2012年6月26日火曜日

それがなにか(エ・アロール)

フランスの元大統領、フランソワ・ミッテランは、第五共和制のもと初めての左派社会党の大統領です。1981年大統領選挙で、保守派のジスカール・デスタン大統領を破って大統領に就任しました。

 その就任記者会見の席で、ある記者がたずねました。

「大統領には、隠し子がいるとのことですが。」

 大統領は答えました。

「Et alors? (エ・アロール?=それがなにか?)」

 結局、質問はその回答で終わり、次の質問に進みました。

 ミッテランは、1944年にダニエルと結婚し、三人の男子をもうけています。一方で、1974年にはアンヌ・バンジュとの間にマザリーヌが生まれました。
 フランスでは、婚外子も実子と差別されることはないため、ミッテランは四人の子どもを平等に育てました。
 日本では大騒ぎになるかもしれませんが、「エ アロール」の一言ですむのですから、お国柄でしょうか。
 
 某野球団のリーダーは、28歳のときの火遊びを20年ほど後に強請られ、1億円を支払ったそうです。支払ったために、さらに強請られてしまい、この時はさすがに球団が乗り出して、お金は支払わなかったそうです。

 リーダーもどんな事情があったのか分かりませんが、「それがなにか?」ぐらいいって、強請り集団を退けてくれれば、ちょっとはかっこ良かったと思います。

2012年6月24日日曜日

いのちのFAX

6月21日の中国新聞朝刊を見て、わが目を疑いました。
 つい先月、聴覚障害者の男性から受けた救急要請のFAXを、広島市消防局が15時間気付かぬまま放置していたそうです。FAXには、「息が苦しい」と書かれていました。15時間後に気付いた消防局は、ようやく救急車を出動させましたが、男性の症状が軽快していたため病院への搬送はしませんでした。
 当時、通信司令室では6名の職員が119番などの電話に対応しており、他の3名は休憩のため別室にいました。
 
 なぜFAXに気付かなかったのでしょうか。私は21日の午後、消防局の通信司令室を訪れました。

 常に6名が勤務しているのですが、全員が正面の大画面に向き合っていました。大画面には、広島市の地図などが映し出されています。
 問題のFAXは、大画面に向って右手の机の上にありました。聴覚障害者の救急情報を受信するFAX以外にも、数台のFAXが置いてありました。同行した警防部長が指示し、テスト用のFAXが送信されて問題の機器から白いテスト用紙が吐き出されました。事件の時は、吐き出された紙のバックは透明の板だったそうで、今は赤い厚紙をバックにして目立たせていました。

 テスト用紙は、印字した面が裏になっていました。事件当時は、透明の板の前に表が白い紙が吐き出されたわけで、全く目立たない状態だったのでしょう。
 そもそも年間FAXされる件数は、年間5,6件だそうです。市内に多数いる聴覚障害の方々が、全員このFAX番号を知っていたのかは分かりません。

 私は2点提案しました。ひとつはFAXの機器を買い換えて、印字した面が表になるようにすることです。
 もうひとつは、健康福祉局と協同して、FAX番号『082-246-8222』を周知することです。

 しかし、一番問題なのは5月5日の出来事を6月20日まで隠蔽していた消防局の体質です。
 
 事件後すぐに、消防局長まで報告が上がっていたそうです。なぜ隠蔽していたのか分かりませんが、消防局長が最終的に判断したのでしょう。
 通報者が重症であったり、火事であった場合、消防局の誰がどういう責任を取るのでしょうか。恐ろしい話です。

江藤新平

江藤新平(1834-1874)は、佐賀出身の政治家です。
 
 佐賀を訪問した際、駅の案内所で神野公園はどこにあるのですかと尋ねました。
 すると案内所の女性に「あなたも、江藤新平の慰霊祭に行かれるのですか?」と逆に聞かれました。
 もうすぐ始まるとのことです。こりゃ、行かにゃぁいけん、と急いでタクシーに乗り込みました。





 神野公園には江藤の銅像がそびえ立ち、銅像前で佐賀の名士と思われる方々が参列されていました。
 佐賀の乱で刑死したとはいえ、江藤は佐賀の生んだ英雄です。明治初期の英雄に、私は心ひかれるものを感じます。

 江藤は明治5年(1872年)、司法卿に就任します。画期的な政策は「司法省達第四十六号」です。
 その内容は、
「地方官の専横や怠慢によって、人民の権利が侵害された時、人民は裁判所に出訴して救済を求めることが出来る。」
 という画期的なものでした。

 これにより、知事をはじめとする地方官によって権利を蹂躙されてきた人民は、司法省に次々と訴えでたのです。
 尾去沢銅山を横領された村井茂兵衛が大蔵大臣・井上馨を訴えました。ついで、陸軍省の公金を横領したとして、司法省は陸軍大輔・山県有朋を追い詰めました。さらに、当時の豪商の小野組が京都から東京へ店舗の移転を願い出た際、理由無くこれを拒絶した京都府参事・槙村正直を、東京の司法省裁判所に告訴しました。
 いかに彼らが金に汚かったかわかります。

 訴追された井上馨、山県有朋、槙村正直はいずれも長州藩の出身でした。彼らの親分は木戸孝允でしたが、井上、山県はその後、大久保利通に接近します。
 薩長政府にとって、江藤の行動は危険極まりなく、佐賀の乱で法律に無い罪状をもって刑死させられます。

 振り返って現在、司法の独立は遠く、裁判長は法務省や国家の顔色をうかがうのみです。人民の権利は、国家から広島市役所にいたるまで、踏みにじられています。
 踏みにじられた人民に力を貸すのが、国会議員や地方議員の役目です。広島市議会議員は、人民の側に立つのが当然です。

2012年6月21日木曜日

6月議会の日程

2012年度の6月議会の日程です。

6月21日 議会開会 市長説明
6月26、27、28日 一般質問
6月29日 常任委員会・・・・消防上下水道委員会で、松坂が質問します
7月2日 常任委員会
7月3日 討論、採決

 市議会議員にとっての、最大の関心事は議長、副議長の選出です。
 これは、7月3日に決まります。現在の木島議長、金子副議長は就任1年を終えたところです。お二人とも内心、続投したいところでしょう。
 ただし、新保守クラブ内には、議長や副議長になりたい議員が目白押しです。

 正副議長は議員の投票で選ばれるので、どうなるのか予断を許しません。

2012年6月20日水曜日

大木喬任

大木喬任(おおき たかとう 1832-1899)は明治の元勲の一人ですが、あまりに地味すぎるため、皆さんも知らないか名前だけ知っている程度でしょう。
 私の持つ大木喬任のイメージは次のようなものでした。

 1873年(明治6年)の征韓論の際、当初は同じ佐賀藩出身の江藤新平や副島種臣に同調して、西郷隆盛の朝鮮派遣に賛成していました。しかし、岩倉具視や大久保利通ら遣欧使節団が帰国し、西郷の派遣に反対するや、大木は前言を翻して反対の立場を取りました。
 親友の江藤や副島が、西郷・板垣退助・後藤象二郎と共に下野したのちも政権中枢に留まり、参議司法卿、枢密院議長などを歴任しました。
 世渡り上手の機会主義者で、明治期を上手く渡った人というイメージでしかありませんでした。

 しかし、そのイメージは一変しました。
 先日、佐賀県立博物館を訪れた際に学芸課長の蒲原さんから、博物館の設立目的や文化財収集の狙いなどお聞きしました。

「刑死した江藤新平は、佐賀ではどのように思われているのですか。」と聞くと、
「英雄として、尊敬されています。」と答えられました。

 今度は逆に質問されました。
「大木喬任は、どのように映っていますか。」

 私は今まで持ってたイメージを話しました。すると蒲原さんは、
「大木喬任は、大きな仕事を成し遂げていますよ。私も知らなかったのですが。」
と、言われました。

 私は非常に興味が湧き、「佐賀偉人伝 第6巻 大木喬任」を博物館で購入して読んで見ました。この本は蒲原さんも編纂に当たったとのことでした。

 この本によると、大木の業績の代表的なものは次の三つです。

1.東京奠都(てんと)
 1968年(明治1年)大木は、岩倉具視に対して京都と並んで東京を都とするよう意見書を提出し、受け入れられました。正しくは遷都ではなく、奠都です。

2.学制頒布
 文部卿となった大木は、新しい大学校・中学校・小学校から、国学や漢学の教師を追放し、洋学の教師のみによる教育を開始しました。

3.近代司法制度の整備
 江藤が下野したのち司法卿となった大木は、司法官の養成と、諸法典の整備に力を尽くしました。明治23年に完成した民法がその代表です。

 これの業績からうかがえるのは、スケールの大きな大木喬任像です。
 この伝記を執筆した重松 優氏は、1976年生まれの少壮気鋭の学者です。あえて、この若い学者から「大木喬任」に光を当てさせたのでしょう。

 蒲原さんが語っていました。
「佐賀人のアイデンティティは、郷土の英雄を顕彰することにあります。」
 その手段として、前述の伝記の編纂があるのだそうです。

 広島にも郷土の英雄がいます。もっと偉大なる先人を顕彰しても良いのではないでしょうか。
 とても残念なことだと思います。









 蒲原課長から説明を受ける松坂。2枚目は天井、3枚目はアームストロング砲の説明を受けているところです。

2012年6月17日日曜日

卓球大会

6月17日、卓球大会に出場し優勝しました。これでロンドンオリンピックの日本代表選考に残ったかと思いましたが、残念ながら関係ありませんでした。私の住む段原小学校区の体協が主催する卓球大会です。
 4チーム総当りのリーグ戦で、対戦はダブルスで5試合行い、3試合取ったチームの勝ちです。
 
 10年以上参加しておりますが、優勝したことなどありません。試合で勝つこともまれで、ほとんど1セットも取れない状況でした。
 それが今回はどうでしょう。
 わがチームは、3勝0敗で堂々の優勝です。私は15試合のうち6試合出場し、4勝2敗でした。

 心がけたのは、球を相手のテーブルに返すということです。
 今まではスマッシュを決めようと、思い切り叩き込んでいました。しかし、それでは動作が大きくなって、次のプレーが出来ません。ミスも多くなってしまいます。
 今回は腕の振りを極力小さくし、球をそっと返す感じで、広島弁の「球をのすける」ようにプレーしました。ミスが減ったぶん相手にミスが生じ、得点を重ねて行きました。さらにフットワークも小刻みにし、「のすける」プレーを「みやすい」ものにしました。考えて工夫したことで勝利に貢献できました。

 一人で勝ったわけではありません。共に戦ったチームメイトに、ありがとうございますと申し上げます。

 また、大会を主催してくださった卓球部のみなさんに感謝を申し上げます。

 そしてリオデジャネイロ大会か、その次を目指したいと思います。

2012年6月12日火曜日

三つの事件

6月11日、南区の幹部職員と南区の市議会議員とで会合がありました。2時間ほど飲食を共にするのですが、なれあい気分を醸成するようならば、やらなくてもいいのではないかと思っていました。

 それで、区長や部長、課長に話す際、「あのことはどうなったのですか。」 「よその区でこういうことがあったのですが、南区はどうしているのですか。」 などと、つい質問してしまいます。ちょっとした事件や不祥事、市民からの苦情などです。
 酒の席ではそんな話を聞きたくないようですが、2時間は離れられないので気の毒に思います。
 11日の会合も、そういう話題で始まりました。

 南消防署の署長が近くに来たので、福山市の死者が出た火災を受けて、緊急査察はどうだったのか聞きました。
「約束の5月末までに、査察をやりきりました。」と、胸を張って答えたので、
「では、その結果を教えてください。」と言うと、「消防局に結果はあげています。」と答えました。

「南署のデータだから、署長のあなたの権限で,結果を教えるかどうか決定できるのではないですか。」
と聞くと、署長はだんだん背中を丸くして、黙ってしまいました。

 
 広島市では、ケースワーカーが現金を事務処理せずに持っていたり、着服して自分のために使ったりする事件が、あとを絶ちません。南区での会合も当然その話題になりました。

 中区のケースワーカーが、生活保護を受けている人から現金を預かって、その事務処理をしないまま放置していたことが、明らかとなりました。そのケースワーカーと上司である課長補佐、課長、部長と区長の5人が処分されました。ケースワーカーは懲戒解雇です。
 再発防止には、どうすれば良いか聞きましたが、南区の幹部職員からは良い案は出ませんでした。ふたりの保護担当課長は、近づいても来ませんでした。

 南区の会合とは直接の関係はありませんが、もうひとつの事件があります。薬事法の改正にともない、医療用の酸素を、卸売り業者が売ることの出来る相手方の要件が変わった点です。
 患者さんを病院から病院へ搬送する事業者は、医師や看護師が同乗できる態勢を整えておかないと、酸素が買えないことになりました。
 6月1日から改正薬事法が施行されるのにともない、広島市の保健部環境衛生課は一通の文書を卸売り業者と搬送事業者に郵送しました。そこには

「卸売り業者は、搬送事業者と医療従事者との雇用契約書原本を、搬送事業者から受領すること。」

と、記載してありました。
 契約書の原本が契約の当事者をはなれて、第三者のもとに保管されているなんてことが、ありうるのでしょうか。事業者からの指摘により発覚しました。

 査察の件、ケースワーカーの件、医療用酸素の件。いずれも放置できない事件です。
 詳しく調査して、お知らせします。

2012年6月8日金曜日

相撲の稽古

本格的な相撲の稽古を見るため、鳥取市の鳥取城北高校まで行ってきました。新幹線と智頭急行を乗り継いで、鳥取駅まで片道3時間。駅から学校まではバスで20分でした。
 
 鳥取城北高校は開学50年を迎える伝統ある学校で、校訓は「質実剛毅」です。
 学校に到着すると校長の山根先生が、笑顔で迎えてくれました。玄関には、卒業生のパネルや各種大会での優勝カップが並べられ壮観でした。

 野球部は、元カープの川口明久投手、現役は阪神の能見篤史投手、西武の藤原良平投手がOBです。
 相撲部OBには元大関の琴光喜がいます。琴光喜は本名を田宮といって、山根先生は「本当に田宮は純粋で、良い生徒だった」と思い出を語ってくださいました。

 相撲部長の石浦教頭先生は、15年ほど前から始めたスカウト活動や、モンゴルに行ってモンゴル相撲の学生王者を城北高校に招き入れたいきさつなどを、生徒指導などで忙しい中語ってくださいました。

 16時から校内の相撲場に入って、稽古の見学です。土俵は2面あり本格的に俵が埋めてありました。上がり座敷で見学しましたが、大相撲の部屋の稽古場と全く同じ構造でした。
 5名くらいが一緒に入ることの出来るお風呂、練習後に夕食を一緒に稽古場で食べるための台所もあります。 
 練習は16時から19時までの3時間。土日は午前中に稽古をします。全員が近所で合宿しており、夕食と朝食は稽古場で一緒に食べます。

 部員は15、6名ほどでしたが、まず摺り足をやっていました。立会いの姿勢から、背中を丸く脇を締め、両手に重心をかけて前進します。このとき足の裏は地面に付けたまま前へ摺らせます。そのため線路のような二本のラインが、土俵に残ります。この摺り足だけで1時間と10分費やしました。

 ついで、摺り足のまま立会いから突進する稽古。一歩目の踏み込みを速くと指導されていました。
 17時半から申し合いです。対戦して勝った生徒はそのまま土俵に残り、次の相手と対戦します。3年生から1年生まで、全員で土俵の周囲に立って対戦を見守ります。
 モンゴルからの留学生で高校3年生の生徒が飛びぬけて強く、右差し左上手を取ると休まず前へ出ます。この時の寄り足が速く、素晴らしい実力です。

 8月の全国高校相撲選手権大会へ相撲部一丸となっての稽古に、石浦先生やレンツェンドルジ先生は、つきっきりでコーチします。
「足を送って」 「押して押して」 「前へ出ろ」 「チャンスチャンス」 と、絶えず声をかけます。
 石浦先生は「負けた相撲の中に反省がある。それを直せ」とたびたび言っておられました。
 生徒が「はい、分かりました。」と言うまで、「どうだ、分かったか」と念を押して、返事を待つ姿勢に感銘を受けました。 

 私が感動したのは、相撲部の部員だけでなく、全校生徒が私に挨拶をしてくれたことです。
 グラウンドでは、野球部、サッカー部、陸上部の部員たち。そして廊下をすれ違う生徒たちも、みんな大きな声で「こんにちは」と挨拶してくれました。稽古中に稽古場へ入ってくるコーチの皆さんも、まわし姿になったあと私のところに来て「こんにちは」と挨拶してくれました。

 授業での武道必修化は、礼儀作法を身に付けるということです。鳥取城北高校の生徒たちは、すでにその礼儀作法を身に付けており、立派でした。学校全体が明るく、前を向いていると感じました。

 広島市の教育委員会の幹部の皆さんに、この見学の報告をします。広島市の学校教育の一助になればと思います。