江藤新平(1834-1874)は、佐賀出身の政治家です。
佐賀を訪問した際、駅の案内所で神野公園はどこにあるのですかと尋ねました。
すると案内所の女性に「あなたも、江藤新平の慰霊祭に行かれるのですか?」と逆に聞かれました。
もうすぐ始まるとのことです。こりゃ、行かにゃぁいけん、と急いでタクシーに乗り込みました。
神野公園には江藤の銅像がそびえ立ち、銅像前で佐賀の名士と思われる方々が参列されていました。
佐賀の乱で刑死したとはいえ、江藤は佐賀の生んだ英雄です。明治初期の英雄に、私は心ひかれるものを感じます。
江藤は明治5年(1872年)、司法卿に就任します。画期的な政策は「司法省達第四十六号」です。
その内容は、
「地方官の専横や怠慢によって、人民の権利が侵害された時、人民は裁判所に出訴して救済を求めることが出来る。」
という画期的なものでした。
これにより、知事をはじめとする地方官によって権利を蹂躙されてきた人民は、司法省に次々と訴えでたのです。
尾去沢銅山を横領された村井茂兵衛が大蔵大臣・井上馨を訴えました。ついで、陸軍省の公金を横領したとして、司法省は陸軍大輔・山県有朋を追い詰めました。さらに、当時の豪商の小野組が京都から東京へ店舗の移転を願い出た際、理由無くこれを拒絶した京都府参事・槙村正直を、東京の司法省裁判所に告訴しました。
いかに彼らが金に汚かったかわかります。
訴追された井上馨、山県有朋、槙村正直はいずれも長州藩の出身でした。彼らの親分は木戸孝允でしたが、井上、山県はその後、大久保利通に接近します。
薩長政府にとって、江藤の行動は危険極まりなく、佐賀の乱で法律に無い罪状をもって刑死させられます。
振り返って現在、司法の独立は遠く、裁判長は法務省や国家の顔色をうかがうのみです。人民の権利は、国家から広島市役所にいたるまで、踏みにじられています。
踏みにじられた人民に力を貸すのが、国会議員や地方議員の役目です。広島市議会議員は、人民の側に立つのが当然です。