大隈重信(1838-1922)は、佐賀藩出身で、明治・大正期の政治家です。二度にわたって内閣総理大臣をつとめ、早稲田大学の創立者としても知られています。
大隈は慶応四年に、明治新政府の参与職外国事務局判事に抜擢されました。そして切支丹宗徒の即時釈放を求めたイギリス公使パークスと論争し、これを内政干渉であると突っぱねました。
この大隈の堂々たる交渉ぶりが認められ、明治新政府の要職へと進んでいきます。
明治10年の西南戦争で西郷隆盛が戦死し、翌年には大久保利通が暗殺されました。木戸孝允も明治10年に病死しており、維新の三傑はすべて世を去りました。
そのあとの新政府を支えたのが、伊藤博文と大隈重信です。
大隈は明治6年の政変後大蔵卿に就任、そして筆頭参議に上り詰めました。実質的なトップになったのです。
しかし、伊藤や井上馨、山県有朋らの長州閥と西郷従道、黒田清隆らの薩摩閥は、示し合わせて大隈を筆頭参議辞任に追い込みます。これが明治14年の政変です。
この原因となったのは、大隈が明治14年3月に右大臣岩倉具視に提出した憲法制定についての意見書です。
大隈以外の参議は、国会開設は当分先のこととする漸進主義でした。
一方の大隈は、明治15年には選挙し、明治16年には国会を開くべしという、急進論を唱えました。
この背景には、イギリス流民主主義の導入を求める福沢諭吉らの後押しがありました。この意外な急進論に驚愕した薩長藩閥が、大隈を下野させたのです。
小説家江藤淳は、戯曲「明治の群像」の中で、大隈に次のように語らせています。
「諸君、立憲政治は政党の政治である。そして政党政治は主義言論の政治である。
もし政党、その主義言論によって国民過半数の支持を得れば、すなわち入って政権を担当し、これに反すれば、すなわち出でて政権を去る。
諸君、これは英国において、過去百年来きわめて平和裡に慣行されている立憲政治の大原則である。」
ひるがえって今日、現政権は支持率10%台と低下しています。大隈の言を借りれば、「すなわち出でて政権を去る。」 状況です。
政権に恋々として、いたずらに政治の停滞を招くよりは、国会を解散して国民の信を問い、立憲政治の大原則に立ち返るべきと考えます。