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昨年12月31日、バレーボール元全日本監督の松平康隆さんが81歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。
松平さんは、1972年のミュンヘンオリンピックで男子バレーボールチームを世界一の座に押し上げました。
当時、私は中学2年生でした。日曜日の夜のテレビで、「ミュンヘンへの道」が放映されていました。アニメと実写が組み合わさっていましたが、代表選手が実名で登場し、名前をすぐに覚えてしまいました。
アタッカーは、森田淳悟・大古誠司・横田忠義・木村憲治で、特に横田と大古は大砲と呼ばれていました。セッターは「世界のセッター」猫田勝敏。猫田は広島市安佐南区の出身で、専売広島(現・JTサンダース)の中心選手でした。
キャプテンの中村祐造、ベテランのアタッカー南将之、若い嶋岡健治。これらの選手たちは、それぞれがオリンピックのコート上でも大活躍しました。
特に準決勝の対ブルガリア戦。立て続けに2セット連取されて3セット目も敗色濃厚でしたが、南・中村・西本の起用で盛り返し、勝つことが出来ました。
ドイツと日本の時差は約11時間ですが、同級生は午前2時頃から始まる男子バレーボールをみんな見ていました。試合終了は5時過ぎ、遅ければ6時でした。
そのまま登校して居眠りしながら授業を聞いたものですが、授業をする先生もすっかり眠そうでした。
ここまで日本がひとつになることは、今まで無かったかのではないかという熱狂ぶりでした。それを作ったのは、松平監督だったのです。
私は「ミュンヘンへの道」を見ながらも、「優勝優勝いうとるが、負けたらどうするんじゃろうか」と思っていました。
しかし、この番組は松平監督がスポンサーを集めて、テレビ局に製作させた番組だったのです。日本中にこのバレー番組が流れ、日本のトップ選手は国民のヒーローになり、そのファンの後押しで金メダルが取れたのです。この情熱は本当に素晴らしい。
プロ野球やサッカーなどのスポーツの監督に限らず、総理大臣も広島市長も、松平さんが持っていたような情熱をどこかへ失っているとしか思えません。
私は12月議会で執拗に松井市長に答弁を求めましたが、答弁はありませんでした。そこには一片の情熱もうかがうことが出来ませんでした。
広島市を情熱で盛り上げることなど絶望的と言うよりありません。