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2013年4月30日火曜日

あーあーあ、やんなっちゃった

 漫談家の牧伸二さんが亡くなられました。享年78歳でした。自殺と言われています。

 私が物心がつく頃には、牧さんはテレビの大スターでした。
 小学校の三年生のころ、当時大スターだった東京ぼん太の司会するお笑い番組の常連でした。21時45分からの番組でしたが、宵っ張りの私は祖母や母と観ていました。

 牧さんは、時事ネタや社会ネタをお得意のウクレレで伴奏をつけて歌っていました。

「あーあーあ、やんなっちゃたあ、あーんああんあん驚いた。

フランク永井は低音の魅力ぅ
○○○○×××(歌手名を覚えていない)も低音の魅力ぅ
水原弘も低音の魅力ぅ
漫談の牧伸二は低能の魅力

あーあーあ、やんなっちゃたあ、あーんああんあん驚いた。」

 当時、フランク永井と水原弘は歌謡番組の常連で、「低音の魅力」は二人の代名詞でした。 母は二人の大ファンで、このネタも大笑いしていました。

 ところで、私は日頃、父から
「自分を馬鹿だと思え。思っているうちはもっと勉強する」
と、説教されていました。
 自分を馬鹿だと思いながら、勉強してえらくなることは、子どもにとってはなかなか大変でした。

 しかし、この歌を聴いて
「牧伸二は自分を低能だと思っていて、それで笑いを取っている。それならば、自分を馬鹿だと思っても牧伸二くらいか。」
と、妙に力が抜けた記憶があります。
 今思うと、大変ませた子どもでした。

 ドリフターズやビートたけしの番組が子どもに悪影響を与えると言われていました。
 

 芸能人は、良くも悪くも子どもに影響を与えます。
 
 牧さんが幼い私に与えたのは悪影響だったのでしょうか。

 それは読者のみなさんに判断してもらいましょう。

 
 ご冥福をお祈りします。

2013年4月25日木曜日

田端義夫

バタやんこと歌手の田端義夫さんが、4月25日亡くなられました。享年94歳、大往生でした。

 わたしが中学校3年生のとき、当時の歌謡界はどうも好きになれませんでした。
 アイドルの歌は幼稚、フォーク・ソングは軟弱、演歌は女性を歌っためめしい歌ばかり。歌いたいと思える曲がありませんでした。

 当時、懐かしのメロディーをテレビでよく映していました。テレビ番組の「懐かしのメロディー」は、第一線を退いた大歌手が、かっての大ヒット曲を歌う番組でした。

 私はその歌詞に、メロディーに、歌声に魅せられました。

「うたう歌はこれだ。」

 さっそく友人2名を誘い、毎日学校や下校時に歌ってレパートリーを増やしていきました。
勉強もせず、歌詞とメロディーをひたすら覚えました。今でも全部歌えます。

 テレビでは、大物が最後に出ます。名前をあげますと、藤山一郎、淡谷のり子、霧島昇、小唄勝太郎、ディック・ミネ、市丸、伊藤久男、渡辺はま子 というところが、戦前に大ヒット曲を並べた歌手です。

 田端義夫、二葉あき子、小畑実、近江俊郎、灰田勝彦、赤坂小梅も戦前にデビューした歌手です。

 田端義夫は、赤茶色に焼けたエレキギターを抱え、右手を高くかかげながら 「オース」 と掛け声を掛けて歌い始めます。お客さんは大喜びです。
 オースのバタやんは、若いころ貧しく、奉公人だった頃の苦労がにじみ出ているようでした。

 昭和13年に「島の舟唄」がヒット。昭和14年には「大利根月夜」で大ヒットを飛ばします。
 昭和21年には、引き上げ船を歌った「かえり船」が大ヒットとなりました。

 昭和30年から、しばらくヒットがありませんでしたが、昭和37年「島育ち」でカムバック。
 昭和50年には「十九の春」がヒット。いずれも奄美と沖縄の古い歌でした。

「大利根月夜」の3番の歌詞は、

愚痴じゃなけれど世が世であれば
殿の招きの月見酒
なにが不足で大利根暮らし
国じゃ国じゃ妹が待つものを

 この詞は、剣豪千葉周作門下の俊才だった平手造酒(ひらてみき)がおちぶれ、利根川に根をはる侠客、笹川繁造(ささがわのしげぞう)の用心棒になって、飯岡助五郎(いいおかのすけごろう)との果し合いで喀血して果てる話をうたっています。

 私には妹がいましたので、情けない兄を妹が心配している歌詞だと思って歌っていました。
 また、エリートコースにあったのに、おちぶれた自分を揶揄する「なにが不足で大利根暮らし」というところは、多いに共感する歌詞でした。

 15歳で覚えた歌を、54歳の今まで歌っています。思いを書ききれないほど良い歌です。

 田端さん、安らかに眠ってください。あなたの歌った歌は生きています。

2012年3月31日土曜日

ピー(後編)

前回のつづきです。

 ザ・タイガースは、1968年に入っても「花の首飾り」「シーシーシー」と大ヒットを連発しました。しかし、音楽性を追求していたトッポが渡辺プロのアイドル路線に反発し、69年3月に脱退。ピーもトッポと同様に、事務所との対立を強めていきました。

 このころからピーは髪を伸ばし、表情からは笑顔も消えていきました。
 そしてついに71年1月24日、日本武道館のコンサートを最後にタイガースは解散しました。

 この後、ピーはメンバーと一切の連絡を絶ちました。
 うわさでは高校の教師となり、国語を教えていると聞きました。

 ジュリーはソロ歌手として活躍。サリーは岸部一徳と改名し、俳優として活躍しています。タローは芸能プロダクションの社長。トッポは音楽活動をしているようです。タイガース再結成と称して、何度かコンサートが開かれましたが、ピーだけは参加しませんでした。

 ことしの3月、ジュリーのコンサートに岸部、森本、そして瞳が参加するとテレビ欄にあったのを見て驚きました。
 ピーが出るのかと。

 60歳を超えたタイガースは、舞台でかってのように躍動してました。
 ピーは昔のままの躍動的な演奏で、笑顔で私を楽しませてくれました。そしてソロで「ジャスティン」と言う曲を歌い、ステージ中央で健在振りを見せてくれました。タイガースは解散から40年ぶりに集まったのです。特に、ピーは40年間メンバーの誰とも会っていなかったそうです。

 その後、ピーの自伝を読みました。幼い頃貧しかったピーは、山城高校定時制を中退してバンド活動に没頭しました。タイガース解散後、定時制高校に復学し、一年後に慶応義塾大学の文学部に入学。教員免許を取り、慶應高校で国語、漢文、現代中国語を教えていました。

 彼は「自分はやりたいようにやって来た。」と語っています。ステージに立った彼は、いま本当に満足していることを、笑顔や身体いっぱいのプレイでそのことを表現していました。

2012年3月30日金曜日

ピー(前編)

ピーは、ザ・タイガースのドラマー、「瞳みのる」のニックネームです。
 ザ・タイガースは、1960年代後半に一世を風靡したグループサウンズ(GS)の、旗手とも言うべきグループです。
 メンバーは、ジュリーこと沢田研二(ヴォーカル)、サリーこと岸部おさみ(ベース)、タローこと森本タロー(サイドギター)、トッポこと加橋かつみ(ギター&ヴォーカル)、そしてピーこと瞳みのる。
 5人は、京都の出身、大阪のダンス喫茶「ナンバ一番」で腕をみがいた後、1966年上京、渡辺プロと契約しました。当時のGSといえば、ジャッキー吉川とブルーコメッツやザ・スパイダースが活躍していました。

 67年2月、デビュー曲の「僕のマリー」がヒット、67年には、「シーサイドバウンド」、「モナリザの微笑み」、「君だけに愛を」と大ヒット曲を生み、タイガースは一躍大スターとなりました。日本中、タイガースを知らない人はいないほどの大人気でした。
 当時、ピーは1946年生まれで21歳、ジュリーが20歳、あとの3人も21歳の若い5人組で、それぞれにたくさんのファンがいました。スターを扱った雑誌「週刊明星」のスター人気投票で、5人はすべてベスト10に入り、1位はジュリー、2位がピーでした。

 我が家でも、母、妹がタイガースの大ファンでした。たぶんジュリーが好きだったと思います。もしかすると妹はトッポが好きだったかもしれません。私が8歳、妹が5歳でしたから、いかにタイガースが幅広い層に人気だったか分かると思います。

 私は、5人の中ではピーが好きでした。ほかの4人が髪を長くして、やや暗い表情で演奏しているのに対し、ピーだけはいつもニコニコと笑っていて、細い身体全体を使ったドラムプレイは痛快でした。なんとなく、身近にいるお兄さんという雰囲気でした。

 しかし、タイガースは5人で演奏しているので、一曲のうちピーのドラムはちょっとしか映りません。それでも、かっこいいなと満足していました。

 そんなある日、明治製菓のチョコレートの包み紙を3枚送ると、タイガースの5人それぞれのメッセージを吹き込んだソノシート(ぺらぺらのレコード)が送られてくるというキャンペーンを知りました。
 私はさっそく応募しました。選んだのはもちろん、「電話で話すピー」でした。

  「もしもし、ピーだよ。いま君は何をしてるの。僕は曲を作ってたとこなんだ。」
 
 という調子で、女友達と他愛も無い話をするのですが、ピーの語りはぎごちなく、かえってそれが真面目な人柄を想像させました。何度も何度も、妹とふたりでけらけら笑いながらピーのメッセージを聞いていました。

 続きます。

2011年8月20日土曜日

二葉あき子さん

歌謡界を代表する歌手の二葉あき子さんが、8月16日亡くなられました。96歳でした。

 広島市東区・二葉の里の出身で、安藝の国にちなんで付けた芸名が「二葉あき子」でした。 私の母の出身校・広島県立広島高等女学校(県女・現在の皆実高校)の先輩で、母は二葉さんのファンでした。二葉さんは東京音楽学校(現・東京芸術大学)に進み、一流の歌手としてレコードデビューしました。

 昭和48年。中学3年の私は、歌の下手なアイドル歌手と、むさ苦しいフォーク歌手が幅をきかせていた時流に反発しました。昭和30年代以前の流行歌をマスターすることとし、同志2名と「懐メロ三羽烏」を結成。毎日のように懐メロを学校で歌っていました。

 レパートリーを増やすのは、大変な苦労でした。レコードは無い、テレビにも懐メロ歌手はほとんど出ない。夏と正月にある懐メロ番組をラジカセで録音して、なんとか曲を覚えていきました。
 歌が好きな母や祖母に聞いても、歌詞やメロディーが微妙に違って苦労しました。

 その後、懐メロがブームとなり、多くの歌手がテレビでにぎやかに歌っていました。男性歌手は、トリが藤山一郎、その前が霧島昇と伊藤久男。女性歌手は、トリが淡谷のり子、その前が渡辺はま子と二葉さんでした。

 二葉さんは抜群の歌唱力を誇っていました。オリジナル原盤をCDで聴いても、伸びる高音、はずむリズム感、幅広い音域を感じました。さすがに音楽学校出身の歌手です。

 どの曲も素晴らしいですが、その中でも特に好きなのは「バラのルムバ」です。曲の途中で短調から長調に転調する部分の高音が、どこまでも伸びていくようで大好きです。
 もう1曲は「恋の曼珠沙華」です。歌ってみると大変難しい曲です。特に、終わりの部分で高音から低音にぐっと下がり、結びでまた高い音域に上って終わります。これを二葉さんはいとも簡単に、感情を込めて歌っています。

 二葉さんのヒット曲「水色のワルツ」「フランチェスカの鐘」「夜のプラットフォーム」など、現代の歌手がカバーしてよい大ヒット曲です。再ヒットを楽しみにしています。

2011年7月2日土曜日

ピンク・レディー

市議会も終了したので、7月1日は嫁さんとコンサートに行きました。ピンク・レディーのコンサートです。
 彼女たちは私よりも1歳年上です。二人は一生懸命歌い、踊っていました。客席は私と同世代の人と、当時まだ子どもだった40歳くらいの人でいっぱいでした。7対3ぐらいの割合で女性が多かったように思います。

 ピンクレディーの全盛期は、私が学生の頃でした。
 大学時代、野球部合宿の打ち上げでの定番は、沢田研二、西城秀樹、そしてピンク・レディーでした。合宿所を揺るがす大騒ぎとなり、近所の方には大変な迷惑を掛けました。
 
 ピンク・レディーの曲はみんなが知っていて、誰もが歌えました。それほどの大スターでした。
 私の好きな曲ベスト3は、
・1位S・O・S
・2位透明人間
・3位サウスポー
 です。
 S・O・Sはデビュー2曲目のヒット曲で、振り付けが面白い曲でした。特に、片手を腰にあて、もう片方は横に伸ばし、足はステップを踏む部分。会場で真似をしていると、抜き足差し足忍び足のようです。そして腰は左右に振ります。
 歌詞にあるように、オオカミと化した男性が、若い女性に忍び足で近寄ろうとしている振り付けのようでした。
 どの歌の振り付けも、歌詞と関連した意味があるようです。これはDVDで研究する価値がありそうです。

 ところで、ミーちゃんとケイちゃんとどちらが好きかと問われたら、ミーちゃんです。
 これにはちゃんと理由があります。
 大学1年のころの話です。その年、ピンク・レディーは大ヒット曲UFOで、日本レコード大賞を受賞しました。その1年生の1年間は、私にとって甘酸っぱい青春の1ページでした。

 何の事かわからないと思いますが、残念ながら紙面が尽きました。
 またの機会に。

2011年4月23日土曜日

スーちゃんの死

スーちゃんこと田中好子さんが、4月21日の夜に亡くなりました。享年55歳でした。36歳で乳がんを発症し、19年の闘病生活だったそうです。残念でなりません。

 スーチャンは、ご存知 「キャンディーズ」 のメンバーでした。キャンディーズは、スーちゃんこと田中好子、ランちゃんこと伊藤蘭、そしてミキちゃんこと藤村美樹の3人組です。1972年にNHKの歌謡グランドショーのアシスタントとして結成され、翌年に「あなたに夢中」でレコードデビューしました。
 歌唱力があって踊れるという音楽性の高い三人組でしたが、最初はヒット曲に恵まれませんでした。しかし、1975年「年下の男の子」 が大ヒットし、一気にブレイクしました。当初はスーちゃんがセンターで歌っていましたが、「年下の男の子」では、ランちゃんがセンターになりました。
 
 当時、私は高校生2年生でした。「年下の男の子」には思い出があります。
 わが男子高の体育祭は、われわれ高校2年生が応援合戦をプロデュースしていました。A、B、C、Dの各組が歌謡ショーと寸劇を披露し、採点の対象になるのです。
 驚いたことに、歌謡ショーは4組ともキャンディーズの 「年下の男の子」でした。キャンディーズは、それほどまでに思春期の男の子をとりこにしていました。
 誰がキャンディーズに扮していたかは大抵すぐに分かりました。しかし、A組のランちゃんを見て、みんなが驚きました。

「誰や、あのランちゃんやっとるのは。」
「えろう、可愛いのお。」
「ああなやつ、おったっけ。」
「あ、伊藤じゃ。」

 伊藤君は、おとなしくてあまり声も聞いたことの無いほど目立たないクラスメートでした。しかし人には隠れた才能があるのだなと思いました。誰よりも可愛いキャンディーズは、私たちA組でした。

 そんな思い出のあったキャンディーズですが、1978年に解散しました。
 その後、田中好子さんは女優としてよみがえり、スターの地位を獲得しました。映画にドラマに活躍し、これから円熟期を迎えようとしていた矢先の訃報です。誠に残念でなりません。

 このたびの市議選で、私は広島市のがんの死亡者と自殺者を減少させることを、マニュフェストに掲げました。
 55歳の働き盛りの中、がんで亡くなるような事はなんとしても減らしたい。
 スーちゃんの訃報を聞き、その想いは一層強くなりました。