2010年6月29日火曜日

大相撲と野球賭博

 週刊新潮が大関琴光喜の野球賭博を掲載して以来、角界を揺るがす大事件に発展しました。特別委員会の調査の結果、琴光喜・豊ノ島・雅山・豊響・豪栄道・隠岐の海・若荒雄の幕内力士7名、十両力士7名、幕下力士2名、そして親方13名が、謹慎休場となりました。力士はいずれも野球賭博に関与していたことがその理由です。
 
 多くの新聞やテレビが、「たくさんの力士が休場になったら、対戦が組めない。」と語っています。42名の幕内力士のうち、7名が休んで35名が残っています。 
 
 しかし、1932年(昭和7年)の1月の春場所を前に、40名の幕内力士のうち29名が脱退したことがあります。今の記者たちは、この時の出来事を知らないのでしょうか。

 当時の花形力士である、関脇天龍(出羽の海部屋)の主唱によって引き起こされた春秋園事件です。相撲協会の体質改善や力士の待遇改善を求め立ち上がり、大関大ノ里、新大関武蔵山ら48名の幕内十両力士が天龍に従いました。
 
 相撲協会と脱退組の交渉は決裂し、それぞれが興行をうちました。協会は残留した大関玉錦、大関能代潟、関脇清水川に、帰参した大関武蔵山、さらに十両から3名、幕下から5名を昇格させて、幕内力士20名で再スタートしました。

 当初は興行的には苦戦でしたが、十両、幕下から昇格した力士の中には、後に空前絶後の69連勝をかざる横綱双葉山、三役力士として活躍する旭川、大邱山、巴潟、両国、出羽の花がいました。
 協会は帰参した力士や昇格台頭した力士の活躍で、人気を盛り返しました。幕内力士が3分の1以下となっても大相撲は揺るがなかったのです。

 天龍の理想はかなえられませんでした。廃止を求めた年寄制度や茶屋制度は改革されないまま、78年後の今日に至っています。特に暴力団の構成員が、相撲茶屋の経営者だと報道されたことは記憶に新しい話です。

 野球賭博は暴力団が胴元として関与していたことが濃厚です。しかし力士と暴力団が係わっていたとすれば、その力士は追放すべきでしょう。賭博には中毒性があり、暴力団との交際は底なし沼のように脱出不可能だからです。
 
 この際、協会は暴力団との縁を断ち、制度を改革し生まれ変わって欲しいと思います。