2011年1月29日土曜日

星亨

 「星亨(ほしとおる)、押し通る。」 とまで言われた政治家、星亨をご存知ですか。

 星亨は、明治時代に活躍した自由民権運動の闘士です。
 星は嘉永3年(1840年)江戸に生まれました。父親は左官の棟梁でしたが、あまりの貧しさに星が生まれてまもなく出奔してしまいました。母が町医者の星泰順と再婚し、星は生きながらえることが出来ました。そして、みずから勉学に励み、陸奥宗光の知遇を得て出世しました

 星は、板垣退助や後藤象二郎らが明治14(1881)年に設立した、自由党に参加しました。党の機関紙の発行を担当していた星ですが、自由党の幹部河野広中と福島県令の三島通庸とが衝突して多くの党員が逮捕された福島事件では、弁護を担当するなど頭角を現しました。

 そして明治25(1892)年に行われた第2回衆議院選挙に当選。召集された第3回帝国議会で、初当選ながら議長に就任しました。
 しかし尊大そのものの星は、明治26年に反対党から不信任案を突きつけられ、採決の結果賛成多数で可決されてしまいました。

 ところが翌日、星は平然と議長席に着きました。驚いた議会は星の7日間の登院停止を決議しました。それでも星は7日後、再び平然と議長席に着いたのです。
 
 この間の星の振る舞いを反対党の機関紙は、「星亨、おしとおる」 と評したのでした。
 結局、議会は星を除名して無理やり議席を奪いました。

 星亨は、これにひるむことなく自由党の中枢に登りつめ、明治33年(1900年)伊藤博文を総裁に立憲政友会を設立し、第4次伊藤内閣の逓信大臣に就任しました。

 明治34(1901)年、星は衆議院議員と兼務していた東京市会議員として、様々な汚職事件に関与し、「公盗の巨魁」 とまでそしられました。
 そしてついに、星を憎む旧幕臣の伊庭想太郎によって、市会で斬殺されました。享年51歳でした。

 星は藩閥の出身でもなく、最貧民の出身ということで,際だつ光を放つ政治家だったといえましょう。
 このリーダーシップとあくの強さは、現在の政治家が失っているものではないでしょうか。