大木喬任(おおき たかとう 1832-1899)は明治の元勲の一人ですが、あまりに地味すぎるため、皆さんも知らないか名前だけ知っている程度でしょう。
私の持つ大木喬任のイメージは次のようなものでした。
1873年(明治6年)の征韓論の際、当初は同じ佐賀藩出身の江藤新平や副島種臣に同調して、西郷隆盛の朝鮮派遣に賛成していました。しかし、岩倉具視や大久保利通ら遣欧使節団が帰国し、西郷の派遣に反対するや、大木は前言を翻して反対の立場を取りました。
親友の江藤や副島が、西郷・板垣退助・後藤象二郎と共に下野したのちも政権中枢に留まり、参議司法卿、枢密院議長などを歴任しました。
世渡り上手の機会主義者で、明治期を上手く渡った人というイメージでしかありませんでした。
しかし、そのイメージは一変しました。
先日、佐賀県立博物館を訪れた際に学芸課長の蒲原さんから、博物館の設立目的や文化財収集の狙いなどお聞きしました。
「刑死した江藤新平は、佐賀ではどのように思われているのですか。」と聞くと、
「英雄として、尊敬されています。」と答えられました。
今度は逆に質問されました。
「大木喬任は、どのように映っていますか。」
私は今まで持ってたイメージを話しました。すると蒲原さんは、
「大木喬任は、大きな仕事を成し遂げていますよ。私も知らなかったのですが。」
と、言われました。
私は非常に興味が湧き、「佐賀偉人伝 第6巻 大木喬任」を博物館で購入して読んで見ました。この本は蒲原さんも編纂に当たったとのことでした。
この本によると、大木の業績の代表的なものは次の三つです。
1.東京奠都(てんと)
1968年(明治1年)大木は、岩倉具視に対して京都と並んで東京を都とするよう意見書を提出し、受け入れられました。正しくは遷都ではなく、奠都です。
2.学制頒布
文部卿となった大木は、新しい大学校・中学校・小学校から、国学や漢学の教師を追放し、洋学の教師のみによる教育を開始しました。
3.近代司法制度の整備
江藤が下野したのち司法卿となった大木は、司法官の養成と、諸法典の整備に力を尽くしました。明治23年に完成した民法がその代表です。
これの業績からうかがえるのは、スケールの大きな大木喬任像です。
この伝記を執筆した重松 優氏は、1976年生まれの少壮気鋭の学者です。あえて、この若い学者から「大木喬任」に光を当てさせたのでしょう。
蒲原さんが語っていました。
「佐賀人のアイデンティティは、郷土の英雄を顕彰することにあります。」
その手段として、前述の伝記の編纂があるのだそうです。
広島にも郷土の英雄がいます。もっと偉大なる先人を顕彰しても良いのではないでしょうか。
とても残念なことだと思います。
蒲原課長から説明を受ける松坂。2枚目は天井、3枚目はアームストロング砲の説明を受けているところです。