2013年5月30日木曜日

汚れた救急車

 先日、ある説明を聞くために、大手町の広島市消防局を訪れました。説明をしてくれたのは、消防局の救急部長でした。
 ある説明の中身はまた後日紹介します。

 その説明の中で、救急車に搭載する救急器具の話になりました。

「交通事故で路上に受傷者が横たわっている場合、救急隊はどうするのか。」

「受傷者の正面に救急車を停止させて、後続車からブロックします。そして救急車には強力なライトや、反射板などを搭載しています。」

「じゃあ、中消防署に救急車があるので、何を搭載しているのか見せてください。」

 私と部長は1階に下りて、大手救急隊の救急車に乗り込みました。

「事故の受傷者を保護するため、後続車に注意喚起する道具はどれですか。」

 強力ライトは隊員の座る椅子の下にあり、すぐに取り出せました。反射板もあるとのことで、 隊員2名が、車内の長椅子のふたを開けて中を探し始めました。ところがすぐに出てきません。
 数分して、長さ20センチのライトが出てきました。スマートな懐中電灯でした。しかし、まるで店で買ったばかりのように、プラスチックのケースに収めてありました。取り出してスイッチを押すと、強い光を放ちました。

「ケースに収めたままでは、使用するのに時間がかかるのではないですか。」と聞くと、隊員は「この長椅子の中に入れておくと、破損するおそれがあるのでケースに入れているのです。」と説明しました。救急部長もその通りといいました。

「救急の場合に使用するのだから、医師や看護師や家族が座る長椅子の下に収めていたのでは、すぐに使えない。ケースから出して目に付くところに置いたらどうですか。」

 隊長は黙っていましたが、部長は不満そうに

「破損してはいけないのでケースに入れているのです。」 と反論しました。

「市民の税金で買ったライトが、市民の生命を助けるために破損しても惜しくはないと思います。使わずに大事に収めておく方が、よろしくありません。」
 私はそう言いながら、手にしていた強力ライトを椅子の下に置こうとしました。

 すると椅子の下は皿のようにくぼんでおり、その皿の部分には、ほこりがびっしりと溜まっていました。椅子の周囲の床もびっしりと溜まっていました。数か月間掃除をしていない私の部屋よりも、ほこりの量は多いようでした。

 隊長は「毎朝掃除をしています。」と話しました。今度は部長が黙っていました。

 さらに、プラスチックのごみ容器が目に付きました。そこには使用したゴム手袋がうず高く突っ込んでありました。
 3人の隊員が出動するたびに、感染防止のため使用した手袋を廃棄します。そのごみ容器が手袋でいっぱいになっていたのです。

「なぜ、ごみを捨てないのか。」
「忘れていました。」
「今すぐ捨てなさい。車内も掃除しなさい。」

 3人の隊員は掃除を始めました。ほんの3,4分で狭い車内を掃除しました。

 どうしてこれだけのことができないのかが不思議でした。
 こんな不潔な救急車に乗りたくはありませんし、不潔な隊員に搬送してほしくありません。

 イメージダウンをして救急車の出動要請を減らすという、消防局の極秘作戦かもしれません。

2013年5月27日月曜日

白鵬25回目の優勝

 大相撲夏場所14日目、横綱・白鵬と大関・稀勢の里はともに13戦全勝で激突しました。

 白鵬はすでに優勝24回の強豪、一方の稀勢の里は初優勝をめざします。実力差が明らかだった両者ですが、今場所は「激突」の言葉がふさわしい一番となりました。場所の中盤から、稀勢の里に変化が見えたからです。
 いつもの腰高の相撲は影ををひそめ、ぐっと腰を落とし、しかも前へ出る取り口に徹して安定感がありました。
 一方の白鵬は、得意の右四つ左上手を取っての相撲こそ少なかったものの、動きの中で自分十分の体勢をつくった相撲で、危なげありませんでした。

 両者13連勝のうえで対戦、立ち合いで先に腰を割ったのは稀勢の里でした。
 左手をついて白鵬の動きを待っていましたが、 白鵬が手をつかず仕切り直しとなりました。このあたりで、白鵬が稀勢の里の勢いを止めた印象でした。

 立ち上がって白鵬は左に変化。左の上手を取って左へまわります。両者は一旦土俵中央でとまり、稀勢の里は左を巻き替えます。白鵬も左を巻き替えて左四つになりました。
 左四つは稀勢の里の得意の組み手です。ここぞとばかり稀勢の里は寄って出ますが、白鵬はこれをこらえます。
 白鵬が寄り返して左から下手投げを放つと、両者横倒しとなりました。稀勢の里は背中から落ち、白鵬は少し遅れて右の肩から落ちました。両者、体にべっとりと砂を付いていました。

 稀勢の里が倒れるとき、不自然に左の足の甲が反ってしまっていました。白鵬が語るには、土俵が軟らかかったということです。
 白鵬は土俵の軟らかさも計算に入れて下手投げを放ち、稀勢の里が足を送れないように体を浴びせました。なんという緻密な相撲でしょう。

 結局、白鵬は全勝で25回目の優勝をとげました。素晴らしいの一言です。
 稀勢の里は、今まで大関では10勝がせいぜいだったところ13勝をあげました。勝ち星3つ分強くなったと言えましょう。これも大変立派なことです。

 来場所からの両者の対決が楽しみです。

2013年5月17日金曜日

中国へ行きました。


 最初の写真は、清朝の発祥の地故宮です。初代皇帝ヌルハチと二代皇帝ホンタイジが住んでいたところです。当時の建物が残っています。黄色い瓦屋根が王宮のしるしです。
次の写真は瀋陽駅です。旧南満州鉄道(満鉄)の時代の建築で、日本人の設計になりました。赤レンガの建物は、東京駅、ソウル駅と同じデザインです。

この建物は遼寧賓館で、満鉄が建設した奉天大和ホテルです。建物は当時のままです。
 このホテルは、中山広場という円形の広場に面して建っています。満州国の時代は、日露戦争で戦死した日本兵の忠霊塔が立っていました。今は毛沢東の像に代わっています。
瀋陽には妻の父が住んでいまして、ホテルを営む両親や姉、弟などたくさんの兄弟と住んでいたそうです。義父は生前に満州へ行きたいと言っていました。それもかなわず亡くなりました。
 
 たまたま私の友人が瀋陽市の出身で、彼の父に聞いてみると、
「日本人は固まって住んでいて、われわれ朝鮮族はそこへは入ることが出来なかった。」
と言っていたそうです。

 古いフィルムでは、先ほどの瀋陽駅 から大和ホテルのあった中山広場までが新市街、故宮の周囲が旧市街と言われていました。満州国建国(1932年)以降に義父は満州に渡っています。
 両親のホテルは、中山広場から瀋陽駅の間、つまり新市街にあったと思われます。

 その界隈を歩きました。いまも繁華街で、当時の建物がいくつか残っていますが、当時の面影を見ることはできませんでした。生きていれば 「このへんに住んでいたよ。」と言ったかもしれません。
最後の写真は、日中両国が15年間、戦争をすることになった柳条湖事件の現場です。「9・18事件記念館」 と言いますが、大きな記念館です。

 「9.18事件」とは、1931年9月18日、当時満鉄沿線を警備していた日本軍(関東軍)が奉天郊外の柳条湖で自ら鉄道を爆破し、これを中国軍(張学良軍)のしわざとして、一方的に張学良軍に攻めかかった事件です。日本では満州事変として知られています。

 関東軍は瞬く間に満州一円を占領し、翌1932年に満州国を打ち建てたのでした。
 これは当時の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、石原莞爾中佐の作戦によるものです。若槻礼次郎内閣も関東軍の上層部も、板垣や石原の暴走を止めることはできませんでした。
 その後、中国国民がいかに苦難を味わったかを、この記念館は詳細に展示しています。
 

 板垣は事件の責任を問われ東京裁判で絞首刑。石原はなぜか訴追されず、裁判中に証人尋問を受けていますが、間もなくぼうこう癌で亡くなりました。

 驚いたのは、記念館の見学にたくさんの中国人が訪れていたことです。しかも若い人も初老の人も、たくさんの展示を時間をかけて熱心に見ていました。

 わたしが 「これが板垣、これが東條、これが石原」 などと写真を指差して、人物評を友人と語っていますと、周囲の中国人が、珍しい日本人もいるものだと小さい声で話していたそうです。

 日中の歴史、とりわけ明治以降の近代史について、日本人はあまりに知らないようです。
 それは学校教育に問題があります。

 中国人は詳しく知っていて、日本人は何も知らない。中国政府の反日教育がけしからんと言っても、史実を何も知らないため反論できません。
 たとえ反論しても、中国政府が教えているのは全てが嘘だという極端な意見になってしまいます。

 広島市の教育委員会は、小中高校生に中国の若者と同等の知識を教え込むべきです。
 80数年前に起きた出来事について、広島市民が何も知らないまま
「広島市が国際都市だ」
と、中国人の前でのたまうのは恥ずかしい話です。

2013年5月11日土曜日

ひろしま菓子博に行きました

 ひろしま菓子博は、2013年4月19日から5月12日までの24日間、広島市民球場跡地で開かれました。

 正式には第26回全国菓子大博覧会・広島です。第1回は明治44年(1911年)に開催され、102年の歴史がある博覧会です。

 私は1500円の前売り券をたくさん買っていたので、家族や友人を連れて合わせて計3回ほど足を運びました。
 3回とも大盛況でした。主催者は喜んでいることでしょう。

 圧巻は、15分の1のスケールで再現された厳島神社です。
 社殿は和菓子で、武者行列の人形や管弦祭の船は洋菓子です。月に1度は打ち合わせを行い、本来の仕事のかたわら、18か月もかけて作製されました。

「私はあの船を作りました。あの船のことなら誰よりも詳しく知っています。何でも聞いてください。」

 お菓子の職人さんが、神社の傍らに立って説明していました。その表情はとても楽しそうで、達成感がただよっていました。
 どの職人さんも、同じ気持ちで菓子博本番を迎えたのでしょう。

 前回は姫路市でおこなわれましたが、その時の実行委員長だったお菓子屋のご主人は、
「菓子博の後、職人さんの腕が確実に上がりました。」
と、はっきりおっしゃいました。

 その時は「それはあるだろうな」と思っていました。
 広島の職人さんの姿を見て、今よりも広島でおいしくて美しいお菓子が食べられるだろうと、強く確信しました。