっています。もちろんその中にはトイレに行きたくなる人もいます。早朝にトイレが使えないので、やむなくトイレでない場所で用を足す人も目撃しました。トイレが使えなくて困っているので、24時間開放すべきではないかと思います。

 公園にある公衆トイレは24時間開放されています。これは条例でそのように規定されているのです。ビッグアーチの内部は違いますが、広域公園内のトイレは24時間電気がこうこうと灯っています。
 
 なぜマツダスタジアム敷地内のトイレは、管理者が良いように時間限定使用に出来るのでしょうか。まるで、市民の財産をカープに奪われたような気がしてなりません。
 お金を払って試合を見に来る人だけがカープファンではありません。球場に来て周辺で憩う方々も、立派なカープファンです。
 カープ球団は大いなる思い違いをしています。ファンを上からの目線で見ているのではないでしょうか。

2011年7月18日月曜日

なでしこジャパン、世界一

 女子サッカーの日本代表チーム「なでしこジャパン」は、決勝戦でアメリカを2対2からのPK戦で破り、世界一に輝きました。見事な勝利でした。

 私は午前3時に起床して、試合開始からテレビを食い入るように見つめました。

 事前の予想ではアメリカ優位が伝えられており、日本の苦戦は必至の形勢でした。
 開始当初はアメリカ攻撃陣のシュートの雨に苦しみましたが、次第に日本らしい細かいパスをつながるようになりました。サイドを攻めたり中央の突破を試みたり、好勝負の様子になってきました。

 前半は0対0で折り返しましたが、後半24分に試合が動きました。
 
 アメリカは自陣からモーガンへのロングパスを通し、ゴールを決められてしまいました。
 11分後、日本は右サイド攻撃から丸山選手がゴール前に飛び込んで混戦となり、相手のクリアミスを、いつの間にかゴール前に詰めていた宮間選手が左足で蹴りこみました。
 
 前後半終わって1対1の同点。試合は延長戦に入りました。

 延長戦前半14分、アメリカは長身のワンバク選手がヘッディングでゴール。さすがにこれで負けたかと思いました。
 しかし、延長戦後半12分、日本は左コーナーキックから宮間選手が低いボールを入れると、ボールに向けダッシュしていた澤選手が右足でゴール。素晴らしいシュートでした。チームが危機にあるときに、チームを救うのがエースです。澤選手は、まさにエースの仕事をしてくれました。

 延長戦でも決着はつかず、最後はPK戦にもつれ込みました。キーパーの海堀選手の活躍で、日本は3対1でPK戦を制してワールドカップ初優勝を飾りました。

 背の低い女の子たちが、体格に勝る外国の選手を抑えて世界の頂点に立ちました。本当に立派でした。
 惜しみない賞賛の拍手を送りたいと思います。

2011年7月13日水曜日

公用車の自動車保険金額

 広島市企画総務局の調査によると、広島市には1901台の公用車があります。そのうち589台は二輪車です。自賠責自動車保険は、100パーセント加入していますが、任意の自動車保険に加入しているのは404台で、わずか21パーセントです。
 1497台の公用車は、無保険の車両ですので市民のみなさんは、公用車に近づかないようにしてください。また公用車に同乗するよう誘われても、決して乗らないようにしてください。

 政令指定都市18市のうち、全車両が加入しているのは15市です。2市は一部加入で,
残る1市は部局ごとに加入していて把握しきれていないそうです。

 都道府県では、全車両が加入していないのは7都道府県のみでした。ほとんどの自治体は全車両が加入しています。広島市は特異なケースだと言えます。

 企画総務局の総務課長に加入しない理由を聞くと、「22年度の賠償金額が507万円だったのに対し、全車両を加入させた場合の保険金は1957万円と試算しています。加入しないほうが安上がりだからです。」と説明しました。
 では事故の対応は誰がするのかたずねると、「事故を起こした本人が所属する課にて、対応しています。」と答えました。

 事故後の対応は、まったく経験の無い職員がしているわけですから、本人も上司の課長も本来の仕事が出来ません。その損失は勘定には入れていません。
 また、保険料が1957万円かかるという根拠は、1台あたりの保険金額に車両台数を掛けて算出しています。全車両で契約した時の割引は勘定に入れてません。一般競争入札に付した場合の経費節減も勘定に入っていません。
 総務課長の説明には、全く説得力がありませんでした。

 無保険の車など恐ろしくて、運転はおろか同乗もできません。
 総務課長の自家用車は任意保険に入っているそうです。年間数万円の保険金を払うのならば、保険に加入せずに自家用車を運転し、示談交渉も自分でされれば安上がりでよいのではないかと思います。
 
 消防局の施設課長には、保険に加入する重要性を1時間説明しても理解してもらえませんでした。自分の自家用車は任意保険に加入しておきながら、部下の車は「無保険で良い」などと、よく言えたものです。

 保険に加入している車について、正確な契約内容を担当課長は誰も把握していないことにも驚きました。水道局、消防局、農業委員会、農林水産部、市長秘書課。それぞれの公用車に、職員以外の市民が乗る場合もあります。搭乗者が死亡したり負傷した時の補償については、誰も知りませんでした。
 議会事務局も、市内視察の時に借り上げるマイクロバスが、どのような自動車保険に入っているのか知りませんでした。

 総務課長には、保険の全車両加入について検討するよう話しておきました。いずれ新しい結論が出ると思います。
 いや、出させます。

2011年7月11日月曜日

無保険の公用車

 広島市は、1901台の公用車を所有しています。
 1901台のうち、救急車、はしご車、ごみ収集車など404台は任意保険に加入していますが、908台は未加入です。松井市長の専用車はリースだそうですが、任意の自動車保険に入っているそうです。残りの589台は二輪車で、自賠責保険のみ加入しています。
 
 つまり、通常の公用車のほとんどが無保険の車です。人身・物損事故を起こすと、運転者の所属する課の課長などが事故対応にあたります。賠償額は、過去の判例に基づいて積算するそうです。
 
 しかし、どの職員もどの課長も、事故対応には不慣れなはずです。誰かアドバイスする人間はいるのかと企画総務局の総務課長に尋ねたところ、「うちに警察の交通課のOBがいます。法務課にもアドバイスを仰ぎます。」と答えました。
 ならば法務課長に聞けば、いつでも相談を受けますと勇ましく答えるのかと思ったのですが、「総務課に警察のOBの人がいるはずです。そちらが詳しい。」といいます。

 警察のOBは、地域での交通安全教室などがもっぱらの仕事のようです。事故対応については素人も同然でしょう。
 常識からかけ離れた賠償額で示談に至っているのではないかと思います。事故に遭った市民や家族が、不当に安い賠償金で泣き寝入りしたケースも無いとは言えません。

 私は、よく公用車に乗せてもらい、八木用水や農地などの視察に行きます。このとき搭乗した公用車は、もちろん無保険でした。

 そんな最中に、私が交通事故で死んだとします。残された妻は賠償金を要求するでしょう。事故を起こした部局が賠償金額を提示します。経済局なら5千万円、病院事業局は1億円、教育委員会は2億円、道路交通局は1千万円、南区役所は1千五百万円などと、ばらばらの提示をすることが予測されます。

 このようにバラバラの賠償額の提示をされるようでは、事故死することに備えて各局からあらかじめ賠償金額を提示してもらい、公用車に乗るか乗らないか決めなければなりません。死亡する本人が死亡後の示談交渉をして、公用車に乗って視察に行ったりする事になります。こんな奇妙きてれつな話が広島市の常識なのです。

 他の政令市は、18市中15市が全車両加入でした。都道府県でも7つだけが未加入で、他は全車両加入でした。保険に加入するのが常識だと思います。

 市民の皆さん、くれぐれも公用車に乗らないように気をつけて下さい。救急車も怪我をした方だけが乗って、家族の方は保険に入った車で病院に向かった方がいいでしょう。
 役所の皆さん、市民や議員を公用車に乗せないでください。乗せるのであれば、1日も早く任意保険に加入してください。お願いします。
 

2011年7月10日日曜日

ワールドカップ・ドイツ大会

 7月9日に行われた、サッカーの女子ワールドカップ・ドイツ大会の準々決勝で、日本チームは地元ドイツを1対0で下し、準決勝に進出しました。素晴らしい勝利です。

 私は明け方に眼を覚まし、後半から観戦しました。身長でも体格でも日本に勝るドイツは、高いボールをゴール前に入れて得点を目指しました。しかし日本は厳しいマークで対抗し、フリーにさせない守備で失点を許しませんでした。クリアのボールが敵に渡ってしまう場面もありましたが、すかさず詰めてフリーを作らせませんでした。

 日本の攻撃の特徴は、スピードや敏捷性、正確なパスです。0対0の延長後半、澤選手が前線に出したパスを丸山選手がそのまま持ち込みました。ゴール右側から角度の無い位置でしたが、正確にゴールネットを揺らしました。
 眠い中でしたが、眼の覚めるシュートとはまさにこのことでした。以後はドイツの猛攻に苦しみましたが、しっかりしのぎ切り、日本に勝利をもたらしました。

 私は若い人たちに混じってフットサルをやっていますが、女子サッカーは大変参考になります。
 クリアボールは明確に外へ蹴れだとか、パスが敵に取られたらすぐに詰めろだとか。それができないと、直ぐに失点につながることも良く分かりました。
 実際に自分がプレーしているので、テレビの試合も大変面白く観戦できました。

 その対極にあるのが大相撲です。
 今日から久しぶりのテレビ中継ですが、八百長疑惑の中、どのような相撲を取るのか注目です。3歳から49年間も相撲を見ていますので、本気か本気でないかは、少しは分かるつもりです。
 本気でない相撲には、がっかりさせられます。真剣勝負を期待したいと思います。

日中韓の連携

 先日、広島の大学で教鞭をとっておられる金文学先生と、久しぶりにお会いしました。
 金先生は、中国の瀋陽市の出身で朝鮮族の三世です。29歳で来日し、比較文学や文化人類学を専攻されました。日本・中国・韓国の三つの文化について、面白く比較した著書を多数出版されています。
 以前、私が「東アジアを語る会」というサークルに属していた時に、主宰されていたのが金先生でした。大変懐かしい再会でした。

 ちょうど私が犬養毅をブログに取り上げていたので、犬養が話題になりました。
 犬養は漢学の素養を持ち、アジアの政治家に知己を持っていました。犬養の師であった福沢諭吉が、朝鮮の革命の志士・金玉均を庇護したと同様に、犬養も中国の革命家孫文に物心両面から支援を送っています。

 以前とりあげた伊藤博文は犬養とは政治的な立場が異なりますが、朝鮮の経営に関心を抱きました。朝鮮統監となって、朝鮮の政治改革を進めようとしました。もちろん、宗主国である清国の政治家李鴻章とも個人的に友好関係を持ち、またロシア政府とも交際して用意周到に朝鮮の改革に着手したのです。

 犬養も福沢も、伊藤も伊藤を暗殺した韓国人の安重根も、大アジア主義を唱えたり、アジアの連携を目指したりしていました。孫文も金玉均もそうでしたが、成功したとは言えませんでした。

 伊藤の暗殺後、日本では山縣有朋・桂太郎・寺内正毅ら軍人政治家が韓国を併合しました。さらに昭和になって、板垣征四郎や石原莞爾らの関東軍の高級参謀が満州事変を起こし、満州国を建国します。武力による侵略をまっしぐらに進めて行ったのです。

 日中韓の連携をうたっていた犬養は、総理大臣となって日中の連携を基軸に満州事変を収束させようとします。しかし、侵略を続けたい軍部の一部によって、五・一五事件で暗殺されてしまいます。

 犬養の思想や福沢の「脱亜論」、伊藤の構想などが組み合わされて、これが侵略戦争の先棒を担いだという見方もありますが、あまりに皮相的な視点と言わざるを得ません。

 そのあたりを、金文学先生が近々著書の中で明らかにされるそうです。楽しみです。

2011年7月6日水曜日

犬養毅

 先日、岡山県の庭瀬にある犬養木堂記念館に行ってきました。江戸時代に建てられた生家と、平成5年に建てられた記念館がありました。特に、生家は代々の庄屋であった犬養家にふさわしい堂々たる建物で、保存状態も良好でした。
 これは犬養の子孫の方々が、岡山県に寄贈したものです。広島市にも加藤友三郎や早速整爾といった大政治家がいましたが、生家は原爆で焼失しました。犬養家が保存されているのは、うらやましい限りです。

 犬養木堂こと犬養毅(1855-1932)は、明治・大正・昭和を通じて活躍した政党政治家です。慶応義塾で福沢諭吉に学び、任官したあと明治14年の政変で大隈重信とともに下野。翌年の立憲改進党設立に参加しました。そして35歳だった明治23年、第1回衆議院選挙に岡山県第三区から当選しました。以降連続19回当選、42年の間衆議院議員として活躍し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれました。

 犬養は、立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党、革新クラブに所属。政治家としてのほとんどの時間を反政府、野党の党首や幹部として過ごしました。野党の党首として、時の首相に国会で論戦を挑みました。その姿はオオカミとあだ名され、政府首脳に恐れられたものです。

 立憲民政党の濱口雄幸首相に対し、犬養は野党、立憲政友会の党首として質問に立ち、濱口もそれを受けて立ちました。新聞各社はそれぞれのあだなで、ライオン対オオカミの対決と評しました。
 議会の論戦に堪えうる質問や答弁は、学問の素養、日々の研鑽、いかに自分の思いを言葉に込めるかという三点で決まってくるでしょう。

 首相となった犬養は5・15事件で海軍青年将校に射殺されます。撃たれる前に、「話せば分かる」と将校らを諭そうとしましたが、「問答無用」と撃たれてしまいました。心から言葉を尽くせば、将校らを説得できるとの自信を持っていたのです。

 過去の政治家に比べれば、現在の政治家の言葉がいかに軽いことか、嘆かわしい限りです。 このたびの松本龍大臣の被災者に対する言葉、松井一實市長の被爆者に対する言葉。とても政治家の言葉とは思えません。

 松本大臣は早々に辞任しました。松井市長はどうされるのでしょう。
 私は12月の議会で、直接市長に質問します。誠心誠意挑みたいと思います。

2011年7月2日土曜日

ピンク・レディー

市議会も終了したので、7月1日は嫁さんとコンサートに行きました。ピンク・レディーのコンサートです。
 彼女たちは私よりも1歳年上です。二人は一生懸命歌い、踊っていました。客席は私と同世代の人と、当時まだ子どもだった40歳くらいの人でいっぱいでした。7対3ぐらいの割合で女性が多かったように思います。

 ピンクレディーの全盛期は、私が学生の頃でした。
 大学時代、野球部合宿の打ち上げでの定番は、沢田研二、西城秀樹、そしてピンク・レディーでした。合宿所を揺るがす大騒ぎとなり、近所の方には大変な迷惑を掛けました。
 
 ピンク・レディーの曲はみんなが知っていて、誰もが歌えました。それほどの大スターでした。
 私の好きな曲ベスト3は、
・1位S・O・S
・2位透明人間
・3位サウスポー
 です。
 S・O・Sはデビュー2曲目のヒット曲で、振り付けが面白い曲でした。特に、片手を腰にあて、もう片方は横に伸ばし、足はステップを踏む部分。会場で真似をしていると、抜き足差し足忍び足のようです。そして腰は左右に振ります。
 歌詞にあるように、オオカミと化した男性が、若い女性に忍び足で近寄ろうとしている振り付けのようでした。
 どの歌の振り付けも、歌詞と関連した意味があるようです。これはDVDで研究する価値がありそうです。

 ところで、ミーちゃんとケイちゃんとどちらが好きかと問われたら、ミーちゃんです。
 これにはちゃんと理由があります。
 大学1年のころの話です。その年、ピンク・レディーは大ヒット曲UFOで、日本レコード大賞を受賞しました。その1年生の1年間は、私にとって甘酸っぱい青春の1ページでした。

 何の事かわからないと思いますが、残念ながら紙面が尽きました。
 またの機会に。