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2015年5月5日火曜日

落選その後

「サルは木から落ちてもサルだが、議員は落ちたらただの人だ。諸君健闘を祈る」

これは、衆議院解散の当日、自民党の幹事長であった大野伴睦の代議士会でのあいさつです。
「落ちたらただの人だ」は、言いえて妙ですが、4月12日の落選以来「ただの人」生活を送っています。

自分の時間がたっぷりできて、自由に振る舞っています。といっても事務所の後片づけに忙殺されてもいますが、「自分は議員として見ていられているんだ」と思わないだけでも、気が幾分かは休まっています。休むことは大切です。

6月から医療現場へ復帰します。楽しみと不安の入り混じった現在ですが、これも人生と割り切って、前に進むしかないと思っています。

2015年3月16日月曜日

わたしの誕生日

今日3月16日は、わたしの誕生日です。

56歳になりました。

たくさんの方々から、お祝いのメッセージをいただきました。

ありがとうございます。

良い一年にしたいと思います。

では。

2015年3月1日日曜日

事務所開きしました。三月一日。

三月一日、事務所開きしました。

雨の中、たくさんの方にきていただきました。

感謝です。

新しい一日が始まりました。

2015年2月20日金曜日

運転免許証の更新

 運転免許証の更新に行ってきました。
 軽く柱に擦るようなへまをよく起こしており、自分の運転はどんくさいと思っています。そのぶん安全運転を心掛けているおかげでしょうか。5年間有効のゴールド免許です。

 石内の免許センターに行くと手際よく誘導されて、視力検査のあと30分の講習を受け、新しい免許証をもらって帰りました。
 この間、1時間半もかかりませんでした。以前に比べると早くなったものです。

 講習で気が付いたのは、自転車走行中の事故です。
 歩行者を自転車の少年がはねて、被害者に重傷を負わせた結果、9000万円の損害賠償を支払えという判決が出たそうです。

 手軽な乗り物の自転車ですが、場合によっては車以上の凶器となると教えられました。

 車の運転と同様、自転車の運転も気を付けたいものです。

2014年6月9日月曜日

 昨日、わが家に鳥が侵入しました。

 家にいると、グエーグエーと鳥が鳴く声がしました。
 ベランダの戸は開けてましたが網戸は閉めていたので家の中に入ったわけでもあるまいと、しばらくは放っておきました。

 それでもグエーグエーと鳴き声がするので、ひょっとして家の中にいるのではと思い、鳴き声のする方へ行ってみました。風呂場の窓は開けていたからです。

 洗面所に入るとグエーグエーと大きな鳴き声がしたので、となりの風呂場にいるのかと思いましたが姿が見えません。
 しかし次の瞬間、急に恐怖心がわたしを襲いました。

 目の前の洗濯機のふちにとまった鳥がグエーと鳴いたからです。
 うえーっと思いました。

 実はその前日、アルフレッド・ヒチコック監督の映画 「 鳥 」(原題はThe Birds)を見ていました。鳥が人を襲う、それはそれは恐ろしい映画です。

 さらにわたしは以前、鳥に襲われたことがあるのです。
 東京の青山墓地にある政治家の墓に参ったとき、おおきなカラスがわたしを見つめていました。「 鳥 」 を思い出したとき、カラスは後ろから飛んできて、わたしの脳天を一撃しました。大事には至りませんでしたが、恐怖の記憶が脳に刻まれました。

 わが家に侵入した鳥は、名前はわかりませんがカラスよりは小さく雀よりは大きい鳥でした。
 わたしが近づくと、鳥は風呂場へ向かいました。窓の開けてある隙間から出ればいいのに、窓ガラスへ何度も向かっていきました。わたしへ向かって来れば卒倒してしまいそうだったのですが、なんとか窓の外に出ていきました。

 窓の下には、もう一羽同じ鳥がいました。二羽はコミュニケーションと取っており、親子かつがいのようでした。

 すぐに窓を閉めましたが、ガラス越しには二羽の鳥がいて、いつ襲われるか気が気でありませんでした。

 しばらくグエーグエーと鳴き声が続き、当分恐怖が去りませんでした。
 バード・ウオッチングならまだしも、侵入バードとのミーティングはもうこりごりです。

2014年4月28日月曜日

広島対巨人戦

 4月25日からマツダ・ズームズーム・スタジアムで、首位の広島カープと3位の読売ジャイアンツの3連戦が開催され、カープが2勝1敗で首位を守りました。

 第3戦は前田健太、内海哲也両投手が好投し、0対0のまま延長に突入しました。
 延長11回の表、巨人の中軸を一岡龍司が三者凡退に抑えます。その裏に菊池涼介、丸佳浩が連打でつくった無死一塁三塁のチャンスに、頼れる4番のブラッド・エルドレッドがレフトへサヨナラホームランを放ち、一岡にプロ初勝利をプレゼントしました。
 これぞプロという劇的な試合でした。

 一岡は巨人から移籍の23歳。中継ぎで登板のたびに0点で抑え続けていましたが、大きな勝ち星を手中にしました。わたしは一岡投手のファンで、彼の「自分の仕事をきちんとするだけです。」と答えたインタヴューにさらに感動しました。

 この3連戦、わたしは篠田純平、杉内俊哉両投手の先発した第1戦を観戦しました。2階内野自由席は、お年寄りのみなさんと、幼い子どもを連れた親子連れの方々が多く、勤め帰りの会社員風の人は3分の1程度でした。

 わたしが子どもだった頃は、祖父や父に連れて行ってもらってましたが、小学校の高学年になると家が近かったからか、子ども同士で観戦していたものです。

 1970年ころは試合開始が19時で、今よりは1時間遅い試合開始でした。椅子は長い板を横に倒した感じのもので、詰めて椅子に座っていました。横も前後も狭い席でした。

 応援団は一塁側、三塁側、レフト、ライトと別れており、それぞれがはっぴを着て旗やこいのぼりを振り、呼子笛や鉦、太鼓で三々七拍子を取ったり、ちんちんどんどんとにぎやかでした。
 カープが得点しようものなら、ベンチの上に二、三人が上がって、広告紙を切って作った紙吹雪を巻き、「それ、ちゃっ ちゃっ ちゃっ」とやっていました。

 観客の95%くらいは男性で、サラリーマンや作業服を着た人など仕事帰りの人がほとんどで、中には怖いおにいさんもいました。
 ヤジがものすごく、あっちからもこっちからも相手チームの選手を中傷するにとどまらず、カープの選手にも連打を浴びせていました。凡退すると容赦なくカープの選手にもヤジが注がれていました。

 カープはチーム創立の1950年から1974年の25年間、Aクラスがたったの1回でした。勝つよりは負ける方が多いので、勝った夜は大騒ぎ。巨人に勝ちでもすれば優勝したような騒ぎで、サラリーマンも作業服姿の人も怖いおにいさんも浮かれていました。

 とんでもない所へ子どもだけで行っていたと思います。
 しかし、この市民球場での時間は今の自分を形作った一つだと確信しています。

2014年4月9日水曜日

さくらさく

 
                                                                               さくら

                                                                          
                                                                                さくら


                                                                            弥生の空は

 
                                                                            見わたす限り


                                                                              いざや
 

                                                                             いざや


                                                                               見に


                                                                                行かん


                                                                   いっせいに開きました。

2014年3月17日月曜日

わたしの誕生日


3月16日は、わたしの誕生日でした。妻と後輩3人がケーキで祝ってくれました。写ってない後輩一人は、写真を撮っています。たいへん楽しいパーティでした。

「It's my party.」 というレスリー・ゴーアのヒット曲があります。日本語のタイトルは、「涙のバースデイ・パーティ」 だった気がします。

 オールナイト・ニッポンというラジオの深夜番組で、パーソナリティの今仁哲夫ことテッチャンが日本語で歌っていました。

「 いつまでもかっこよく 元気でいて 元気でいて
今日はテッチャン誕生日 おめでとう

マージャン負けて ハコテンなっても くよくよするな
今日も元気で ケケケと行こう 」

 後年、レスリー・ゴアの曲を聞くことになりましたが、歌詞は全然違っていました。
「わたしの好きな彼氏は別の彼女といちゃいちゃしている」という意味深なものでした。

 幸いなことに、わたしの誕生日パーティは特に意味深なこともないパーティでした。
 参加者の中にライターがいますが、歌詞を作ってもらったとしても涙のないパーティではヒット曲にはならないでしょう。
 

2014年2月2日日曜日

宝塚歌劇 眠らない男・ナポレオン


 宝塚少女歌劇は今年が創立100周年です。その正月公演は、星組の「眠らない男・ナポレオン 」で、夫婦で宝塚大劇場に出かけました。ナポレオンを演じるのは星組のトップスターである柚希礼音(ゆずき れおん)です。

 実はこの公演には、わたしの兄嫁の姪が出演しているのです。男役でまだ駆け出しですが、せりふももらって張り切っています。

 主役の柚希の演技やダンスを見ながら、うしろで踊る姪も探さねばならず、忙しい舞台でした。かろうじて姪を探せても、すぐに次の場に移ってしまいます。
 落ち着いて観劇できるよう、姪の頑張りに期待します。

 宝塚を初めて観たのは、高校生の時でした。演目は「ベルサイユのばら」で、オスカルが汀夏子(みぎわなつこ)、アンドレが麻美れい(あさみれい)でした。何とも美しい、奇麗な舞台でした。
 その後も数回観ました。姪が宝塚の舞台に上がってからは、今回が二度目です。

 柚希は他の組のトップスターに比べ小柄ですが、優れた点を一言で言えばダンスが上手なことです。他の男役が、ややもすれば女性のしぐさや身のこなしを見せてしまうのに、柚希はまさに男性が動いている身のこなしなのです。

 以前、男役トップのOGが大劇場すべての観客を魅了する秘訣を話していました。二階席のセンターを、自分の黒目の横の白目で見ることだそうです。それでどの観客も、スターは自分を見つめていると思うのだそうです。

 現に上のポスターも、ナポレオンは黒目の横の白目をこちらに向けています。この目線が大事なのです。

 われわれも写真や映像を撮られるとき、意識しています。しかし、議会の傍聴席は満席になりません。黄色い声も無ければ、大向こうからの掛け声もありません。

 それでも頑張って参ります。


2013年3月10日日曜日

野球の試合

 わたしは軟式野球のチームに所属しています。職域のチームですが、市議会のチームではありません。同業者のチームです。

 何年前か忘れましたが、チームの幹事を任されました。その幹事役も、つぎの世代が引き継ぐとのことで、譲ることになりました。
 先日は幹事役の最終戦がありました。この試合は今季開幕戦ということで、楽しみにしていた13人のチームメイトが集合してくれました。

 幹事はチームの監督も務めます。つまり、集合した13名の選手を起用することが仕事です。ひとりひとりに「来て良かった」と思ってもらわなければいけません。
 

 幹事としての最終戦は、なんとしても勝ちたいのでベストメンバーで臨みました。私はスタメンではなくベンチスタートですが、そうは言っても自分も出場するつもりで準備してきていました。
 

 1点先制の後、3点を奪われて逆転されました。しかし5回に1点を返し、6回にも1点を奪い同点になりました。
 
 
 そして最終回の7回、相手投手の乱調につけ込み2点を勝ち越し、5対3で勝ちました。
 

 私は最終回からライトの守備につきました。守備機会はありませんでした。守備から入ったのでもちろん打席もありません。

 それでも、勝てたことが何よりも良かったです。勝負事は勝たなければ9割は意味が無いと思っています。
 それはチームで仕事をする場合、勝つことや成功することにより、さまざまな問題やいさかいが解決すると思うからです。
 それだけに、チームの気持ちをひとつにまとめて相手に目標に向かっていくには、長い年月とすさまじい努力が必要なのではないでしょうか。

 そんな努力の甲斐があって有終の美を飾ることができ、ほんとうに楽しい2時間でした。

2013年2月2日土曜日

横綱 大鵬

 元横綱大鵬の、納谷幸喜さんが亡くなられました。享年72歳でした。  

 昭和15年に生まれた大鵬は19歳で入幕し、昭和36年9月に21歳3か月で早くも横綱に昇進しました。
 当時私は2歳と6か月。大鵬の横綱昇進の記憶はありません。

 相撲についての記憶にあるのは、大関の北葉山英俊と大関の佐田の山晋松が、ともに13勝2敗で激突した優勝決定戦です。贔屓の佐田の山が北葉山にあっけなく押し出され、悔しかったことを鮮明に覚えています。これが38年の7月場所ですから、38年の1月場所くらいから、テレビの相撲を熱心に見ていたと思われます。

 38年の5月場所は、横綱大鵬が15戦全勝で11回目の優勝を飾りました。なんと6場所連続の優勝でした。6連覇中で、大鵬の敗戦はわずかに7回。大鵬は23歳になったばかりでした。

 このころわたしは4歳。その頃からすでに大鵬は無敵でした。柏鵬時代と呼ばれていますが、横綱の柏戸 剛が大鵬に対抗していたのは、私がものごころつく前のことでした。
 柏戸は男っぷりもよく、相撲も一直線の豪快な相撲で、人気もありました。とくに祖母、お手伝いで住み込んでおられたKさんが、熱狂的な大鵬のファンでした。

 私の記憶にある柏戸は下位の力士に取りこぼしが多く、とても大鵬に対抗できていませんでした。
 一方、よく対抗したのが大関の佐田の山でした。しかし大鵬に比べて軽量の佐田の山は、大型力士を苦手としていました。そのため、終盤に大鵬と激突するときはたいてい1敗程度の差がついていました。

 それでも1敗の差であれば、佐田の山が大鵬に勝てば優勝のチャンスが生まれます。
 ある年の佐田の山と大鵬の取り組みです。
 佐田の山が頭で当たって猛然と突き押しで大鵬の上体を起こします。なおも佐田が突っ張ります。
 しかし大鵬は下がりながらも、下半身は崩れません。そのうち大鵬は右、左と差し、佐田の動きを止めてゆっくりと 寄り切ります。寄り切って大鵬が勝ちました。

 それでも佐田の山は、40年の3月に横綱に昇進しました。大鵬はそれまでに佐田の山と21戦して、1回しか敗けていません。いかに偉大な壁として立ちはだかっていたかわかります。

 43年5月に引退した佐田の山のあと大鵬に肉薄したのは、大関玉乃島正夫です。176センチと恵まれない身体ながら、精進を重ね、41年9月場所後に21歳で大関に昇進。42年11月場所よりコンスタントに2ケタ勝利を収めてきました。
 そして大鵬が休場した43年5月場所では、13勝2敗の成績で初優勝をとげました。覇者交代かと思われました。
 しかし大鵬は休場明けの43年9月場所初日、前頭の栃東に敗れたものの、2日目から連勝を始めました。そして44年3月場所2日目、前頭の戸田に敗れるまで45連勝を記録しました。

 私は当時小学校4年生、学校が終わるや真っ先に家のテレビの前に陣取って、相撲を見ていました。この45連勝中も大鵬は危なげなく勝ち進んでいました。応援する玉乃島が、猛然とうわ突っ張りで大鵬の上体を起こそうとするのですが、たくみに差し込まれ逆に玉の上体が起きてしまって勝負ありでした。

 とにかく大鵬は強かった。負けなかった。そしてここ一番の相撲では必ず勝ちました。
 北の富士と玉の海(玉乃島改め)が同時に横綱となった45年3月場所で、大鵬は全勝の玉の海、1敗の北の富士を連破して優勝を遂げています。この2番の相撲は、絶対負けられないという執念が大鵬を勝たせたのでした。

 ところで大鵬には中学3年のときに握手してもらったことがあります。掌がやわらかくておもちのようだったのが強く印象に残っています。

 優勝32回、6連覇2回、45連勝の記録、まさしく大鵬の前に大鵬なく、大鵬の後に大鵬なし。不世出の横綱でした。
 
 ご冥福をお祈りします。

2012年9月16日日曜日

平清盛

 大河ドラマ「平清盛」を、毎週欠かさず見ています。

 これが面白い。なぜかというと、このドラマが史実に極めて忠実に作られているからです。
 清盛(松山ケンイチ)は、白河法皇(伊東四朗)のご落胤と呼ばれていました。ドラマでは、このいきさつを忠実に再現しています。
 崇徳天皇(井浦新)も、白河法皇が可愛がっていた璋子(壇れい)に産ませた子どもといううわさが立っていました。白河法皇の孫になる鳥羽上皇(三上博史)は、このうわさにこころを狂わせました。なぜなら璋子は自分のお后だったからです。
 崇徳は、鳥羽にとっては叔父にあたります。自分の后の子とは言え、祖父の子供だからです。
 鳥羽は死ぬまで崇徳をおじご(叔父御)とよび、嫌っていました。しかし、崇徳は自分が鳥羽と璋子の子だと信じていました。

 鳥羽のこころは、璋子から得子(松雪泰子)へと移っていきます。ぽやーっとした璋子と、嫉妬の炎を燃やせる得子の恋のさや当てが、ドラマの前半の見どころでした。この鳥羽と崇徳の争いが、藤原氏、平氏、源氏を巻き込んだ保元の乱へ進んでいくのです。

 この史実に忠実なドラマを、現在の人気俳優たちがいかに演じるか。そこが醍醐味です。
 イメージそのままに演じたのが、平忠盛(中井貴一)、時子(深田恭子)、平重盛(窪田正孝)です。とくに、窪田の演じる重盛はなかなか良い。重盛の苦悩をよく表しています。

 一方、イメージとまったく異なるのは、後白河法皇(松田翔太)、藤原信西(阿部サダヲ)です。後白河のぷらぷら遊び呆けるさま、信西の元気の良さと明るさ、いずれも新しい人間像を演じています。
 また、白河、鳥羽、崇徳、後白河といった皇室は、すごく丁寧に人間臭く描かれています。これも面白い。

 女性がいきいきと描かれているのも、ドラマの魅力のひとつです。璋子と得子、後白河のお后となる滋子(成海璃子)、そして北条政子(杏)。成海も杏も、大胆な役柄が似合う女優さんだと思います。

 これだけ面白いドラマが、なぜ低視聴率なのでしょうか。
 恐らく、歴史ファンには受けるけれども、一家揃って見るには難しいストーリーなのでしょう。
 しかし、最後まで難しいストーリーで突っ走ってもらいたいものです。

2012年8月3日金曜日

内村の金メダル

8月1日の未明。ふと目が覚めてすぐにテレビをつけると、若い男性が三人肩を組んで並んでいました。眠い目をこすりながら誰かと確認すると、真ん中は体操の内村航平選手でした。内村選手の胸には金メダルが輝いていました。体操の個人総合で優勝したのでした。
 おめでとう、内村選手。

 今回のオリンピックは、「個人よりも団体の金がほしい」と明言していた内村選手は、あえて重圧を背負うかのようでした。彼は、常にチームのことを考えていたようです。怪我をした山村選手を気づかい、また自らも失敗しながら、次の演技で取り戻すのだという決意が感じ取れ、その姿勢はいつも前向きでした。

 優勝のインタビューで彼はこう言いました。

「応援してくれた皆さんや、国民の皆さんのためにも、強い気持ちで演技しなければ。
その気持ちが演技に出て良かった」

 「国民のために」とは、昔のスポーツ選手の感覚です。今風の若者が、なぜ国民のために闘ったのか。それは、東日本の大震災で被災した、子供たちのもとを彼が訪れて、一緒に体操をしたり、記念撮影に応じたりして慰問したことが大きいと思います。たいへんな回数だったでしょう。
 激励される中で、被災した皆さんや子供たちのために勝たなければいけないと、心に決めたのでしょう。

 個人総合の跳馬の着地は、ぴたりと決まっていました。まるで神業です。内村選手は、自分の中にもうひとりの自分がいて、身体を操っているようだと述べています。人並みはずれた、すぐれた感覚の持ち主です。

 また跳馬の着地の時に、子供たちが支えてくれたのかもしれません。それが、国民の皆さんのために勝つんだという決意につながったと思います。

 たくさんの国民が、彼の勝利に大いに勇気づけられたことでしょう。素晴らしい金メダルだと思います。

2012年8月1日水曜日

ロンドンオリンピック微笑みのメダル

7月30日の夜は、ロンドンオリンピックの中継をテレビにかじりついて観ていました。
 柔道・松本薫選手の金メダル、中矢力選手の銀メダルを観た後、卓球の福原愛、石川佳純両選手の試合を観ながら、別のチャンネルでは水泳の決勝戦も見ました。テレビが何台もある電気店で観たかったです。

 その水泳で、女子100米背泳ぎで寺川綾選手が銅メダル、男子100米背泳ぎの入江陵介選手が銅メダル、そして女子100米平泳ぎの鈴木聡美選手も銅メダルを獲得しました。3レース続いてのメダルで、大いに盛り上がりました。

 鈴木選手は21歳の大学生です。レース終了後のインタビューで、その眼は、いきいきと喜びを表していました。口元はにっこりと微笑をたたえ、見る人をたいへんなごませる表情でした。
 喜びの表情がいかに人を引き付け、良い気持ちにさせるか。その典型とも言うべき素敵な笑顔でした。

 もう一組、魅力的な笑顔をふりまいていたチームがあります。女子アーチェリー団体の、早川漣、蟹江美貴、川中香緒里の三選手です。
 彼女らはロシアとの3位決定戦で、すこぶる魅力的な微笑みをたたえていました。まるで三体の観音さまがいらっしゃるような、競技とか勝敗だとかを超越した世界を作り出していました。
 結局、最後の一射で勝ったのですが、生き仏さまが勝利をたたえているような、ふしぎなここちよい気分におそわれました。

 いま、世の中に一番必要なものは、彼女たちの持っているような微笑みではないかと思います。

2012年7月31日火曜日

ロンドンオリンピック男子体操

ロンドンオリンピックが始まりました。4年に一回のスポーツの祭典を見逃してはなりません。

 男子の体操は、エースの内村航平選手は「個人より団体の金メダルが欲しい」と言っていました。
 しかし、7月28日の予選では、その内村が鉄棒とあん馬で落下。5位のスタートとなりました。試合中の内村は顔面蒼白、頬もこけた印象で、極度の緊張に陥っていました。あやうし日本。

 30日の決勝は、6つの種目を1チーム3人ずつ演技します。最初の競技の吊り輪で一番手をつとめた内村は、思い切った試技で15点台をマークして、上々の滑り出し。着地だけ一歩前に踏み出したところに、相当の重圧を感じている事がうかがえました。
 その後も内村は全ての競技で高得点を上げ、チームを引っ張りました。

 予選6位だった中国が5種目終わって1位。2位日本、3位ウクライナで、4位がイギリスでした。

 最後の種目はあん馬です。中国の3選手は14点台後半でまとめて、1位を確定しました。つづいて日本です。一番手の田中和仁選手が落下して大きく減点されましたが、二番手の加藤凌平選手が盛り返して14.766を出しました。最後が内村です。13.740以上を出せば、2位が確定します。
 予選で落下しているので、はらはらしながら応援していました。両脚の回転もスピードが落ちず、終盤まで上手くまとめて来ました。あとはフィニッシュだけと、少し安心しました。

 しかし、安心も束の間でした。最後に回転しながら両脚で倒立するのですが、内村は右脚からバランスを崩してしまいました。床に落下してしまうと思いましたが、バランスを取り直して両足から着地しました。このリカバーはすごかった。まったく驚きました。

 減点はやむを得ないと思っていましたが、点数は思いのほか低く、13.466でした。イギリスの2位に場内は大喜び。がっかりする日本ベンチ。内村は、こんな低い評価かと茫然としていました。

 その後、日本の監督とコーチが審判団に抗議、長い協議に入りました。5分ほどたって、内村の得点は0.7加点されて14.166。なんと日本は2位にすべりこみました。

 内村の談話です。
「4年前と同じ2位でした。4年間何をやってきたんだと、ふがいなく思います。」

 ひょうひょうと演技し勝利してきた内村が、いつのまにかすべての重圧を背負っていたように感じました。同時に、すべての重圧を背負いながら、チームを2位に押し上げた内村は素晴らしいと思いました。

 男子体操団体の闘いは、内村の闘いだったと思います。

2012年7月8日日曜日

大相撲名古屋場所

大相撲名古屋場所が、7月8日に初日を迎えます。先場所10勝5敗と、思わぬ苦杯をなめた横綱・白鵬が巻き返すか、先場所11勝4敗で東正大関に座った稀勢の里が、横綱昇進の足掛かりをつかむか、が見どころでしょう。

 もちろん白鵬と稀勢の里に注目していますが、私には他に注目する力士が2人います。 

 新十両に昇進した貴ノ岩は、モンゴル出身です。貴乃花親方が2004年2月に部屋を創設してから、初の関取です。
 しかも、私が見学に行った鳥取城北高校相撲部の出身となると、注目せざるをえません。私が見学に行った日も、2名のモンゴルからの留学生がおり、ひたむきに稽古をしていました。おとなしい雰囲気でしたが、礼儀正しく明るい青年でした。
 貴ノ岩も同じように、礼儀正しく明るい青年でしょう。応援したいと思います。

 西幕下15枚目に番付を上げた寺尾丸は、広島市南区の出身です。段原中学から瀬戸内高校へ進み、その後、元関脇・寺尾の錣山部屋に入門し、努力を重ねてきました。今場所と来場所とで好成績をあげれば、十両昇進で関取です。
 広島市からは、北桜、豊桜以来の関取です。頑張ってもらいたい。

 名古屋場所は、すでに幕下と十両の土俵から目が離せなくなりました。応援も忙しくなりそうです。

2012年7月7日土曜日

三浦大輔投手、通算150勝

DeNA横浜ベイスターズの三浦大輔投手が、7月4日の巨人戦で通算150勝をあげました。おめでとうございます。

 プロ21年目、38歳の三浦投手は、巨人の各打者に対し、渾身のストレートを投げ込んでいきました。7回1死三塁のピンチも、長野をストレートで追い込んで外角のスライダーで空振り三振にしとめました。つづく古城には外角高めのストレートを投げ、二者連続の空振り三振に切ってとりました。

 三浦投手が在籍した1992年から2011年までの20年間のうち、チームは1位1回、2位1回、3位4回、4位2回、5位3回、そして6位9回でした。力投しても打線の援護がなく、勝ち星が付かない試合も数多くありました。弱小チームにあっての150勝は、貴重な記録です。

 三浦投手といえば、ヘアースタイルをリーゼントで固め、「ハマの番長」と呼ばれています。最近は、若い投手陣を牽引する原動力となっています。

 150勝をあげた直後のヒーローインタビューでのやり取りです。

アナウンサー「三浦さん、9回にリリーフに出た山口投手が、最後にホームランを打たれたらどうしてましたか。」

三浦投手「思いっきり、蹴飛ばしてやりますよ。」

アナ「山口投手は、その時どうしますか。」

山口俊投手「ひとりで9回まで投げろと言ってやります。」

 このあと、山口がマイクに入らないところで、「冗談ですよ」と三浦に言っていました。

 記念撮影にはいると、まず右手でがっちり握手。山口は空いた左手を三浦の左肩に回します。左手が使えない三浦は、「お前なあ」と言いながら、握手を左手に組み替えて右手を山口の右肩に回していました。
 大先輩の三浦ですが、24歳の山口と同じ目線で言葉を交わしていました。すばらしいと思います。

 チームの浮上と自身の200勝を目指して頑張ってほしいものです。

2012年6月26日火曜日

それがなにか(エ・アロール)

フランスの元大統領、フランソワ・ミッテランは、第五共和制のもと初めての左派社会党の大統領です。1981年大統領選挙で、保守派のジスカール・デスタン大統領を破って大統領に就任しました。

 その就任記者会見の席で、ある記者がたずねました。

「大統領には、隠し子がいるとのことですが。」

 大統領は答えました。

「Et alors? (エ・アロール?=それがなにか?)」

 結局、質問はその回答で終わり、次の質問に進みました。

 ミッテランは、1944年にダニエルと結婚し、三人の男子をもうけています。一方で、1974年にはアンヌ・バンジュとの間にマザリーヌが生まれました。
 フランスでは、婚外子も実子と差別されることはないため、ミッテランは四人の子どもを平等に育てました。
 日本では大騒ぎになるかもしれませんが、「エ アロール」の一言ですむのですから、お国柄でしょうか。
 
 某野球団のリーダーは、28歳のときの火遊びを20年ほど後に強請られ、1億円を支払ったそうです。支払ったために、さらに強請られてしまい、この時はさすがに球団が乗り出して、お金は支払わなかったそうです。

 リーダーもどんな事情があったのか分かりませんが、「それがなにか?」ぐらいいって、強請り集団を退けてくれれば、ちょっとはかっこ良かったと思います。

2012年6月17日日曜日

卓球大会

6月17日、卓球大会に出場し優勝しました。これでロンドンオリンピックの日本代表選考に残ったかと思いましたが、残念ながら関係ありませんでした。私の住む段原小学校区の体協が主催する卓球大会です。
 4チーム総当りのリーグ戦で、対戦はダブルスで5試合行い、3試合取ったチームの勝ちです。
 
 10年以上参加しておりますが、優勝したことなどありません。試合で勝つこともまれで、ほとんど1セットも取れない状況でした。
 それが今回はどうでしょう。
 わがチームは、3勝0敗で堂々の優勝です。私は15試合のうち6試合出場し、4勝2敗でした。

 心がけたのは、球を相手のテーブルに返すということです。
 今まではスマッシュを決めようと、思い切り叩き込んでいました。しかし、それでは動作が大きくなって、次のプレーが出来ません。ミスも多くなってしまいます。
 今回は腕の振りを極力小さくし、球をそっと返す感じで、広島弁の「球をのすける」ようにプレーしました。ミスが減ったぶん相手にミスが生じ、得点を重ねて行きました。さらにフットワークも小刻みにし、「のすける」プレーを「みやすい」ものにしました。考えて工夫したことで勝利に貢献できました。

 一人で勝ったわけではありません。共に戦ったチームメイトに、ありがとうございますと申し上げます。

 また、大会を主催してくださった卓球部のみなさんに感謝を申し上げます。

 そしてリオデジャネイロ大会か、その次を目指したいと思います。

2012年1月15日日曜日

刑務所とは

広島を震撼させる事件が起こりました。
 1月11日午前10時40分、中区の吉島にある広島刑務所から40歳の囚人が脱走しました。12日は西区の住宅に空き巣に入るなど、逃走を続けました。13日午後4時30分頃、西区天満町の路上で女性警官から職務質問を受けたところ、本名を名乗り御用となりました。
 
 2日半に及ぶ逃走劇でした。その間、子どもたちの登校や下校時の警戒など、市民は恐怖を感じ続けました。また、連日全国ニュースと地方ニュースで報道され、市民はこの脱獄囚の捕縛に協力したものと思われます。

 しかし、逃走の経路をたどりますと、刑務所がこの囚人が逃走できるようにお膳立てしていたとしか思えません。6メートルある刑務所の塀は、改修工事のため工事用の足場が組んでありました。さらに、接触すると感知するようになっている防犯線の電源は切られていました。
 このため、囚人はやすやすと6メートルの塀に上り、塀の外の路面に飛び降り逃走したのです。
 近所の住民は、この工事用の足場を見て、
「抜け出せるのではないかと不安に思っていたら、やはりこのような事態が起きた」
 と、語っています。

 広島刑務所の山崎秀幸総務部長は、
「危険性が高いと認識していたが、職員に注意を呼びかける程度だった。」
 と、打ち明けています。

 刑務所とは、囚人の身柄を拘束するところです。
 今回の事件は、高い塀に足場を組み、さらに防犯線の電源を切って、「さあ、お逃げください。」と言わんばかりです。
 工事現場の足場を見て、「こりゃあ大事になる。監視を強化せんと。」と誰も思わなかったのです。想像力の欠如であり、無責任の極みであり、無能のそしりを免れません。

 今回の事件で、塀の外の住民の危険に対する感覚と、塀の中の刑務官の持つ感覚とに大きなギャップがあることが分かりました。
 このギャップを埋めるのが、私たち政治家の急務であると思います。