2011年10月27日木曜日

北杜夫さん死す

 北杜夫(きたもりお)さんが、10月24日亡くなられました。享年84歳でした。

 医師で作家の北さんは、慶応大病院で精神科医を務める一方、作家として文壇デビューしました。
 代表作「楡家の人びと」は、青山脳病院の設立者である祖父・斎藤紀一、父で日本を代表する歌人で精神科医の斎藤茂吉など、北さんの家族をモデルとした本格小説でした。

 私が子どもの頃、NHKのテレビドラマで、この「楡家の人びと」をやっていました。
 このドラマには蔵王山という四股名の力士が登場しますが、この力士は実在します。昭和初期に活躍した巨人力士・出羽が嶽文次郎(でわがたけ ぶんじろう)です。
 山形県出身の茂吉は、同郷である文次郎少年を引き取って、旧知の出羽の海親方(元横綱・常陸山)に弟子入りさせます。

 「楡家の人びと」では、やや落ち目の出羽が嶽が、たびたび斎藤家を訪れるのですが、茂吉はその都度暖かく迎えてやるのでした。

 北さんには、こんなエピソードがあります。
 私が中学校の頃聴いていた「オールナイト・ニッポン」に、こんな投稿がありました。
 
 リスナーの大学生は北杜夫の小説を読み、心から傾倒してしまいました。小説家を目指し、まずは古本屋にバイトで勤め始めました。
 すると、ある日尊敬する北杜夫先生が、バイト先の古本屋を訪れました。
 感激した大学生は、胸をときめかせながらどういう言葉を掛けようかチャンスをうかがっていました。その時、北先生が言葉を掛けてきました。

 「お兄さん、そこのダイブツジロウさんの全集を取ってください。」
 
 大佛次郎氏は、「天皇の世紀」「パリ燃ゆ」などを著した文豪です。
 ダイブツジロウではなく「オサラギジロウ」と読みます。
 
 なぜ北さんが、ダイブツジロウと読んだのか。本当に知らなかったのか、北さん一流のギャグだったのかは不明です。
 ともあれ、この言葉に大学生は感激もときめきも一瞬に冷めてしまったそうです。

 そんな北さんでしたが、1998年に父・茂吉の評伝4部作で、大佛次郎賞を受賞することとなるのでした。

 

2011年10月25日火曜日

元寇船の発見

 長崎県の鷹島沖の海底から、元寇の時に襲来した元軍の軍船が発見されました。船底を上に沈んでおり、全長は約20メートル、総排水量は200トンから300トンではないかと言われています。

 元寇、すなわち蒙古襲来は、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたって行われました。鷹島沖の軍船は、弘安の役の際に襲来したものだと考えられています。

 当時の蒙古は、中国を支配した元、ロシアを支配したキプチャク汗国、イランを支配したイル汗国、中央アジアを支配したオゴタイ汗国、チャガタイ汗国と、世界最大の版図を誇っていました。

 中でも、元のフビライ・ハーンは最強の軍団を擁し、朝鮮の高麗、中国の金、南宋といった国々を支配下に置いていました。日本の運命も風前の灯火でした。

 文永の役では、鎌倉幕府はかろうじて元軍を退けました。しかし4年後に元軍は高麗の兵船4万人、南宋の兵船10万人を擁し、再び九州に迫りました。まさに日本滅亡の危機です。

 この時、鎌倉幕府は執権・北条時宗以下一丸となり、西国の御家人を総動員して元軍にあたらせました。京都の朝廷も、亀山上皇が福岡の筥崎宮に「敵国降伏」の額を奉納。全国の寺社では、蒙古討伐の祈祷がおこなわれました。民衆も大いに動揺し、日蓮宗などの新しい宗派の台頭を呼びました。

 まさに未曾有の国難です。私は、元寇は日本史上最大の危機であったと思います。
 明治時代の唱歌「元寇」の歌詞に、「国難ここに見る、弘安四年夏の頃」と歌われています。私たちの親たちは、みんなこの歌を歌っていました。

 さいわいにも暴風雨が来襲し、十四万の大軍は一夜にして海の藻屑と消えました。これを後世の日本人は「神風」と呼び、太平洋戦争の敗戦が明らかな末期においても、「いずれ神風が吹く」との妄想を戦争指導者に思い込ませ、政策を誤らせる結果となりました。

 野田首相はじめ、多くの与野党の政治家は、現在の日本の状況を、「未曾有の国難」と表現しておりますが、どこまで真剣なのかと疑問に思います。
 もしそうであるならば、民主党はもっと党内一致に努めなければなりません。野党も与党に協力せねばなりません。野田首相はいのちをすり減らして、奮闘していることでしょう。

 しかし、国難といいながらも、本当の意味での真剣さはうかがえないと思います。

 執権・北条時宗は、弘安の役の3年後に33歳の若さで世を去りました。肉体的、精神的ともに、巨大な重圧が時宗を襲ったものと思われます。まさに元寇が国難であった証拠でありましょう。

 政府や与野党に、さらなる真剣さを求めたいと思います。

2011年10月15日土曜日

内村選手三連覇

10月14日に開催された世界体操男子個人総合で、内村航平選手は金メダルを獲得し、体操史上初の三連覇を達成しました。素晴らしいことです。

 体操競技は一瞬のうちに勝負が決するスポーツで、自分自身とのすさまじい葛藤があるものと想像します。それゆえ、各選手の試技をかたずを呑んで見守ります。
 その日、私はテレビで見ていましたが、内村選手の特に跳馬の試技は素晴らしいのひとことに尽きました。着地の瞬間、思わずテレビの内村選手に向かって拍手を送っていました。

 内村選手は、以前の体操選手のイメージの「固い、真面目そう、悲壮感漂う」というイメージを打ち破りました。
 髪が長くて、チョコレートが好きで、喜怒哀楽もあまり表に出しません。それでいて、大技を決めて世界の頂点に立っています。世界のスーパースターとは思えない、いまどきのお兄さんという感じがします。

 何を考えているのか良く分からないところが、面白くて好きでした。今大会では、勝ちたいという気持ちが全面に出て、頼もしく感じられました。これからまだまだ強くなると確信しました。

 ところで、私の友人に内村選手と似た雰囲気の若者がいます。彼も、一見何を考えているのか分からないと言われています。
 地道に働いていますが、そのうち大化けして、皆が見上げる内村選手のようなビッグな人物になるのではと期待しています。

2011年10月8日土曜日

楽しいフットサル

 前回のブログでは、緊迫感の無い委員会の様子をお伝えしました。
 その日は20時から元宇品でフットサルをしました。

 顔見知りのメンバーもいますが、久しぶりの参加だったので大半は初対面です。何となく不安もあります。
 とりあえず5人で1チームを組みました。若手の男性3人と女性1人のグループに私が加わって、5人のチームです。ほとんど初対面なので、会話も無くよそよそしい感じでした。

 ところがどうでしょう。ゲームが始まると先ほどまでのよそよそしさは、吹き飛んでしまいます。
 若手3人が走りまくるので、私も負けずに走りました。やや下がり気味にポジションをとるので、攻撃と守備を行ったり来たり繰り返します。1試合の7分間過ぎたところで、すっかり打ち解けました。昼間の委員会でのもやもやは、どこかへ行ってしまいました。

 若手の活躍で優勢のため、チャンスと見れば攻撃に参加します。左側から混戦の中、右から来たこぼれ球を押し込みました。ボールがころころと緩く転がります。相手チームの選手はは戻れないので、「やった、ゴールだ!」と確信しました。

 ところがボールがゴールラインを越えようとしたところで、何と味方がとどめとばかりに蹴りこんでしまいました。
 「せっかくのゴールじゃったのに。」と言うと、「へへへっ、ナイスアシストですね。」と屈託無く笑っていました。若者は無邪気です。

 対戦したチームの人もあまり愛想は無いですが、帰るときにすれ違うと、「お疲れ様でした」と大きな声で挨拶してくれます。こういう瞬間も嬉しいです。

 走り続けることができるかぎり、フットサルを続けます。
 映画「七人の侍」の主人公、勘兵衛のこんな台詞があります。

「いくさでは、とにかく走れ。走れなくなったら終わりだ。」

 まったくその通りで、フットサルは走れなくなったら終わりだと思います。

 

22年度決算審査始まる

 10月7日、広島市議会は決算特別委員会を開催し、平成22年度決算の総括質疑を行いました。委員が入れ代わり立ち代わり質問に立ち、17時30分まで熱心に議論が行われました。
 
 各議員ともよく勉強されていると思いましたが、広島市当局の通り一遍の回答に食い下がらないため、迫力の無いやりとりでした。まるで立ち回りの無い時代劇を見ているようでした。

 松井市長も意欲的に答弁に立ちました。さすがに市長が立ち上がると、市長の一言で市の進む方向が変わるかもしれないと思い、背筋を伸ばして聞きます。

 しかし、厚生労働省の官僚出身らしい無味乾燥な答弁ばかりです。一体何をどうするのか、分かりません。
 質問者も、「広島市をどうするのですか。」と迫ればよいのに、質問しません。
 仇が登場して一太刀浴びせる絶好の機会なのに刀を抜かず、仇が通り過ぎるより前に自分が質問者席から立ち去ってしまいました。

 以前は、論客とも言うべき委員が独特の切り口で迫り、秋葉市長は持論を展開して緊迫した場面となっていました。一触即発の緊張感を味わったものです。

 私は、17日の建設関係の決算審査、18日の消防上下水道関係の決算審査で質問します。いずれも10時からの開会で傍聴もできます。

 「文句を言うのなら自分で質問しろ」という声も力にして、張り切って質問したいと思います。

2011年10月2日日曜日

9月議会終わる

 9月29日、広島市議会の9月議会が終わりました。
 6月議会に続き、論戦は低調に経過しました。それは、松井市長の提案が取るに足らないものばかりだったからです。
 市内電車の軌道敷に40メートルほど芝を植える。広島空港へ行くバスを宇品発にしたり、平和大通りのホテル群に立ち寄らせる。いずれも市民生活に密接に関係した議案ではありません。

 そんな中、最終日前日の28日、一通の決議案がFAXされてきました。最大会派の新保守クラブが提案したものです。締め切り間際に提出したものと思われました。
 私が所属する、市民連合の幹事長も署名していました。通常は会派のメンバーが揃った場で意思統一を図りますが、そのような場面はありませんでした。
 翌日の朝、私は「これからも締め切り間際に新保守クラブから署名を求められれば、サインをするのですか」と、幹事長に尋ねました。

 10時定刻に議会が開会しました。この決議案の提案者である山田議員から趣旨説明があり、馬庭議員から質疑が行われました。内容は、「なぜ決議は広島高速3号線・広島南道路の橋梁工事に言及しているのか」、というものでした。山田議員は、「そのような懸念される内容ではない」と答えました。私はこの答弁に違和感を感じました。

 公共事業を地元企業に発注することについての異論はありませんが、 馬庭議員は討論の中で、新たな利権を生むルールとなると反対の理由を述べました。

 利権政治が12年ぶりに復活する危惧をおぼえ、私はこの決議に反対しました。
 馬庭議員も沖宗議員も反対しましたが、圧倒的多数で可決されました。

 これからも、利権政治の復活には断固反対します。
 市民の皆さんが納めた税金は、市民の皆さんの財産になるようにしていきたいと思います。