フィギュアスケートの全日本選手権、羽生結弦選手が優勝し3連覇を果たしました。
2週間前のグランプリファイナルでも2連覇を決めており国内に敵なしの状況です。
最初の4回転サルコーでは転倒しましたが、つぎの4回転トーループを決めてからは無難に演技を終えました。
彼の強さは逆境にあっても、力を存分に発揮することです。上海での大怪我から短期間で立ち直ったことは、驚嘆に値します。
二位以下に大差をつけての優勝は、羽生時代の到来を間違いないものにしました。
他のスポーツで無敵を誇るといえば、大相撲の横綱・白鵬と、体操の内村航平です。
彼ら三人は、ミスをしたり黒星を喫したりすることもありますが、その場面から立ち直る強靭さが並のレベルではありません。
誰よりも練習や稽古を積んでいる自信が、その実力を発揮させているのでしょう。立派なものです。
当分はかれらの時代が続くでしょう。
2014年7月5日土曜日
ワールドカップ
サッカー・ワールドカップもベスト8が出そろい、佳境に入ってきました。みなさんもそれぞれ応援するチームがあることでしょう。
わたしが応援しているのは、コロンビアとフランスです。
コロンビアのMF・ロドリゲスのウルグアイ戦でのシュートは見事の一言でした。MF・クアドラドのサイドからの攻撃も魅力的です。
フランスはベンゼマ、バルブエナ、ジルー(グリーズマン)の前線3人の切れ味がいいですね。
と、ここまで書いてきましたが、メンバー表を見ながら名前を書いています。なじみの無い名前で覚えられません。
かろうじてロドリゲスだけは、耳に覚えがあります。これは野球のヤンキースの4番打者、アレックス・ロドリゲスを知っているからです。
アメリカのFW・デンプシーからは、大正時代にボクシングの世界ヘビー級チャンピオンであったジャック・デンプシーを思い出します。そのすさまじいファイトぶりは、「マナッサのひと殺し」の異名をとりました。
日本と対戦したコート・ジボアールのMFヤヤ・トゥーレは、隣国ギニア共和国の建国の父、セク・トゥーレ大統領をほうふつとさせます。
フランスのハンサムな監督デュシャンですが、デュシャンヌ型筋ジストロフィー症という筋肉の力がだんだん衰えていく病気があります。発見したデュシャンヌという神経病理学者にちなんで命名されたと思われます。試験のヤマだったので、忘れられない名前です。
ドイツの点取り屋ミラーですが、力道山やジャイアント馬場と闘ったプロレスラー、ビッグ・ビル・ミラーのイメージと重なります。 マスクをかぶってミスターXを名乗り、大暴れしました。
メッシ、ロッベン、クリスチアーノ・ロナルド、ネイマールなどのビッグネームは苦も無く思い出されますが、あとの選手は覚えられません。
そうそう、ガーナも応援していました。FW・ジャンのスピード感たっぷりのドリブルは非常に魅力でしたが、早々に敗退して、おジャンになってしまったのは残念でした。
わたしが応援しているのは、コロンビアとフランスです。
コロンビアのMF・ロドリゲスのウルグアイ戦でのシュートは見事の一言でした。MF・クアドラドのサイドからの攻撃も魅力的です。
フランスはベンゼマ、バルブエナ、ジルー(グリーズマン)の前線3人の切れ味がいいですね。
と、ここまで書いてきましたが、メンバー表を見ながら名前を書いています。なじみの無い名前で覚えられません。
かろうじてロドリゲスだけは、耳に覚えがあります。これは野球のヤンキースの4番打者、アレックス・ロドリゲスを知っているからです。
アメリカのFW・デンプシーからは、大正時代にボクシングの世界ヘビー級チャンピオンであったジャック・デンプシーを思い出します。そのすさまじいファイトぶりは、「マナッサのひと殺し」の異名をとりました。
日本と対戦したコート・ジボアールのMFヤヤ・トゥーレは、隣国ギニア共和国の建国の父、セク・トゥーレ大統領をほうふつとさせます。
フランスのハンサムな監督デュシャンですが、デュシャンヌ型筋ジストロフィー症という筋肉の力がだんだん衰えていく病気があります。発見したデュシャンヌという神経病理学者にちなんで命名されたと思われます。試験のヤマだったので、忘れられない名前です。
ドイツの点取り屋ミラーですが、力道山やジャイアント馬場と闘ったプロレスラー、ビッグ・ビル・ミラーのイメージと重なります。 マスクをかぶってミスターXを名乗り、大暴れしました。
メッシ、ロッベン、クリスチアーノ・ロナルド、ネイマールなどのビッグネームは苦も無く思い出されますが、あとの選手は覚えられません。
そうそう、ガーナも応援していました。FW・ジャンのスピード感たっぷりのドリブルは非常に魅力でしたが、早々に敗退して、おジャンになってしまったのは残念でした。
2013年9月16日月曜日
バレンティンと田中将大
ヤクルトスワローズのウラジミール・バレンティン選手は、9月15日のヤクルト対阪神戦で、第1打席に、阪神タイガースの榎田大樹投手から今シーズン56本目のホームランを放ちました。
今までの年間ホームラン記録は55本。王貞治選手(巨人 1964年)、タフィ・ローズ選手(近鉄 2001年)、アレックス・カブレラ選手(西武 2002年)の3選手が達成しています。世界の王はもちろん、ローズ、カブレラ両選手とも、記録した年はチームをリーグ優勝に導いています。
バレンティン選手は、2011年、2012年ともにホームラン王に輝き、さらにバッティング技術を磨き、新記録を達成しました。
個人的な感想ですが、55本を放った3選手に比べるとチームの成績が今一つなだけに、バレンティン個人のみに脚光が当たっていたような気がします。
ヤクルトは、昨年活躍した選手が次々と怪我のため離脱し、優勝どころか3位を争う力もありませんでした。ヤクルトファンには気の毒な1年だったと思います。その憂鬱さをバレンティンが吹き飛ばしました。
楽天イーグルスの田中将大投手は、 9月13日のオリックス・バッファローズ戦で2失点に抑える完投勝利をあげ、開幕からの連勝を21とし、1957年稲尾和久投手(西鉄)が記録した同一シーズン最多連勝記録20を塗り替えました。
田中は今シーズン24試合に先発。21試合に勝利し、そのうち8試合が完投勝利でした。6月9日の巨人戦に勝利して以来は、14試合全てに勝利しています。登板すれば当たり前のように勝つ。素晴らしい記録です。
田中には恵まれた体力と、投げ込むたびに雄叫びをあげる気力とが備わっています。さらに高卒で楽天に入団して以来、野村克也と星野仙一の二人の監督から指導を受けました。佐藤義則投手コーチからは、5年間指導を受け続けています。優れた指導者に恵まれており、その指導を受け入れて自分のものとした田中は立派だと思います。
日本シリーズは、おそらく巨人と楽天の対戦でしょう。7戦のうち先に4勝したチームが日本一です。
巨人は内海、杉内、菅野、ホールトンの4人で先発をまわすでしょう。星野監督は田中をどう起用するのでしょうか。初戦の次は第4戦か第5戦か、リリーフでの起用はあるのか。興味はつきません。
日本シリーズといえば忘れてはならない投手がいます。もちろん稲尾和久です。
稲尾は1956、1957、1958年の西鉄の3連覇に貢献しました。巨人を4対3で破った1958年の日本シリーズで、7試合中6試合に登板し、西鉄の4勝のうちすべてで勝利投手となりました。
稲尾はこの活躍で、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれました。
シーズン最多連勝記録を塗り替えた田中に、日本シリーズでも稲尾の活躍に勝るともおとらぬ素晴らしい成績をおさめてもらいたいと思います。
今までの年間ホームラン記録は55本。王貞治選手(巨人 1964年)、タフィ・ローズ選手(近鉄 2001年)、アレックス・カブレラ選手(西武 2002年)の3選手が達成しています。世界の王はもちろん、ローズ、カブレラ両選手とも、記録した年はチームをリーグ優勝に導いています。
バレンティン選手は、2011年、2012年ともにホームラン王に輝き、さらにバッティング技術を磨き、新記録を達成しました。
個人的な感想ですが、55本を放った3選手に比べるとチームの成績が今一つなだけに、バレンティン個人のみに脚光が当たっていたような気がします。
ヤクルトは、昨年活躍した選手が次々と怪我のため離脱し、優勝どころか3位を争う力もありませんでした。ヤクルトファンには気の毒な1年だったと思います。その憂鬱さをバレンティンが吹き飛ばしました。
楽天イーグルスの田中将大投手は、 9月13日のオリックス・バッファローズ戦で2失点に抑える完投勝利をあげ、開幕からの連勝を21とし、1957年稲尾和久投手(西鉄)が記録した同一シーズン最多連勝記録20を塗り替えました。
田中は今シーズン24試合に先発。21試合に勝利し、そのうち8試合が完投勝利でした。6月9日の巨人戦に勝利して以来は、14試合全てに勝利しています。登板すれば当たり前のように勝つ。素晴らしい記録です。
田中には恵まれた体力と、投げ込むたびに雄叫びをあげる気力とが備わっています。さらに高卒で楽天に入団して以来、野村克也と星野仙一の二人の監督から指導を受けました。佐藤義則投手コーチからは、5年間指導を受け続けています。優れた指導者に恵まれており、その指導を受け入れて自分のものとした田中は立派だと思います。
日本シリーズは、おそらく巨人と楽天の対戦でしょう。7戦のうち先に4勝したチームが日本一です。
巨人は内海、杉内、菅野、ホールトンの4人で先発をまわすでしょう。星野監督は田中をどう起用するのでしょうか。初戦の次は第4戦か第5戦か、リリーフでの起用はあるのか。興味はつきません。
日本シリーズといえば忘れてはならない投手がいます。もちろん稲尾和久です。
稲尾は1956、1957、1958年の西鉄の3連覇に貢献しました。巨人を4対3で破った1958年の日本シリーズで、7試合中6試合に登板し、西鉄の4勝のうちすべてで勝利投手となりました。
稲尾はこの活躍で、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれました。
シーズン最多連勝記録を塗り替えた田中に、日本シリーズでも稲尾の活躍に勝るともおとらぬ素晴らしい成績をおさめてもらいたいと思います。
2013年9月8日日曜日
混戦のセリーグ
今年のプロ野球、セ・リーグは読売ジャイアンツの独走でほぼ決まり。パ・リーグは首位に立った楽天イーグルスが千葉ロッテマリーンズに迫られましたが、田中将大投手の開幕20連勝の活躍によって2位を引き離し優勝を目前にしています。
優勝の行方に興味が無くなったので、テレビ各社はプロ野球を報道せず、オリンピック東京開催のニュースばかりです。
セ・リーグは首位巨人と2位阪神が、それぞれ10をはるかに超える貯金を強みに順位を決定づけています。
3位以下はいずれも借金10を超えるチームばかりで、それぞれのファンはため息ばかりついてきました。
しかし、仲良く負け続けた結果、ペナントレース終盤に思わぬ盛り上がりを見せ始めました。
広島カープ、中日ドラゴンズ、横浜DeNAベイスターズがクライマックス・シリーズをかけて白熱の3位争いを演じているのです。
9月8日の日曜日、中日はヤクルトの4番・バレンティンに一発を浴びて敗退。横浜は好調の打線が今夜も活発で、広島に大勝しました。
その結果、3位の広島を2ゲーム差で中日と横浜が追うという展開になりました。
名古屋の中日ファンにたずねると、いったいどうなってるんやと言っていました。11年連続のAクラスチームのプライドがずたずたにされたという感想でした。
7年連続Bクラスで、しかもそのうちの6年は最下位の横浜はこの快進撃に盛り上がっています。横浜スタジアムでの土曜日の広島戦ですが、28920人が詰めかけてベイスターズに声援を送っています。
借金14とさんざんですが、3番モーガン、4番ブランコの新戦力に、5番中村紀洋も好調。梶谷、荒波、石川といった俊足の選手たちも力を付けています。投手陣では、新人の三嶋が先発ローテーションの一角をしめ、移籍のソーサが抑え投手として活躍しています。
横浜を50年以上応援しているファンに聞くと、先発ピッチャーが頼りない、広島の方がええと言っていました。
借金10の広島カープは15年連続のBクラス。以前は負けると選手に罵声を浴びせていたファンもたいへんマナーが良くなりました。応援して楽しければ良いといった雰囲気です。何年も負け越しが続いているからでしょう。
去年のカープは全日程終了時で借金10の4位でした。去年と同様の成績ですが、単独の3位です。前田健太、バリントン、大竹、野村の先発陣は安定し、中継ぎ陣も揃って、抑えのミコライオも役割を果たしています。ところが打線に波があり、活発に打つ日と無抵抗の日が極端です。野村監督苦心の打線の組み替えが、まったく機能していません。
中日が勝ち抜けないため、広島と横浜は幸運なAクラス争いに加わっています。ファンとしても、この行方にしっかり声援を送りたいと思います。
わたしの理想は、広島、中日、横浜の3チームが熾烈な首位争いをしてくれることですが、長いプロ野球の歴史の中で、そうなったことは無かったようです。
1997年に1位ヤクルト、2位横浜、3位広島という最終順位だったことがありますが、調べてみるとヤクルトと横浜は11ゲーム差、横浜と広島は6ゲーム差と、争ったとは言えない結果でした。
しかし、もしも弱小チームの首位争いとなれば、長年の弱小チームファンは東京五輪の百倍は熱狂するのではないでしょうか。
優勝の行方に興味が無くなったので、テレビ各社はプロ野球を報道せず、オリンピック東京開催のニュースばかりです。
セ・リーグは首位巨人と2位阪神が、それぞれ10をはるかに超える貯金を強みに順位を決定づけています。
3位以下はいずれも借金10を超えるチームばかりで、それぞれのファンはため息ばかりついてきました。
しかし、仲良く負け続けた結果、ペナントレース終盤に思わぬ盛り上がりを見せ始めました。
広島カープ、中日ドラゴンズ、横浜DeNAベイスターズがクライマックス・シリーズをかけて白熱の3位争いを演じているのです。
9月8日の日曜日、中日はヤクルトの4番・バレンティンに一発を浴びて敗退。横浜は好調の打線が今夜も活発で、広島に大勝しました。
その結果、3位の広島を2ゲーム差で中日と横浜が追うという展開になりました。
名古屋の中日ファンにたずねると、いったいどうなってるんやと言っていました。11年連続のAクラスチームのプライドがずたずたにされたという感想でした。
7年連続Bクラスで、しかもそのうちの6年は最下位の横浜はこの快進撃に盛り上がっています。横浜スタジアムでの土曜日の広島戦ですが、28920人が詰めかけてベイスターズに声援を送っています。
借金14とさんざんですが、3番モーガン、4番ブランコの新戦力に、5番中村紀洋も好調。梶谷、荒波、石川といった俊足の選手たちも力を付けています。投手陣では、新人の三嶋が先発ローテーションの一角をしめ、移籍のソーサが抑え投手として活躍しています。
横浜を50年以上応援しているファンに聞くと、先発ピッチャーが頼りない、広島の方がええと言っていました。
借金10の広島カープは15年連続のBクラス。以前は負けると選手に罵声を浴びせていたファンもたいへんマナーが良くなりました。応援して楽しければ良いといった雰囲気です。何年も負け越しが続いているからでしょう。
去年のカープは全日程終了時で借金10の4位でした。去年と同様の成績ですが、単独の3位です。前田健太、バリントン、大竹、野村の先発陣は安定し、中継ぎ陣も揃って、抑えのミコライオも役割を果たしています。ところが打線に波があり、活発に打つ日と無抵抗の日が極端です。野村監督苦心の打線の組み替えが、まったく機能していません。
中日が勝ち抜けないため、広島と横浜は幸運なAクラス争いに加わっています。ファンとしても、この行方にしっかり声援を送りたいと思います。
わたしの理想は、広島、中日、横浜の3チームが熾烈な首位争いをしてくれることですが、長いプロ野球の歴史の中で、そうなったことは無かったようです。
1997年に1位ヤクルト、2位横浜、3位広島という最終順位だったことがありますが、調べてみるとヤクルトと横浜は11ゲーム差、横浜と広島は6ゲーム差と、争ったとは言えない結果でした。
しかし、もしも弱小チームの首位争いとなれば、長年の弱小チームファンは東京五輪の百倍は熱狂するのではないでしょうか。
2013年7月22日月曜日
稀勢の里、白鵬の44連勝を阻む
大相撲名古屋場所の14日目。
この日まで横綱・白鵬は13戦全勝で、すでに26度目の優勝を決めました。春場所初日から43連勝です。
これに対抗する横綱・日馬富士は、中盤に3連敗して8勝5敗。あえなく優勝争いから脱落しました。
先場所13勝2敗で惜しくも優勝を逃した大関・稀勢の里は、序盤に下位力士に取りこぼし10勝3敗です。
優勝は決まっていましたが、13勝無敗の白鵬と10勝3敗の稀勢の里が対戦しました。
白鵬は、鶴竜、琴奨菊、琴欧洲との対戦で、右わき腹を痛め、テーピングで固定して土俵に上がりました。一方の稀勢の里はたんたんと仕切ります。
時間いっぱいの立会い。まず横綱がつっかけ、大関が待ったをしました。仕切りなおして両者そんきょの姿勢から、今度は横綱が待った。やや横綱が落ち着かない様子でした。
3回目、立ち上がって横綱が左で大関の顔を張って右でかち上げました。
しかし、大関はこれにひるまず、細かい突き押しで前に出ます。横綱も下から大関の突き手をあてがって応戦しました。
横綱が差し勝ち、得意の右四つとなりましたが、大関は不得意の態勢のまま寄って出ます。
横綱は後退しながら右からすくい投げを放つも、大関の圧力に屈し、土俵下へ崩れ落ちました。
見事な大熱戦でした。
白鵬に土。44連勝はなりませんでした。
稀勢の里の健闘に、場内は座布団の雨が降りました。白鵬がばたばたと動いたのに対し、稀勢の里は相手の身体を自分の前に置いて、突き押しで攻めとおしました。
北の湖理事長は、稀勢の里が12勝すれば次の場所に横綱挑戦の機会を与えると述べていました。
これには、早く日本人横綱を実現させたい相撲協会の思惑が正直にあらわれています。
北の湖自身、横綱昇進前の3場所は、10勝、13勝(優勝)、13勝(優勝同点、優勝は横綱・輪島)。文句なしでの昇進ではありませんでした。
最近の横綱は、二場所連続優勝をとげて昇進しています。12勝で終わって、翌場所の優勝で昇進は甘すぎます。
しかし、この日のような相撲を15日間取ることができれば、稀勢の里は胸を張って横綱に昇進できると思います。一層の精進を期待します。
白鵬は全盛時に比べると、やや力感に乏しくなりましたが、その実力はやはり群を抜いており、当分は第一人者として君臨することでしょう。
両者が毎場所優勝を争って、大相撲を盛り上げてもらいたいものです。
この日まで横綱・白鵬は13戦全勝で、すでに26度目の優勝を決めました。春場所初日から43連勝です。
これに対抗する横綱・日馬富士は、中盤に3連敗して8勝5敗。あえなく優勝争いから脱落しました。
先場所13勝2敗で惜しくも優勝を逃した大関・稀勢の里は、序盤に下位力士に取りこぼし10勝3敗です。
優勝は決まっていましたが、13勝無敗の白鵬と10勝3敗の稀勢の里が対戦しました。
白鵬は、鶴竜、琴奨菊、琴欧洲との対戦で、右わき腹を痛め、テーピングで固定して土俵に上がりました。一方の稀勢の里はたんたんと仕切ります。
時間いっぱいの立会い。まず横綱がつっかけ、大関が待ったをしました。仕切りなおして両者そんきょの姿勢から、今度は横綱が待った。やや横綱が落ち着かない様子でした。
3回目、立ち上がって横綱が左で大関の顔を張って右でかち上げました。
しかし、大関はこれにひるまず、細かい突き押しで前に出ます。横綱も下から大関の突き手をあてがって応戦しました。
横綱が差し勝ち、得意の右四つとなりましたが、大関は不得意の態勢のまま寄って出ます。
横綱は後退しながら右からすくい投げを放つも、大関の圧力に屈し、土俵下へ崩れ落ちました。
見事な大熱戦でした。
白鵬に土。44連勝はなりませんでした。
稀勢の里の健闘に、場内は座布団の雨が降りました。白鵬がばたばたと動いたのに対し、稀勢の里は相手の身体を自分の前に置いて、突き押しで攻めとおしました。
北の湖理事長は、稀勢の里が12勝すれば次の場所に横綱挑戦の機会を与えると述べていました。
これには、早く日本人横綱を実現させたい相撲協会の思惑が正直にあらわれています。
北の湖自身、横綱昇進前の3場所は、10勝、13勝(優勝)、13勝(優勝同点、優勝は横綱・輪島)。文句なしでの昇進ではありませんでした。
最近の横綱は、二場所連続優勝をとげて昇進しています。12勝で終わって、翌場所の優勝で昇進は甘すぎます。
しかし、この日のような相撲を15日間取ることができれば、稀勢の里は胸を張って横綱に昇進できると思います。一層の精進を期待します。
白鵬は全盛時に比べると、やや力感に乏しくなりましたが、その実力はやはり群を抜いており、当分は第一人者として君臨することでしょう。
両者が毎場所優勝を争って、大相撲を盛り上げてもらいたいものです。
2013年7月13日土曜日
阪神広島の熱戦
マツダスタジアムの外野席、カープファンの先輩とタイガースファンの後輩が観戦しています。
試合はタイガースの大量リードで終盤を迎えます。
「7回の表、阪神タイガースの攻撃です。阪神ファンのみなさま、どうぞご声援ください。」
六甲おろしの前奏が流れます。
阪神の大量リードでやけになった先輩、応援歌を阪神の応援団と一緒に歌い始めました。
「六甲おろしに、さっそうと
蒼天かけるー 日輪のー」
「二番も歌うぞー
鉄腕きょうだー いくちたびー
鍛えてここにー 甲子園」
二番以降の歌詞を知らない後輩は、スマホで確認しています。それにかまわず歌う先輩。
「獣王の意気たからかにー」
「先輩、さっきの歌詞は三番ですよ。
そこは二番です。」
かまわず歌い続ける先輩。
「輝くわれらぞ」
「そこは三番です。」
「オウオウオウオウ 大阪タイガース
フレフレフレー。」
「二番の最初は、刺すという字です。」
「わかった。
闘志溌剌 たつやいまー
熱血すでにー 敵をつうくー」
「勝利にー 燃える栄冠わー」
「全然だめです。そこは三番です。」
「無敵の我がなぞ 大阪タイガース
オウオウオウオウ 大阪タイガース
フレフレフレフレー」
(注:オリジナルの歌詞は大阪タイガース。六甲おろしが作られた時期のチーム名です。)
応援歌を歌っている間に、カープは反撃の兆しも見せず、試合はそのままタイガースの勝利に終わりました。
「刺すと溌剌(はつらつ)の剌(らつ)は、字が違うのではないか。」
せめて先輩はカープに代わって後輩に反撃できればよかったのですが、それに気付いたのはゲームセットの後。
完全な敗北を喫した広島カープでした。
試合はタイガースの大量リードで終盤を迎えます。
「7回の表、阪神タイガースの攻撃です。阪神ファンのみなさま、どうぞご声援ください。」
六甲おろしの前奏が流れます。
阪神の大量リードでやけになった先輩、応援歌を阪神の応援団と一緒に歌い始めました。
「六甲おろしに、さっそうと
蒼天かけるー 日輪のー」
「二番も歌うぞー
鉄腕きょうだー いくちたびー
鍛えてここにー 甲子園」
二番以降の歌詞を知らない後輩は、スマホで確認しています。それにかまわず歌う先輩。
「獣王の意気たからかにー」
「先輩、さっきの歌詞は三番ですよ。
そこは二番です。」
かまわず歌い続ける先輩。
「輝くわれらぞ」
「そこは三番です。」
「オウオウオウオウ 大阪タイガース
フレフレフレー。」
「二番の最初は、刺すという字です。」
「わかった。
闘志溌剌 たつやいまー
熱血すでにー 敵をつうくー」
「勝利にー 燃える栄冠わー」
「全然だめです。そこは三番です。」
「無敵の我がなぞ 大阪タイガース
オウオウオウオウ 大阪タイガース
フレフレフレフレー」
(注:オリジナルの歌詞は大阪タイガース。六甲おろしが作られた時期のチーム名です。)
応援歌を歌っている間に、カープは反撃の兆しも見せず、試合はそのままタイガースの勝利に終わりました。
「刺すと溌剌(はつらつ)の剌(らつ)は、字が違うのではないか。」
せめて先輩はカープに代わって後輩に反撃できればよかったのですが、それに気付いたのはゲームセットの後。
完全な敗北を喫した広島カープでした。
2013年5月27日月曜日
白鵬25回目の優勝
大相撲夏場所14日目、横綱・白鵬と大関・稀勢の里はともに13戦全勝で激突しました。
白鵬はすでに優勝24回の強豪、一方の稀勢の里は初優勝をめざします。実力差が明らかだった両者ですが、今場所は「激突」の言葉がふさわしい一番となりました。場所の中盤から、稀勢の里に変化が見えたからです。
いつもの腰高の相撲は影ををひそめ、ぐっと腰を落とし、しかも前へ出る取り口に徹して安定感がありました。
一方の白鵬は、得意の右四つ左上手を取っての相撲こそ少なかったものの、動きの中で自分十分の体勢をつくった相撲で、危なげありませんでした。
両者13連勝のうえで対戦、立ち合いで先に腰を割ったのは稀勢の里でした。
左手をついて白鵬の動きを待っていましたが、 白鵬が手をつかず仕切り直しとなりました。このあたりで、白鵬が稀勢の里の勢いを止めた印象でした。
立ち上がって白鵬は左に変化。左の上手を取って左へまわります。両者は一旦土俵中央でとまり、稀勢の里は左を巻き替えます。白鵬も左を巻き替えて左四つになりました。
左四つは稀勢の里の得意の組み手です。ここぞとばかり稀勢の里は寄って出ますが、白鵬はこれをこらえます。
白鵬が寄り返して左から下手投げを放つと、両者横倒しとなりました。稀勢の里は背中から落ち、白鵬は少し遅れて右の肩から落ちました。両者、体にべっとりと砂を付いていました。
稀勢の里が倒れるとき、不自然に左の足の甲が反ってしまっていました。白鵬が語るには、土俵が軟らかかったということです。
白鵬は土俵の軟らかさも計算に入れて下手投げを放ち、稀勢の里が足を送れないように体を浴びせました。なんという緻密な相撲でしょう。
結局、白鵬は全勝で25回目の優勝をとげました。素晴らしいの一言です。
稀勢の里は、今まで大関では10勝がせいぜいだったところ13勝をあげました。勝ち星3つ分強くなったと言えましょう。これも大変立派なことです。
来場所からの両者の対決が楽しみです。
白鵬はすでに優勝24回の強豪、一方の稀勢の里は初優勝をめざします。実力差が明らかだった両者ですが、今場所は「激突」の言葉がふさわしい一番となりました。場所の中盤から、稀勢の里に変化が見えたからです。
いつもの腰高の相撲は影ををひそめ、ぐっと腰を落とし、しかも前へ出る取り口に徹して安定感がありました。
一方の白鵬は、得意の右四つ左上手を取っての相撲こそ少なかったものの、動きの中で自分十分の体勢をつくった相撲で、危なげありませんでした。
両者13連勝のうえで対戦、立ち合いで先に腰を割ったのは稀勢の里でした。
左手をついて白鵬の動きを待っていましたが、 白鵬が手をつかず仕切り直しとなりました。このあたりで、白鵬が稀勢の里の勢いを止めた印象でした。
立ち上がって白鵬は左に変化。左の上手を取って左へまわります。両者は一旦土俵中央でとまり、稀勢の里は左を巻き替えます。白鵬も左を巻き替えて左四つになりました。
左四つは稀勢の里の得意の組み手です。ここぞとばかり稀勢の里は寄って出ますが、白鵬はこれをこらえます。
白鵬が寄り返して左から下手投げを放つと、両者横倒しとなりました。稀勢の里は背中から落ち、白鵬は少し遅れて右の肩から落ちました。両者、体にべっとりと砂を付いていました。
稀勢の里が倒れるとき、不自然に左の足の甲が反ってしまっていました。白鵬が語るには、土俵が軟らかかったということです。
白鵬は土俵の軟らかさも計算に入れて下手投げを放ち、稀勢の里が足を送れないように体を浴びせました。なんという緻密な相撲でしょう。
結局、白鵬は全勝で25回目の優勝をとげました。素晴らしいの一言です。
稀勢の里は、今まで大関では10勝がせいぜいだったところ13勝をあげました。勝ち星3つ分強くなったと言えましょう。これも大変立派なことです。
来場所からの両者の対決が楽しみです。
2012年11月4日日曜日
野球の日
ブログの読者のみなさんから言われることがあります。
「松坂さんはスポーツをされるのですね。卓球とか。」
卓球を記事にしたことがあるので、そう思われているのかも知れません。
ただ、一番やってきたスポーツは野球です。中学、高校、大学と合計12年間は野球部でした。医者になっても15年間、野球かソフトボールを続けました。議員になっても13年続けています。
合わせて40年になりますが、残念ながら下手なままです。
医師会の野球部チームは、私が幹事、グラウンド確保係、相手チーム探し係、会計、荷物運搬係を兼ねている以上、監督も務めています。下手ですが監督自ら出場しつつ、サインも出します。
その球歴の中で、初めての記録を打ち立てました。
試合は、広大医学部野球部のOB対現役の対戦です。私はOBチームの二塁手として出場しました。
まず第1打席、3年生の左腕投手と対戦。1ボール2ストライクから、外角の直球を軽くすくいあげるとセンター前へポトリと落ちました。
ついで第2打席は2年生の左腕投手です。外角の速球をミートすると打球はライナーとなってセンター前に飛びました。クリーンヒットです。
第3打席は1死二・三塁のチャンスです。さすがに内角高めにスピードボールを投げてきました。鋭くスウィングすると、バットの根元に当たりファースト後方に落ちるヒットとなり2打点をあげました。そのあと後続打者のタイムリーで二塁から生還。この時ラミレス選手(DeNA)の決めポーズ「ゲッツ」を決めてご満悦でした。
4打席目は、バッテリーも守備の選手も意識していたようです。1死一・三塁のチャンス。外角低めの直球を無心で払うと、一二塁間をゴロで抜けていき打点1をあげました。さらに後続のタイムリーでホームイン。またラミレスの「ゲッツ」で決めました。
初めて記録したのは4打席連続安打でした。
秋晴れの下、たくさん打席に立てて、ヒットも打てて、幸せだなと感じました。
この試合は、OBチームが大敗したことを申し添えておきます。
そして、その晩の夢の中でも、ライト前に5本目のヒットを放ちました。よほどうれしかったのでしょう。 いつも試合中なのかも知れません。
「松坂さんはスポーツをされるのですね。卓球とか。」
卓球を記事にしたことがあるので、そう思われているのかも知れません。
ただ、一番やってきたスポーツは野球です。中学、高校、大学と合計12年間は野球部でした。医者になっても15年間、野球かソフトボールを続けました。議員になっても13年続けています。
合わせて40年になりますが、残念ながら下手なままです。
医師会の野球部チームは、私が幹事、グラウンド確保係、相手チーム探し係、会計、荷物運搬係を兼ねている以上、監督も務めています。下手ですが監督自ら出場しつつ、サインも出します。
その球歴の中で、初めての記録を打ち立てました。
試合は、広大医学部野球部のOB対現役の対戦です。私はOBチームの二塁手として出場しました。
まず第1打席、3年生の左腕投手と対戦。1ボール2ストライクから、外角の直球を軽くすくいあげるとセンター前へポトリと落ちました。
ついで第2打席は2年生の左腕投手です。外角の速球をミートすると打球はライナーとなってセンター前に飛びました。クリーンヒットです。
第3打席は1死二・三塁のチャンスです。さすがに内角高めにスピードボールを投げてきました。鋭くスウィングすると、バットの根元に当たりファースト後方に落ちるヒットとなり2打点をあげました。そのあと後続打者のタイムリーで二塁から生還。この時ラミレス選手(DeNA)の決めポーズ「ゲッツ」を決めてご満悦でした。
4打席目は、バッテリーも守備の選手も意識していたようです。1死一・三塁のチャンス。外角低めの直球を無心で払うと、一二塁間をゴロで抜けていき打点1をあげました。さらに後続のタイムリーでホームイン。またラミレスの「ゲッツ」で決めました。
初めて記録したのは4打席連続安打でした。
秋晴れの下、たくさん打席に立てて、ヒットも打てて、幸せだなと感じました。
この試合は、OBチームが大敗したことを申し添えておきます。
そして、その晩の夢の中でも、ライト前に5本目のヒットを放ちました。よほどうれしかったのでしょう。 いつも試合中なのかも知れません。
2012年10月26日金曜日
1968年のオールスター戦
2012年のプロ野球は、日本ハム対巨人の日本シリーズを残すのみとなりました。吉川、武田勝の両左腕が、巨人をねじ伏せてくれることを期待します。
私が6歳だった1965年から、巨人は9年連続日本一を達成しました。9年間、毎年同じことの繰り返しでした。
まず広島カープが5月5日を境に脱落、ついで応援していた大洋ホエールズが奮闘むなしく敗退。あまり好きでない阪神が、一番嫌いな巨人と闘って巨人が優勝します。つづく日本シリーズでは、南海ホークス、阪急ブレーブス、ロッテオリオンズがいずれも敗退。圧倒的に強い巨人でした。
9年間、テレビで放映されるのは巨人の試合だけでした。巨人と他の5チームの試合です。
パリーグの試合は、月に一度くらいNHKで放映するだけでした。
そんな普段テレビに映らないパの選手が、アップでテレビに映るのがオールスター戦でした。
新聞でしか知らない選手が次々出てきます。
特に覚えているのは、1968年7月23日に川崎球場で行われたオールスター戦です。土曜日のナイターで、たぶんNHKで放映したのを、試合開始から終了まで食い入るように見ていました。
先攻はパ、一番のロペス(東京オリオンズ)がセの先発島田源太郎(大洋)の初球をいきなりホームラン。1964年以来カムバックした島田でしたが、ロペスの怪力に吹っ飛びました。しかし島田はスライダーが冴え、結局は3回を1点に抑えました。
一方のパの先発は池永正明(西鉄ライオンズ)です。速球派の池永はびゅんびゅんストレートを投げ込み、王も長嶋も凡退させます。3回を9人で切ってとりました。
セの2番手は江夏豊(阪神)。江夏も負けじと速球で押し、張本(東映フライヤーズ)、野村(南海)らを完璧に抑えます。3回を無失点で収めました。
パの2番手は森安敏明(東映)。全盛期は江夏よりも池永よりも早いといわれた速球派です。えげつないスライダーも武器です。3回を9人で抑えました。
セの3人目は小川健太郎(中日)です。横手投げながらそのスピードボールは切れ味抜群、前年29勝を挙げています。小川も3回をすんなり無失点に抑えました。
パの3人目は成田文男(ロッテ)、シュートを武器に9回ツーアウトまで完璧に抑えました。あと一人で完全試合リレーです。
ここで私はさすがにセを応援しました。セの誰かがヒットで出塁。残念ながらこの選手が記憶に残っていません。その代走が柴田勲(巨人)。トレードマークの赤い手袋をつけて、二盗三盗とあざやかに決めました。
この2死三塁で登場したのが山本一義(広島)。すこし頼りなく映りましたが、成田のボールをとらえたあたりは、高いバウンドのセカンドゴロ。これをパの内野陣が処理しえず、同点となりました。
延長となってセのマウンドは、外木場義郎(広島)。さっそうとパを三者凡退に打ち取りました。
その裏のパは石井茂雄(阪急)が登板。さすがに池永や森安に比べれば、打ちやすそうでした。江藤慎一(中日)が石井の初球をレフトスタンドに叩き込み、最後はセが勝ちました。
池永、森安、成田といった速球派のボールは、見たことのない躍動する球でした。
しかし、この試合から間もなく、池永、森安、小川健太郎は八百長やとばく事件に関与した疑いで、野球界を追放されました。
私にとっては、選手たちの一瞬のきらめきを見たオールスターでした。
私が6歳だった1965年から、巨人は9年連続日本一を達成しました。9年間、毎年同じことの繰り返しでした。
まず広島カープが5月5日を境に脱落、ついで応援していた大洋ホエールズが奮闘むなしく敗退。あまり好きでない阪神が、一番嫌いな巨人と闘って巨人が優勝します。つづく日本シリーズでは、南海ホークス、阪急ブレーブス、ロッテオリオンズがいずれも敗退。圧倒的に強い巨人でした。
9年間、テレビで放映されるのは巨人の試合だけでした。巨人と他の5チームの試合です。
パリーグの試合は、月に一度くらいNHKで放映するだけでした。
そんな普段テレビに映らないパの選手が、アップでテレビに映るのがオールスター戦でした。
新聞でしか知らない選手が次々出てきます。
特に覚えているのは、1968年7月23日に川崎球場で行われたオールスター戦です。土曜日のナイターで、たぶんNHKで放映したのを、試合開始から終了まで食い入るように見ていました。
先攻はパ、一番のロペス(東京オリオンズ)がセの先発島田源太郎(大洋)の初球をいきなりホームラン。1964年以来カムバックした島田でしたが、ロペスの怪力に吹っ飛びました。しかし島田はスライダーが冴え、結局は3回を1点に抑えました。
一方のパの先発は池永正明(西鉄ライオンズ)です。速球派の池永はびゅんびゅんストレートを投げ込み、王も長嶋も凡退させます。3回を9人で切ってとりました。
セの2番手は江夏豊(阪神)。江夏も負けじと速球で押し、張本(東映フライヤーズ)、野村(南海)らを完璧に抑えます。3回を無失点で収めました。
パの2番手は森安敏明(東映)。全盛期は江夏よりも池永よりも早いといわれた速球派です。えげつないスライダーも武器です。3回を9人で抑えました。
セの3人目は小川健太郎(中日)です。横手投げながらそのスピードボールは切れ味抜群、前年29勝を挙げています。小川も3回をすんなり無失点に抑えました。
パの3人目は成田文男(ロッテ)、シュートを武器に9回ツーアウトまで完璧に抑えました。あと一人で完全試合リレーです。
ここで私はさすがにセを応援しました。セの誰かがヒットで出塁。残念ながらこの選手が記憶に残っていません。その代走が柴田勲(巨人)。トレードマークの赤い手袋をつけて、二盗三盗とあざやかに決めました。
この2死三塁で登場したのが山本一義(広島)。すこし頼りなく映りましたが、成田のボールをとらえたあたりは、高いバウンドのセカンドゴロ。これをパの内野陣が処理しえず、同点となりました。
延長となってセのマウンドは、外木場義郎(広島)。さっそうとパを三者凡退に打ち取りました。
その裏のパは石井茂雄(阪急)が登板。さすがに池永や森安に比べれば、打ちやすそうでした。江藤慎一(中日)が石井の初球をレフトスタンドに叩き込み、最後はセが勝ちました。
池永、森安、成田といった速球派のボールは、見たことのない躍動する球でした。
しかし、この試合から間もなく、池永、森安、小川健太郎は八百長やとばく事件に関与した疑いで、野球界を追放されました。
私にとっては、選手たちの一瞬のきらめきを見たオールスターでした。
2012年9月23日日曜日
昭和37年のセリーグ
平成24年のセリーグは、予想通りに巨人軍が独走で優勝を飾りました。
ペナントレースは、まったく面白くないの一言。横浜は開幕から最下位に沈み、広島は3位に手の届きそうなところでの9連戦を1勝8敗と大きく負け越し、失速しました。
ある試合の終盤、ノーアウト一、二塁のチャンスでサインは強攻。バッター東出は打って出てショートゴロ。一塁ランナーと二塁ランナーがアウトになりました。
この時期、野村監督は「責任は俺がとる」と言ったそうです。その途端に連敗が始まったようです。チームの中に、監督交代を望んでいる空気が読み取れます。
さて、今私は「死闘。昭和三十七年阪神タイガース」という本を読んでいます。このころは、野球の試合も時代がかっていました。個人と個人の因縁の対決という色彩が濃厚でした。
37年は、阪神タイガースと大洋ホエールズ(現在の横浜)が残り数試合までデッドヒートを繰り広げました。阪神が残り6試合、大洋が残り9試合を残した段階で、阪神が1.5ゲーム差で首位でした。
9月25・26日、両チームは川崎球場で激突しました。
25日の先発は阪神が村山実(この年25勝14敗)、大洋は秋山登(26勝12敗)でした。大洋は、桑田武のホームランなどで3対0で先勝しました。
26日の先発は、阪神が小山正明(27勝11敗)、大洋は前日9回を完封した秋山が連投です。
大洋は、鈴木武の二塁打と近藤和彦の犠牲フライで1点を先取。秋山は、なんと9回をシャットアウトの力投。大洋が0.5ゲーム差で首位に立ちました。絶対有利に立ちました。
この時大洋の監督は三原脩。阪神の藤本定義監督は、昭和11年読売巨人軍がスタートした時の監督で、その時助監督が三原でした。大監督同士のマッチレース、負けるわけにはいきません。
三原はチームの運命をエースの秋山に託し、秋山は首位の阪神を18イニング無失点に抑え、三原の期待に応えたのでした。
しかし、大洋は残り7試合となって川上監督の巨人に3連敗を喫しました。一方、いったん死んだ阪神は、国鉄スワローズ(今のヤクルト)に3連勝で首位を奪還。つづく広島戦で優勝を決めました。
最終順位は、1.阪神 2.大洋 3.中日 4.巨人 5.広島 6.国鉄 でした。
しかし、ここで優勝を決めるという時に、監督の三原はあえて秋山に連投を命じ、秋山はそれに応えて二試合とも完封勝ちで飾ったというエピソードには感動しました。
当時、私は3歳だったので、まったく記憶がありません。
私がプロ野球を観戦し始めた昭和40年は三原、秋山、桑田、近藤は大洋のメンバーで、藤本、村山も阪神のメンバーでした。
その頃も、37年の雰囲気は残っていました。いまのプロ野球より数段面白く、しかも人間臭かったようです。 今で言うと、カープが3位に入るため、エースの前田健太に2試合連投を命じるようなものです。前田が「投げましょう」という気になるかどうか。
チームのため、ファンのためと考えて投げようとするかもしれません。
首脳陣と前田健太の間に、三原と秋山のような人間関係があれば投げるでしょう。しかし、そのような雰囲気はみじんも感じません。
そうなっていない以上、前田投手は目先の一戦だけでなく、来年を見据えてほしいと思います。
ペナントレースは、まったく面白くないの一言。横浜は開幕から最下位に沈み、広島は3位に手の届きそうなところでの9連戦を1勝8敗と大きく負け越し、失速しました。
ある試合の終盤、ノーアウト一、二塁のチャンスでサインは強攻。バッター東出は打って出てショートゴロ。一塁ランナーと二塁ランナーがアウトになりました。
この時期、野村監督は「責任は俺がとる」と言ったそうです。その途端に連敗が始まったようです。チームの中に、監督交代を望んでいる空気が読み取れます。
さて、今私は「死闘。昭和三十七年阪神タイガース」という本を読んでいます。このころは、野球の試合も時代がかっていました。個人と個人の因縁の対決という色彩が濃厚でした。
37年は、阪神タイガースと大洋ホエールズ(現在の横浜)が残り数試合までデッドヒートを繰り広げました。阪神が残り6試合、大洋が残り9試合を残した段階で、阪神が1.5ゲーム差で首位でした。
9月25・26日、両チームは川崎球場で激突しました。
25日の先発は阪神が村山実(この年25勝14敗)、大洋は秋山登(26勝12敗)でした。大洋は、桑田武のホームランなどで3対0で先勝しました。
26日の先発は、阪神が小山正明(27勝11敗)、大洋は前日9回を完封した秋山が連投です。
大洋は、鈴木武の二塁打と近藤和彦の犠牲フライで1点を先取。秋山は、なんと9回をシャットアウトの力投。大洋が0.5ゲーム差で首位に立ちました。絶対有利に立ちました。
この時大洋の監督は三原脩。阪神の藤本定義監督は、昭和11年読売巨人軍がスタートした時の監督で、その時助監督が三原でした。大監督同士のマッチレース、負けるわけにはいきません。
三原はチームの運命をエースの秋山に託し、秋山は首位の阪神を18イニング無失点に抑え、三原の期待に応えたのでした。
しかし、大洋は残り7試合となって川上監督の巨人に3連敗を喫しました。一方、いったん死んだ阪神は、国鉄スワローズ(今のヤクルト)に3連勝で首位を奪還。つづく広島戦で優勝を決めました。
最終順位は、1.阪神 2.大洋 3.中日 4.巨人 5.広島 6.国鉄 でした。
しかし、ここで優勝を決めるという時に、監督の三原はあえて秋山に連投を命じ、秋山はそれに応えて二試合とも完封勝ちで飾ったというエピソードには感動しました。
当時、私は3歳だったので、まったく記憶がありません。
私がプロ野球を観戦し始めた昭和40年は三原、秋山、桑田、近藤は大洋のメンバーで、藤本、村山も阪神のメンバーでした。
その頃も、37年の雰囲気は残っていました。いまのプロ野球より数段面白く、しかも人間臭かったようです。 今で言うと、カープが3位に入るため、エースの前田健太に2試合連投を命じるようなものです。前田が「投げましょう」という気になるかどうか。
チームのため、ファンのためと考えて投げようとするかもしれません。
首脳陣と前田健太の間に、三原と秋山のような人間関係があれば投げるでしょう。しかし、そのような雰囲気はみじんも感じません。
そうなっていない以上、前田投手は目先の一戦だけでなく、来年を見据えてほしいと思います。
2012年4月14日土曜日
オリンピックの金メダル
アスリート最高の栄誉は、4年に1度開かれるオリンピックで優勝することでしょう。
競泳平泳ぎの北島康介選手は、2004年のアテネ大会で、100メートル・200メートルとも優勝。さらに2008年の北京大会でも同じ2種目で優勝しました。
さらに今年のロンドン大会の国内選考競技でも、自らの持つ日本記録に迫る好成績で大会出場を決めました。3大会連続の2種目優勝など聞いたことなどありませんが、北島選手ならやってくれそうな気がします。
個人での最多金メダル獲得者といえば、フィンランドの英雄、パーヴォ・ヌルミ選手です。3つのオリンピックに出場し、陸上競技で合計9個の金メダルを獲得しています。
1920年のベルギー・アントワープ大会では、10000メートル、クロスカントリー個人、クロスカントリー団体で優勝して3つ。
1924年のフランス・パリ大会では、1500メートル、5000メートル、クロスカントリー個人、クロスカントリー団体、3000メートル団体で優勝して5つ。
1928年のオランダ・アムステルダム大会では、10000メートルで優勝して1つ。
合計9個の金メダルを獲得しました。
最も激戦だったのは、パリ大会5000メートル決勝です。
当日、ヌルミは1500メートルと5000メートルの2種目にエントリーしていました。まずは最初の1500メートルは、オリンピック新記録で優勝しました。
しかし、次の5000メートルのスタートまでの時間はわずか30分。ヌルミ側からの抗議の末、スタートは1時間半ほど延長されました。そのヌルミに立ちはだかったのは、同じフィンランドのヴィリョ・リトラでした。
リトラは4日前に、ヌルミがエントリーされなかった10000メートルに出場し、世界新記録で優勝していました。
ヌルミかリトラか。観衆がかたずを飲んで見守る中、スタートのピストルが鳴りました。
2時間前に走ったばかりのヌルミの消耗を考え、リトラが飛ばします。しかし、2500メートルでヌルミがリトラをとらえます。先頭に立つヌルミ。抜かれたリトラも追走します。
残り500メートル。ヌルミは手に持っていたストップウォッチを投げ捨てて猛然とスパート。リトラもそれを懸命に追い上げます。
観客は総立ち。両者ほぼ同時にゴールインしました。
わずかの差で1位はヌルミ、2位はリトラ。わずか0.2秒差の死闘でした。
1952年フィンランドのヘルシンキ大会で、ヌルミは最終聖火ランナーとして、聖火台に点火する栄誉を与えられました。
私はヌルミと並走したことがあります。
といっても銅像のヌルミですが。
ヘルシンキのオリンピックスタジアムにヌルミの銅像があると聞いて、ヘルシンキ市へ海外視察に出かけたとき、同僚の議員に写真を撮ってもらいました。せっかくだからランニングポーズをとりました。
デジタルのデータがないので今回はお見せできませんが、いつかお見せしたいと思います。
競泳平泳ぎの北島康介選手は、2004年のアテネ大会で、100メートル・200メートルとも優勝。さらに2008年の北京大会でも同じ2種目で優勝しました。
さらに今年のロンドン大会の国内選考競技でも、自らの持つ日本記録に迫る好成績で大会出場を決めました。3大会連続の2種目優勝など聞いたことなどありませんが、北島選手ならやってくれそうな気がします。
個人での最多金メダル獲得者といえば、フィンランドの英雄、パーヴォ・ヌルミ選手です。3つのオリンピックに出場し、陸上競技で合計9個の金メダルを獲得しています。
1920年のベルギー・アントワープ大会では、10000メートル、クロスカントリー個人、クロスカントリー団体で優勝して3つ。
1924年のフランス・パリ大会では、1500メートル、5000メートル、クロスカントリー個人、クロスカントリー団体、3000メートル団体で優勝して5つ。
1928年のオランダ・アムステルダム大会では、10000メートルで優勝して1つ。
合計9個の金メダルを獲得しました。
最も激戦だったのは、パリ大会5000メートル決勝です。
当日、ヌルミは1500メートルと5000メートルの2種目にエントリーしていました。まずは最初の1500メートルは、オリンピック新記録で優勝しました。
しかし、次の5000メートルのスタートまでの時間はわずか30分。ヌルミ側からの抗議の末、スタートは1時間半ほど延長されました。そのヌルミに立ちはだかったのは、同じフィンランドのヴィリョ・リトラでした。
リトラは4日前に、ヌルミがエントリーされなかった10000メートルに出場し、世界新記録で優勝していました。
ヌルミかリトラか。観衆がかたずを飲んで見守る中、スタートのピストルが鳴りました。
2時間前に走ったばかりのヌルミの消耗を考え、リトラが飛ばします。しかし、2500メートルでヌルミがリトラをとらえます。先頭に立つヌルミ。抜かれたリトラも追走します。
残り500メートル。ヌルミは手に持っていたストップウォッチを投げ捨てて猛然とスパート。リトラもそれを懸命に追い上げます。
観客は総立ち。両者ほぼ同時にゴールインしました。
わずかの差で1位はヌルミ、2位はリトラ。わずか0.2秒差の死闘でした。
1952年フィンランドのヘルシンキ大会で、ヌルミは最終聖火ランナーとして、聖火台に点火する栄誉を与えられました。
私はヌルミと並走したことがあります。
といっても銅像のヌルミですが。
ヘルシンキのオリンピックスタジアムにヌルミの銅像があると聞いて、ヘルシンキ市へ海外視察に出かけたとき、同僚の議員に写真を撮ってもらいました。せっかくだからランニングポーズをとりました。
デジタルのデータがないので今回はお見せできませんが、いつかお見せしたいと思います。
2012年4月9日月曜日
佐藤寿人J1通算100得点
サンフレッチェ広島のフォワード・佐藤寿人選手が、4月7日のガンバ大阪戦で2つのゴールを決め、J1リーグ通算100得点を達成しました。心からおめでとうと申し上げます。チームが好調で、2位をキープしているのも、佐藤選手の頑張りが大きいと思います。
2001年にジェフ市原で初得点を挙げてから、足掛け12年です。仙台と広島ではJ2降格も経験しているので、10年で100得点は本当に素晴らしい記録です。
佐藤選手とは、サンフレッチェを励ます会で二度ほどお会いしました。
サンフレッチェの選手はみんな紳士で私の質問にも丁寧に答えてくれました。特に佐藤選手とはたいへん親しく話ができました。佐藤選手は170センチ67キロの体格で、背丈は私とほとんど変わりませんでした。
ドイツでワールドカップが開催された2年前。サンフレッチェを励ます会で、私は佐藤選手にこう話しました。
「ドイツへ行かなくてはなりませんね。」
当時、代表選手の選抜に各選手緊張している時期でした。佐藤選手はこう答えました。
「きっと、ドイツへ行きます。」
佐藤選手の特長は、爽やかな笑顔です。試合中はイレブンを笑顔で励まし、ファンには満面の笑顔で応対します。
ずっと笑顔だった佐藤選手が、一瞬で真顔になりました。プロサッカー選手としての意地を垣間見た気がしました。しかし、残念ながらドイツへは行けませんでした。
30歳を過ぎて、代表への選出は厳しいかも知れません。
でも佐藤選手には、ブラジルワールドカップのピッチに立ってほしいです。あのするすると抜け出してのシュートを決めて欲しい。
心から願っています。
2001年にジェフ市原で初得点を挙げてから、足掛け12年です。仙台と広島ではJ2降格も経験しているので、10年で100得点は本当に素晴らしい記録です。
佐藤選手とは、サンフレッチェを励ます会で二度ほどお会いしました。
サンフレッチェの選手はみんな紳士で私の質問にも丁寧に答えてくれました。特に佐藤選手とはたいへん親しく話ができました。佐藤選手は170センチ67キロの体格で、背丈は私とほとんど変わりませんでした。
ドイツでワールドカップが開催された2年前。サンフレッチェを励ます会で、私は佐藤選手にこう話しました。
「ドイツへ行かなくてはなりませんね。」
当時、代表選手の選抜に各選手緊張している時期でした。佐藤選手はこう答えました。
「きっと、ドイツへ行きます。」
佐藤選手の特長は、爽やかな笑顔です。試合中はイレブンを笑顔で励まし、ファンには満面の笑顔で応対します。
ずっと笑顔だった佐藤選手が、一瞬で真顔になりました。プロサッカー選手としての意地を垣間見た気がしました。しかし、残念ながらドイツへは行けませんでした。
30歳を過ぎて、代表への選出は厳しいかも知れません。
でも佐藤選手には、ブラジルワールドカップのピッチに立ってほしいです。あのするすると抜け出してのシュートを決めて欲しい。
心から願っています。
2012年4月8日日曜日
マエケンのノーヒットノーラン
今年もプロ野球が開幕しました。広島カープは2連敗の後6連勝と好調です。
先発陣が素晴らしく、大竹、福井、篠田、前田、バリントン、野村。いずれも力投し勝利に貢献しました。
4月6日のDeNA戦では、前田健太投手がノーヒットノーランを達成しました。29人の打者に対して、四球二個を与えた以外は全て打ち取りました。
ラジオで聞いていましたが、まったく危なげの無い投球で、素晴らしい内容でした。今シーズンは好調を維持して、15勝以上あげてほしいとおもいます。
私も、ノーヒットノーランの試合を球場で見たことがあります。1972年の4月29日、広島市民球場でのナイターでした。当時は中学2年生で、友人と見に行ったと記憶しています。
カープの先発ピッチャーは、外木場義郎投手。1968年には大洋を相手に完全試合を達成し、20勝投手の栄誉に輝きました。しかし、69年以降は20勝の壁を越えられずにいました。
対戦相手は巨人でした。当時の巨人は、9年連続日本一の8年目。川上哲治監督のもと、王、長嶋、柴田、黒江、高田、土井、森、末次ら強力打線を擁していました。
初回、外木場は3番の王に簡単に四球を与えました。四球には慣れている王が、少し下を向いて一塁にゆっくり走って行ったのを憶えています。しかし、外木場はそれ以降巨人を0点に抑えました。
独特の早い間合いで、ちぎっては投げちぎっては投げ。巨人打線に対して凡打の山を築きました。
あっという間に、カープが3対0で勝ちました。王の四球があったので、ヒットも打たれたのだろうと思っていて、終わってからノーヒットノーランに気付いたほどです。試合中に、はらはらどきどきした記憶はありませんでした。何より強い巨人から快挙をあげるなど、当時は信じられませんでした。
しかし、その年もチームは首位巨人から24ゲーム差の最下位。外木場も11勝15敗と不調でした。
それから3年後の1975年、外木場が20勝をあげ、名実共にエースとなった時にカープは優勝しました。
前田健太が名実共にカープのエースとなる時、ひょっとすると優勝するかも知れません。大いに期待しましょう。
先発陣が素晴らしく、大竹、福井、篠田、前田、バリントン、野村。いずれも力投し勝利に貢献しました。
4月6日のDeNA戦では、前田健太投手がノーヒットノーランを達成しました。29人の打者に対して、四球二個を与えた以外は全て打ち取りました。
ラジオで聞いていましたが、まったく危なげの無い投球で、素晴らしい内容でした。今シーズンは好調を維持して、15勝以上あげてほしいとおもいます。
私も、ノーヒットノーランの試合を球場で見たことがあります。1972年の4月29日、広島市民球場でのナイターでした。当時は中学2年生で、友人と見に行ったと記憶しています。
カープの先発ピッチャーは、外木場義郎投手。1968年には大洋を相手に完全試合を達成し、20勝投手の栄誉に輝きました。しかし、69年以降は20勝の壁を越えられずにいました。
対戦相手は巨人でした。当時の巨人は、9年連続日本一の8年目。川上哲治監督のもと、王、長嶋、柴田、黒江、高田、土井、森、末次ら強力打線を擁していました。
初回、外木場は3番の王に簡単に四球を与えました。四球には慣れている王が、少し下を向いて一塁にゆっくり走って行ったのを憶えています。しかし、外木場はそれ以降巨人を0点に抑えました。
独特の早い間合いで、ちぎっては投げちぎっては投げ。巨人打線に対して凡打の山を築きました。
あっという間に、カープが3対0で勝ちました。王の四球があったので、ヒットも打たれたのだろうと思っていて、終わってからノーヒットノーランに気付いたほどです。試合中に、はらはらどきどきした記憶はありませんでした。何より強い巨人から快挙をあげるなど、当時は信じられませんでした。
しかし、その年もチームは首位巨人から24ゲーム差の最下位。外木場も11勝15敗と不調でした。
それから3年後の1975年、外木場が20勝をあげ、名実共にエースとなった時にカープは優勝しました。
前田健太が名実共にカープのエースとなる時、ひょっとすると優勝するかも知れません。大いに期待しましょう。
2012年1月27日金曜日
全豪オープン
テニスの全豪オープンで、準々決勝に進出した錦織圭選手(世界ランキング24位)は、イギリスのアンディ・マリー選手(同ランキング4位)に、3-6,3-6,1-6の0-3で完敗しました。
22歳の錦織選手は、ここ最近で急激に実力をアップし、ランキングも急上昇しました。そして、松岡修造選手以来の四大オープンベスト8に進みましたが、あえなく敗れました。
実力差ははっきりしていましたが、まだ22歳です。まだまだ強くなって欲しいと思います。
ベスト4に進んだ日本人選手では、最近では伊達公子選手、戦前はブルドッグの異名を取った佐藤次郎選手、そして日本テニス界の黎明を飾る清水善造選手です。彼らの成績を誰もしのげないというところに、日本のテニス界の底の浅さを感じます。
特に佐藤次郎選手は、4大オープンで日本人最多の5回のベスト4進出を遂げています。全仏、全英でベスト4に進んだ1933年には、世界ランキング3位にのぼりました。1位のジャック・クロフォード(豪)、2位のフレッド・ペリー(英)をも過去に破っており、世界トップクラスの選手として認められていました。
佐藤選手は、1934年日本テニス協会からの「国別対抗戦のデビス・カップでは必ず勝て」との強い圧力に耐えかねて、デビス・カップ戦に向うマラッカ海峡の船上から、投身自殺をします。26歳の若さでした。
テニスの世界大会というと、この佐藤選手の悲劇が思い出されます。
錦織選手のベスト8進出の記事に、一部の全国紙が佐藤選手と清水選手の業績を載せていました。苦闘した先人の功績を知らしめなければ、現代の日本人にはテニスの4大タイトルの厚く高い壁は理解できないのではないかと思います。
22歳の錦織選手は、ここ最近で急激に実力をアップし、ランキングも急上昇しました。そして、松岡修造選手以来の四大オープンベスト8に進みましたが、あえなく敗れました。
実力差ははっきりしていましたが、まだ22歳です。まだまだ強くなって欲しいと思います。
ベスト4に進んだ日本人選手では、最近では伊達公子選手、戦前はブルドッグの異名を取った佐藤次郎選手、そして日本テニス界の黎明を飾る清水善造選手です。彼らの成績を誰もしのげないというところに、日本のテニス界の底の浅さを感じます。
特に佐藤次郎選手は、4大オープンで日本人最多の5回のベスト4進出を遂げています。全仏、全英でベスト4に進んだ1933年には、世界ランキング3位にのぼりました。1位のジャック・クロフォード(豪)、2位のフレッド・ペリー(英)をも過去に破っており、世界トップクラスの選手として認められていました。
佐藤選手は、1934年日本テニス協会からの「国別対抗戦のデビス・カップでは必ず勝て」との強い圧力に耐えかねて、デビス・カップ戦に向うマラッカ海峡の船上から、投身自殺をします。26歳の若さでした。
テニスの世界大会というと、この佐藤選手の悲劇が思い出されます。
錦織選手のベスト8進出の記事に、一部の全国紙が佐藤選手と清水選手の業績を載せていました。苦闘した先人の功績を知らしめなければ、現代の日本人にはテニスの4大タイトルの厚く高い壁は理解できないのではないかと思います。
2012年1月22日日曜日
卓球日本選手権
先週ひいた風邪が治りません。体を動かしたいところですが、自宅のテレビで卓球観戦です。
前回の北京オリンピックで、女子が4位、男子が5位に入ったので、出場選手のプレーは連日テレビで見ていました。
福原愛選手、平野早矢香選手、水谷隼選手、岸川聖也選手、もちろん前回の日本選手権者の石川佳純選手も、しっかりと顔やプレーを覚えています。
1月21日、午後から卓球日本選手権が放映されました。
女子準決勝で対戦したのは、福原選手と平野選手でした。4年前の五輪では平野選手がリーダー格でしたが、今では世界ランキングで福原選手が上回っています。好カードです。
卓球はサーブを打つまでのインターバルと、一つの打ち合いが終わってからの選手の表情の変化がたいへん面白く、女子選手はかわいい表情をこわばらせ、真剣そのものです。
特に、平野選手は得意のフォアハンドからのスマッシュが決まると、あごを上げ鼻の線も上に向け、相手をどうだと威嚇します。福原選手はきっと眉根にしわをよせ、唇をへの字に結んでサーブを打ちます。
この試合は、福原選手が得意のバックハンドに加え、最近磨いてきたフォアからのスマッシュも威力を発揮し、ストレートで平野選手を下しました。
次は決勝戦。福原選手と石川選手との一騎打ちとなりました。試合開始から、福原選手がフォアとバックのスマッシュが快調で、石川選手をスピードで上回っていました。
そんな時、ドアホンが鳴りました。出てみると広島刑務所の所長と名乗られます。
「分かりました。降りていきます。」
と返事しましたが、たまたまオートロックの玄関が開いたようで、3人がぞろぞろマンション内に入ってきました。そして私の自宅がある階まで上がって来ました。失礼だけでなく非常識だと思いました。
謝罪の言葉を述べられたので再発防止策について聞きましたが、まだ作っていないとの返事でした。今度、刑務所へ再発防止の調査に行きたいというと、いつでも入っていただいて結構ですとあっさり許可してくれました。
あまり愉快でない気持ちで先ほど切ったテレビのスイッチを入れると、福原選手がインタビューを受けているではありませんか。決勝戦のほとんどは、観戦することができませんでした。
脱獄囚が逮捕されるまでの間、恐怖を味わわされた多くの市民の気持ちを刑務所への視察ににぶつけてやろうと思います。
もちろん、決勝戦を見ることができなかった無念さもぶつけます。
前回の北京オリンピックで、女子が4位、男子が5位に入ったので、出場選手のプレーは連日テレビで見ていました。
福原愛選手、平野早矢香選手、水谷隼選手、岸川聖也選手、もちろん前回の日本選手権者の石川佳純選手も、しっかりと顔やプレーを覚えています。
1月21日、午後から卓球日本選手権が放映されました。
女子準決勝で対戦したのは、福原選手と平野選手でした。4年前の五輪では平野選手がリーダー格でしたが、今では世界ランキングで福原選手が上回っています。好カードです。
卓球はサーブを打つまでのインターバルと、一つの打ち合いが終わってからの選手の表情の変化がたいへん面白く、女子選手はかわいい表情をこわばらせ、真剣そのものです。
特に、平野選手は得意のフォアハンドからのスマッシュが決まると、あごを上げ鼻の線も上に向け、相手をどうだと威嚇します。福原選手はきっと眉根にしわをよせ、唇をへの字に結んでサーブを打ちます。
この試合は、福原選手が得意のバックハンドに加え、最近磨いてきたフォアからのスマッシュも威力を発揮し、ストレートで平野選手を下しました。
次は決勝戦。福原選手と石川選手との一騎打ちとなりました。試合開始から、福原選手がフォアとバックのスマッシュが快調で、石川選手をスピードで上回っていました。
そんな時、ドアホンが鳴りました。出てみると広島刑務所の所長と名乗られます。
「分かりました。降りていきます。」
と返事しましたが、たまたまオートロックの玄関が開いたようで、3人がぞろぞろマンション内に入ってきました。そして私の自宅がある階まで上がって来ました。失礼だけでなく非常識だと思いました。
謝罪の言葉を述べられたので再発防止策について聞きましたが、まだ作っていないとの返事でした。今度、刑務所へ再発防止の調査に行きたいというと、いつでも入っていただいて結構ですとあっさり許可してくれました。
あまり愉快でない気持ちで先ほど切ったテレビのスイッチを入れると、福原選手がインタビューを受けているではありませんか。決勝戦のほとんどは、観戦することができませんでした。
脱獄囚が逮捕されるまでの間、恐怖を味わわされた多くの市民の気持ちを刑務所への視察ににぶつけてやろうと思います。
もちろん、決勝戦を見ることができなかった無念さもぶつけます。
2012年1月5日木曜日
ミュンヘンへの道
新年あけましておめでとうございます。今年も坂ブログのご愛読、よろしくお願いします。
昨年12月31日、バレーボール元全日本監督の松平康隆さんが81歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
松平さんは、1972年のミュンヘンオリンピックで男子バレーボールチームを世界一の座に押し上げました。
当時、私は中学2年生でした。日曜日の夜のテレビで、「ミュンヘンへの道」が放映されていました。アニメと実写が組み合わさっていましたが、代表選手が実名で登場し、名前をすぐに覚えてしまいました。
アタッカーは、森田淳悟・大古誠司・横田忠義・木村憲治で、特に横田と大古は大砲と呼ばれていました。セッターは「世界のセッター」猫田勝敏。猫田は広島市安佐南区の出身で、専売広島(現・JTサンダース)の中心選手でした。
キャプテンの中村祐造、ベテランのアタッカー南将之、若い嶋岡健治。これらの選手たちは、それぞれがオリンピックのコート上でも大活躍しました。
特に準決勝の対ブルガリア戦。立て続けに2セット連取されて3セット目も敗色濃厚でしたが、南・中村・西本の起用で盛り返し、勝つことが出来ました。
ドイツと日本の時差は約11時間ですが、同級生は午前2時頃から始まる男子バレーボールをみんな見ていました。試合終了は5時過ぎ、遅ければ6時でした。
そのまま登校して居眠りしながら授業を聞いたものですが、授業をする先生もすっかり眠そうでした。
ここまで日本がひとつになることは、今まで無かったかのではないかという熱狂ぶりでした。それを作ったのは、松平監督だったのです。
私は「ミュンヘンへの道」を見ながらも、「優勝優勝いうとるが、負けたらどうするんじゃろうか」と思っていました。
しかし、この番組は松平監督がスポンサーを集めて、テレビ局に製作させた番組だったのです。日本中にこのバレー番組が流れ、日本のトップ選手は国民のヒーローになり、そのファンの後押しで金メダルが取れたのです。この情熱は本当に素晴らしい。
プロ野球やサッカーなどのスポーツの監督に限らず、総理大臣も広島市長も、松平さんが持っていたような情熱をどこかへ失っているとしか思えません。
私は12月議会で執拗に松井市長に答弁を求めましたが、答弁はありませんでした。そこには一片の情熱もうかがうことが出来ませんでした。
広島市を情熱で盛り上げることなど絶望的と言うよりありません。
昨年12月31日、バレーボール元全日本監督の松平康隆さんが81歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
松平さんは、1972年のミュンヘンオリンピックで男子バレーボールチームを世界一の座に押し上げました。
当時、私は中学2年生でした。日曜日の夜のテレビで、「ミュンヘンへの道」が放映されていました。アニメと実写が組み合わさっていましたが、代表選手が実名で登場し、名前をすぐに覚えてしまいました。
アタッカーは、森田淳悟・大古誠司・横田忠義・木村憲治で、特に横田と大古は大砲と呼ばれていました。セッターは「世界のセッター」猫田勝敏。猫田は広島市安佐南区の出身で、専売広島(現・JTサンダース)の中心選手でした。
キャプテンの中村祐造、ベテランのアタッカー南将之、若い嶋岡健治。これらの選手たちは、それぞれがオリンピックのコート上でも大活躍しました。
特に準決勝の対ブルガリア戦。立て続けに2セット連取されて3セット目も敗色濃厚でしたが、南・中村・西本の起用で盛り返し、勝つことが出来ました。
ドイツと日本の時差は約11時間ですが、同級生は午前2時頃から始まる男子バレーボールをみんな見ていました。試合終了は5時過ぎ、遅ければ6時でした。
そのまま登校して居眠りしながら授業を聞いたものですが、授業をする先生もすっかり眠そうでした。
ここまで日本がひとつになることは、今まで無かったかのではないかという熱狂ぶりでした。それを作ったのは、松平監督だったのです。
私は「ミュンヘンへの道」を見ながらも、「優勝優勝いうとるが、負けたらどうするんじゃろうか」と思っていました。
しかし、この番組は松平監督がスポンサーを集めて、テレビ局に製作させた番組だったのです。日本中にこのバレー番組が流れ、日本のトップ選手は国民のヒーローになり、そのファンの後押しで金メダルが取れたのです。この情熱は本当に素晴らしい。
プロ野球やサッカーなどのスポーツの監督に限らず、総理大臣も広島市長も、松平さんが持っていたような情熱をどこかへ失っているとしか思えません。
私は12月議会で執拗に松井市長に答弁を求めましたが、答弁はありませんでした。そこには一片の情熱もうかがうことが出来ませんでした。
広島市を情熱で盛り上げることなど絶望的と言うよりありません。
2011年11月18日金曜日
隆の里
11月7日、元横綱・隆の里(鳴戸親方)が亡くなりました。享年59歳でした。
隆の里は筋骨隆々の力感あふれる相撲で、1983年名古屋場所から1984年初場所までの四場所のうち、三場所優勝しました。
特に新横綱として迎えた83年秋場所では、横綱・千代の富士と14戦全勝同士で激突。千代の富士をつり出しに破って、新横綱で全勝優勝の快挙を成し遂げました。
最盛期は誰もかなう力士がいませんでした。特に千代の富士は隆の里に歯が立たず、隆の里の独走かと思われました。
私が大学の4年生のときに、内科学の特別講義がありました。東北大学の後藤教授の講演で、主題は「糖尿病」でした。実は、後藤先生は当時幕内力士だった隆の里の主治医でした。
糖尿病の血糖コントロールのため隆の里を入院させたが、大男のためベッドをふたつ横に並べて、斜めに寝てもらったなど、興味深いエピソードを語っていただきました。
当初は内服薬でコントロールしようとしたそうですが、うまくいかずに低血糖発作を起こしていたそうです。土俵上で立ち上がった途端、相手がぶつかる前から隆の里が崩れ落ちる場面をよく見ましたが、それは低血糖による失神発作なのでした。
しかし、後藤先生の指導のもと、インスリン注射の治療に切り換え、徹底した食事コントロールをすると、血糖値が安定してきました。
血液中の糖分はインスリンの働きで筋肉中に蓄えられ、あのポパイのような肉体が出来上がったのです。
講義のころは、隆の里が三役から横綱をうかがう頃で、医学の力とは大したものだと感心しましたが、それ以上に隆の里本人の不撓不屈の精神があったと思います。
隆の里の全盛期は、私が大学の5、6年の頃で、相撲をゆっくり見ることが出来た時期です。医師を目指して試験勉強に取り掛かっていた頃、糖尿病を克服した隆の里の土俵に大きな声援を送ったものです。
個性的な力士が、またひとり去り、さびしさが残ります。
隆の里は筋骨隆々の力感あふれる相撲で、1983年名古屋場所から1984年初場所までの四場所のうち、三場所優勝しました。
特に新横綱として迎えた83年秋場所では、横綱・千代の富士と14戦全勝同士で激突。千代の富士をつり出しに破って、新横綱で全勝優勝の快挙を成し遂げました。
最盛期は誰もかなう力士がいませんでした。特に千代の富士は隆の里に歯が立たず、隆の里の独走かと思われました。
私が大学の4年生のときに、内科学の特別講義がありました。東北大学の後藤教授の講演で、主題は「糖尿病」でした。実は、後藤先生は当時幕内力士だった隆の里の主治医でした。
糖尿病の血糖コントロールのため隆の里を入院させたが、大男のためベッドをふたつ横に並べて、斜めに寝てもらったなど、興味深いエピソードを語っていただきました。
当初は内服薬でコントロールしようとしたそうですが、うまくいかずに低血糖発作を起こしていたそうです。土俵上で立ち上がった途端、相手がぶつかる前から隆の里が崩れ落ちる場面をよく見ましたが、それは低血糖による失神発作なのでした。
しかし、後藤先生の指導のもと、インスリン注射の治療に切り換え、徹底した食事コントロールをすると、血糖値が安定してきました。
血液中の糖分はインスリンの働きで筋肉中に蓄えられ、あのポパイのような肉体が出来上がったのです。
講義のころは、隆の里が三役から横綱をうかがう頃で、医学の力とは大したものだと感心しましたが、それ以上に隆の里本人の不撓不屈の精神があったと思います。
隆の里の全盛期は、私が大学の5、6年の頃で、相撲をゆっくり見ることが出来た時期です。医師を目指して試験勉強に取り掛かっていた頃、糖尿病を克服した隆の里の土俵に大きな声援を送ったものです。
個性的な力士が、またひとり去り、さびしさが残ります。
2011年10月15日土曜日
内村選手三連覇
10月14日に開催された世界体操男子個人総合で、内村航平選手は金メダルを獲得し、体操史上初の三連覇を達成しました。素晴らしいことです。
体操競技は一瞬のうちに勝負が決するスポーツで、自分自身とのすさまじい葛藤があるものと想像します。それゆえ、各選手の試技をかたずを呑んで見守ります。
その日、私はテレビで見ていましたが、内村選手の特に跳馬の試技は素晴らしいのひとことに尽きました。着地の瞬間、思わずテレビの内村選手に向かって拍手を送っていました。
内村選手は、以前の体操選手のイメージの「固い、真面目そう、悲壮感漂う」というイメージを打ち破りました。
髪が長くて、チョコレートが好きで、喜怒哀楽もあまり表に出しません。それでいて、大技を決めて世界の頂点に立っています。世界のスーパースターとは思えない、いまどきのお兄さんという感じがします。
何を考えているのか良く分からないところが、面白くて好きでした。今大会では、勝ちたいという気持ちが全面に出て、頼もしく感じられました。これからまだまだ強くなると確信しました。
ところで、私の友人に内村選手と似た雰囲気の若者がいます。彼も、一見何を考えているのか分からないと言われています。
地道に働いていますが、そのうち大化けして、皆が見上げる内村選手のようなビッグな人物になるのではと期待しています。
体操競技は一瞬のうちに勝負が決するスポーツで、自分自身とのすさまじい葛藤があるものと想像します。それゆえ、各選手の試技をかたずを呑んで見守ります。
その日、私はテレビで見ていましたが、内村選手の特に跳馬の試技は素晴らしいのひとことに尽きました。着地の瞬間、思わずテレビの内村選手に向かって拍手を送っていました。
内村選手は、以前の体操選手のイメージの「固い、真面目そう、悲壮感漂う」というイメージを打ち破りました。
髪が長くて、チョコレートが好きで、喜怒哀楽もあまり表に出しません。それでいて、大技を決めて世界の頂点に立っています。世界のスーパースターとは思えない、いまどきのお兄さんという感じがします。
何を考えているのか良く分からないところが、面白くて好きでした。今大会では、勝ちたいという気持ちが全面に出て、頼もしく感じられました。これからまだまだ強くなると確信しました。
ところで、私の友人に内村選手と似た雰囲気の若者がいます。彼も、一見何を考えているのか分からないと言われています。
地道に働いていますが、そのうち大化けして、皆が見上げる内村選手のようなビッグな人物になるのではと期待しています。
2011年9月25日日曜日
大相撲秋場所
大相撲秋場所は、9月25日に千秋楽を迎えました。
14日目を終えて、横綱・白鵬と関脇・琴奨菊は12勝2敗で並んでいました。そして千秋楽、琴奨菊は大関・把瑠都に投げ飛ばされ黒星、白鵬は大関・日馬冨士を投げ転がし白星。白鵬が13勝2敗で20度目の優勝を飾りました。
白鵬は先場所、8場所連続優勝を日馬冨士に阻まれ、やや調子を落としていました。
今場所は右差し左上手を取っての速攻で勝ち星を重ねましたが、相撲に重量感を増した琴奨菊に寄り切られ、両手の腕力を増した稀勢の里の左手に突き倒されました。やや相撲に軽さを感じさせた白鵬でしたが、安定感は随一で結局優勝をさらっていきました。
琴奨菊は来場所での大関昇進が確実で、エストニア出身の把瑠都、モンゴル出身の日馬冨士に割って入ることになります。
ファンの期待が大きいのは当然なのですが、気になることがあります。マスコミが、「日本人大関は久方ぶりです。」「日本人に頑張ってほしい。」と、人種や国籍にこだわった報道をしていることです。
たとえば、日本の選手がドイツで女子サッカー・ワールドカップを戦ったり、ロンドンでオリンピックを戦ったりするときは、私も素直に日本の選手を応援します。
しかし、国内で戦っている大相撲では、国籍に関係なく応援します。
白鵬や把瑠都や日馬冨士。みんな少年の頃に来日して親方に弟子入りし、稽古を積んで強くなりました。古くからのしきたりに縛られた相撲界で、トップに立つまでの努力は並大抵ではありません。
しかも、彼らがインタビューに答えるときの日本語の上手なこと。堂々と日本人と言ってよいでしょう。
マスコミの「日本人は日本人力士が好きだ」と決め付けた報道こそ、片腹痛いと思います。
14日目を終えて、横綱・白鵬と関脇・琴奨菊は12勝2敗で並んでいました。そして千秋楽、琴奨菊は大関・把瑠都に投げ飛ばされ黒星、白鵬は大関・日馬冨士を投げ転がし白星。白鵬が13勝2敗で20度目の優勝を飾りました。
白鵬は先場所、8場所連続優勝を日馬冨士に阻まれ、やや調子を落としていました。
今場所は右差し左上手を取っての速攻で勝ち星を重ねましたが、相撲に重量感を増した琴奨菊に寄り切られ、両手の腕力を増した稀勢の里の左手に突き倒されました。やや相撲に軽さを感じさせた白鵬でしたが、安定感は随一で結局優勝をさらっていきました。
琴奨菊は来場所での大関昇進が確実で、エストニア出身の把瑠都、モンゴル出身の日馬冨士に割って入ることになります。
ファンの期待が大きいのは当然なのですが、気になることがあります。マスコミが、「日本人大関は久方ぶりです。」「日本人に頑張ってほしい。」と、人種や国籍にこだわった報道をしていることです。
たとえば、日本の選手がドイツで女子サッカー・ワールドカップを戦ったり、ロンドンでオリンピックを戦ったりするときは、私も素直に日本の選手を応援します。
しかし、国内で戦っている大相撲では、国籍に関係なく応援します。
白鵬や把瑠都や日馬冨士。みんな少年の頃に来日して親方に弟子入りし、稽古を積んで強くなりました。古くからのしきたりに縛られた相撲界で、トップに立つまでの努力は並大抵ではありません。
しかも、彼らがインタビューに答えるときの日本語の上手なこと。堂々と日本人と言ってよいでしょう。
マスコミの「日本人は日本人力士が好きだ」と決め付けた報道こそ、片腹痛いと思います。
2011年7月24日日曜日
日馬富士の優勝
大相撲名古屋場所は、大関・日馬富士が14勝1敗で2度目の優勝を飾りました。今場所はまさに気力充実。連日、頭を下げて前まわしを取り喰い下がるという得意の形に持ち込んで、14連勝をとげました。
日馬富士はしばらく怪我で低迷していましたが、今場所突如として快進撃を続けました。
一方、優勝候補の筆頭であった横綱・白鵬は、12勝3敗に終わりました。お尻や背中の肉にやや張りが無く、力を落としている印象でした。
大関を目指した関脇・琴奨菊は、白鵬を破ったものの終盤2連敗し、大関昇進のチャンスを棒に振りました。
これらの結果が、すべて本気で取った相撲なら素晴らしいと思います。
ここからは、あくまで筆者の推測です。
どうやら日馬富士を優勝させたグループの存在があるようです。引退したとはいえ、元横綱・朝青龍の存在は、モンゴル力士の間では絶大です。特に、日馬富士は朝青龍の信奉者です。
その朝青龍が13日目の夜、日馬富士に電話をかけたそうです。
「心配ないから、自分の相撲を取れ。」
そのとおり、日馬富士は自分の相撲に徹して白鵬に勝ちました。同じく朝青龍を信奉する、関脇・鶴竜と最古参の前頭2枚目・旭天鵬が協力したと思われます。もう一人、日本人力士の前頭3枚目・安美錦。彼は日馬富士と同じ伊勢ヶ濱部屋の所属です。当然協力すると思われます。そのため、旭天鵬も安美錦も2勝13敗の成績でした。いろいろ符合しているように思えてきます。
一方の琴奨菊は、把瑠都、白鵬、鶴竜を連破。うまく運んでいたのですが、平幕の隠岐の海、若の里に連敗してしまいました。
隠岐の海と若の里は、おそらくガチンコ力士なのでしょう。琴奨菊の固さが、二人との対戦では際立っていました。大関昇進は、見送られました。
間違いなく15日間ガチンコを通したのは、稀勢の里でしょう。千秋楽の一番は、大熱戦の末に日馬富士の全勝優勝を阻止しました。ガチンコ力士の面目躍如です。
来場所、日馬富士は連続優勝を遂げて横綱に昇進するのでしょうか。
琴奨菊は大関昇進をつかむのでしょうか。
関脇で10勝をあげた鶴竜、稀勢の里にも大関の声がかかります。
4人とも、本当の実力で今場所以上の成績を収めれば、立派に昇進できるでしょう。
今から秋場所が楽しみです。
日馬富士はしばらく怪我で低迷していましたが、今場所突如として快進撃を続けました。
一方、優勝候補の筆頭であった横綱・白鵬は、12勝3敗に終わりました。お尻や背中の肉にやや張りが無く、力を落としている印象でした。
大関を目指した関脇・琴奨菊は、白鵬を破ったものの終盤2連敗し、大関昇進のチャンスを棒に振りました。
これらの結果が、すべて本気で取った相撲なら素晴らしいと思います。
ここからは、あくまで筆者の推測です。
どうやら日馬富士を優勝させたグループの存在があるようです。引退したとはいえ、元横綱・朝青龍の存在は、モンゴル力士の間では絶大です。特に、日馬富士は朝青龍の信奉者です。
その朝青龍が13日目の夜、日馬富士に電話をかけたそうです。
「心配ないから、自分の相撲を取れ。」
そのとおり、日馬富士は自分の相撲に徹して白鵬に勝ちました。同じく朝青龍を信奉する、関脇・鶴竜と最古参の前頭2枚目・旭天鵬が協力したと思われます。もう一人、日本人力士の前頭3枚目・安美錦。彼は日馬富士と同じ伊勢ヶ濱部屋の所属です。当然協力すると思われます。そのため、旭天鵬も安美錦も2勝13敗の成績でした。いろいろ符合しているように思えてきます。
一方の琴奨菊は、把瑠都、白鵬、鶴竜を連破。うまく運んでいたのですが、平幕の隠岐の海、若の里に連敗してしまいました。
隠岐の海と若の里は、おそらくガチンコ力士なのでしょう。琴奨菊の固さが、二人との対戦では際立っていました。大関昇進は、見送られました。
間違いなく15日間ガチンコを通したのは、稀勢の里でしょう。千秋楽の一番は、大熱戦の末に日馬富士の全勝優勝を阻止しました。ガチンコ力士の面目躍如です。
来場所、日馬富士は連続優勝を遂げて横綱に昇進するのでしょうか。
琴奨菊は大関昇進をつかむのでしょうか。
関脇で10勝をあげた鶴竜、稀勢の里にも大関の声がかかります。
4人とも、本当の実力で今場所以上の成績を収めれば、立派に昇進できるでしょう。
今から秋場所が楽しみです。
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