サンフレッチェ広島が、J1で初優勝を飾りました。リーグ20年目にして日本一です。優勝おめでとうございます。
勝つことは、素晴らしいと感じました。
当日は、朝早くからビッグアーチに出かけました。開門の30分前には到着したのですが、サブグラウンドまで列ができていました。さらに階段の上に100米ほどの列ができ、その列も行き止まりでUターンしており、そこに並びました。
開門の12時から列が動き始めましたが、なかなか進みません。席に着けたのは13時半でした。
試合開始は14時34分なので、カツ弁当を食べて待っていましたが、降って来たのは雨。熱気も冷めるような、つめたい雨でした。
試合が始まり、立ち上がりに固さの見えた広島ですが、高萩が思い切ったシュートを決め、ここからは広島のペース。
清水のセンタリングを石川が頭で落としたところを、青山が落ち着いて決めて2対0。
さらに清水が左からドリブルで切り込んだところ、セレッソ大阪の選手が倒し、PKとなりました。佐藤寿人がこれを決め、3対0でほぼ勝負ありでした。
広島はセレッソを4対1で破りました。その瞬間控え選手がグランドに殺到しました。2位のベガルタ仙台はアルビレックス新潟に0対1で敗れたので、サンフレッチェが優勝したのです。
後からテレビで見ますと、佐藤寿人選手がグランドに泣き崩れていました。つらかったことが思い出されたのだそうです。
私は佐藤選手が好きです。テレビで話を聞いたり、直接会って話をしたりしましたが、こんなまっすぐなスポーツマンらしい選手は他にいません。
彼が引っ張り、後輩の選手たちがまとまって、優勝することができたのだとと思います。
彼から学ぶ点はたくさんあります。まさに広島を代表するサッカー選手です。
2012年11月25日日曜日
2012年11月20日火曜日
2012年11月6日火曜日
Japanese は日本か日本人か(下)
前回の続きです。
「広島平和資料館の展示の誤りを訂正することについて」という陳情書は、なぜ日本に原爆が投下されたのか考える良い機会ととらえ、平和資料館の館長、副館長、学芸員の三名から説明を聞きました。
まず、「Japanese」 を、日本人とせず日本としたのかという問いには、館長が「戦争をしているのは、国家と国家だから、日本で良い」との回答でした。
では原文が「Japan」 とせず「Japanese」 とした理由は何かと聞くと、三人とも「使用したアメリカ首脳は、Japan も Japaneseも 同じ日本という意味で使っているのです。区別は無いのです。」と簡単に答えました。
納得はいかないながら、そういう単純な話かと思い、別の質問をしました。
「1943年5月にトラック島に集結した日本艦隊とは、どういった規模か。まだ戦艦大和、戦艦武蔵も健在のはず。ここに原爆を落せば日本艦隊は壊滅すると、軍事政策委員会の面々は考えていたのであろう。艦隊の規模を教えてほしい。」
しかしだれも口を開く者がいません。なにも知らないようでした。
「あなたがたの資料館の展示について、来館者から質問があってもだれも何も答えられないのですか。それでよく資料館の館長だとか、学芸員だとか言えますね。」
と、言いました。
誰も何も言い返しませんでした。
彼らが次に訪れた際、
戦艦は大和、武蔵はじめ8隻。航空母艦は、翔鶴、瑞鶴はじめ7隻。巡洋艦は、利根、筑摩はじめ17隻がトラック島に集結していたと教えてくれました。
詳しく調べていました。 しかし 「トラック島に集結した日本艦隊・・・」の解説文を掲示するときに、調べておくべきでした。
私は、陳情者が唱えているように、日本に原爆を落した理由が人種にあるとは考えていません。
しかし、アメリカ国民やアメリカ軍は、1941年の12月8日の真珠湾攻撃を忘れてはいないでしょう。
1943年の5月の段階で、太平洋は日本の連合艦隊に席巻されていたので、アメリカの敵愾心は旺盛の時期でした。
一方、第2次大戦が勃発した1939年9月、ドイツと戦っていたのは、フランス、イギリス、ポーランドでした。ついで1941年6月に、ドイツはソ連に攻め込みました。
一方アメリカにはドイツ系の移民も多く暮らしており、欧州の大戦への不介入を1939年の9月に宣言していました。参戦を躊躇していたのです。
私が 「真珠湾攻撃の時に、アメリカとドイツは開戦していたのか。」
と質問すると、館長は
「たぶん戦争していたと思います。」
と答えました。
私は、日独伊三国同盟のため、真珠湾攻撃のあとにドイツ、イタリアとアメリカが開戦したのではないかと思っていました。
調べてみると、1941年12月11日にドイツ、イタリア両国がアメリカに宣戦布告しています。日本が真珠湾を攻撃したことによって、アメリカはドイツと戦争をするはめになったのです。館長はこの歴史的事実について、正確な知識を持っていませんでした。
当時のアメリカ政府首脳にとっては、
「にっくきジャップ(Jap すなわち日本人)め。真珠湾のうらみを果たすまで戦うぞ。」
という心境にあったと思われます。
その心境ゆえ、公式文書にも 「Japanese」 を用いたのではないでしょうか。
それが「Japan」では、心境が伝わらないように思います。
館長のように、真珠湾攻撃のときに米独は戦火を交えていると思っている人には、この敵愾心や、うらみは深し真珠湾などというアメリカ人の心境は分からないでしょう。
もっと勉強していただかないと、解説文に説得力が無くなってしまいます。 「世界の」広島平和記念資料館では無くなって、「広島市だけ」の平和記念資料館になってしまうでしょう。
2012年11月5日月曜日
Japaneseは、日本か日本人か(上)
平成24年8月15日、広島市議会事務局は1通の陳情書を受け取りました。陳情者は茨城県在住の男性です。陳情の要件は、「広島平和記念資料館の展示の誤りを訂正することについて」 ということでした。
誤りとは次の2点の文書についてです。
1.1943年5月5日のアメリカ「軍事政策委員会政策会議」の議事録
2.1944年9月18日に行われた、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相がニューヨークのハイドパークで行った極秘会談の合意文書 「チューブ・アロイズ」 です。
この二つの文書が、資料館にその和訳とともに展示されています。
まず「軍事政策委員会政策会議」の議事録の一部とその和訳とを紹介します。
1.The point of use of the first bomb was discussed and the general
view appeared to be that its best point of use would be on a Japanese fleet
concentration in the Harbor of Trak.
The Japanese were selected as they would not be so apt to secure knowledge from it
as would the Germans.
訳(最初の爆弾の投下地点について議論され、トラック諸島の港に集結した日本艦隊が最も望ましいだろうという意見が大半を占めた。
日本人が選ばれたのは、爆弾から知識を得る可能性が、ドイツ人と比べて少ないだろうと見られたためだ。)
この「軍事政策委員会政策会議」の議事録について、平和記念資料館は次のような解説文を紹介しています。
「この委員会は、軍人と科学者で構成し、原爆製造計画全体を管理していました。ドイツが降伏する約2年前に、原爆の最初の投下目標に選ばれていたのは、ドイツではなく、日本でした。」
解説文の英訳です。(冒頭部分省略・・・・About two years before Germany surrendered, the committee selected not Germany but Japan for the first atomic bombing. )
この1.以下の文章をお読みいただくと、「Japanese」が訳文では「日本人」なのに、解説文では「日本」になっていることがわかります。陳情者は、これを改ざんだと指摘しています。
次に2の米英首脳の合意文書を読んでみます。まず原文の抜粋です。
2.・・・when a "bomb" is finally available , it might perhaps, after mature consideration, be used
against the Japanese, ・・・・)
訳(「爆弾」が最終的に使用可能になった時には、慎重な検討の末、ことによると、日本人に対して使用するかもしれない。)
一方、平和記念資料館の解説文です。
「アメリカとイギリスの首脳は、原爆を日本に対して使用するかもしれないと合意しました。」
解説文の英訳です。(・・・・ the U.S. and British leaders agreed that the atomic bomb
might be used against Japan. )
訳文の「日本人」が、「日本」に変わっています。
陳情者は来館し、この改ざんについての説明と展示の変更を求めました。しかし館長、副館長、学芸員はこの要求を拒否したので、市議会への陳情となりました。
つづきます。
誤りとは次の2点の文書についてです。
1.1943年5月5日のアメリカ「軍事政策委員会政策会議」の議事録
2.1944年9月18日に行われた、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相がニューヨークのハイドパークで行った極秘会談の合意文書 「チューブ・アロイズ」 です。
この二つの文書が、資料館にその和訳とともに展示されています。
まず「軍事政策委員会政策会議」の議事録の一部とその和訳とを紹介します。
1.The point of use of the first bomb was discussed and the general
view appeared to be that its best point of use would be on a Japanese fleet
concentration in the Harbor of Trak.
The Japanese were selected as they would not be so apt to secure knowledge from it
as would the Germans.
訳(最初の爆弾の投下地点について議論され、トラック諸島の港に集結した日本艦隊が最も望ましいだろうという意見が大半を占めた。
日本人が選ばれたのは、爆弾から知識を得る可能性が、ドイツ人と比べて少ないだろうと見られたためだ。)
この「軍事政策委員会政策会議」の議事録について、平和記念資料館は次のような解説文を紹介しています。
「この委員会は、軍人と科学者で構成し、原爆製造計画全体を管理していました。ドイツが降伏する約2年前に、原爆の最初の投下目標に選ばれていたのは、ドイツではなく、日本でした。」
解説文の英訳です。(冒頭部分省略・・・・About two years before Germany surrendered, the committee selected not Germany but Japan for the first atomic bombing. )
この1.以下の文章をお読みいただくと、「Japanese」が訳文では「日本人」なのに、解説文では「日本」になっていることがわかります。陳情者は、これを改ざんだと指摘しています。
次に2の米英首脳の合意文書を読んでみます。まず原文の抜粋です。
2.・・・when a "bomb" is finally available , it might perhaps, after mature consideration, be used
against the Japanese, ・・・・)
訳(「爆弾」が最終的に使用可能になった時には、慎重な検討の末、ことによると、日本人に対して使用するかもしれない。)
一方、平和記念資料館の解説文です。
「アメリカとイギリスの首脳は、原爆を日本に対して使用するかもしれないと合意しました。」
解説文の英訳です。(・・・・ the U.S. and British leaders agreed that the atomic bomb
might be used against Japan. )
訳文の「日本人」が、「日本」に変わっています。
陳情者は来館し、この改ざんについての説明と展示の変更を求めました。しかし館長、副館長、学芸員はこの要求を拒否したので、市議会への陳情となりました。
つづきます。
2012年11月4日日曜日
野球の日
ブログの読者のみなさんから言われることがあります。
「松坂さんはスポーツをされるのですね。卓球とか。」
卓球を記事にしたことがあるので、そう思われているのかも知れません。
ただ、一番やってきたスポーツは野球です。中学、高校、大学と合計12年間は野球部でした。医者になっても15年間、野球かソフトボールを続けました。議員になっても13年続けています。
合わせて40年になりますが、残念ながら下手なままです。
医師会の野球部チームは、私が幹事、グラウンド確保係、相手チーム探し係、会計、荷物運搬係を兼ねている以上、監督も務めています。下手ですが監督自ら出場しつつ、サインも出します。
その球歴の中で、初めての記録を打ち立てました。
試合は、広大医学部野球部のOB対現役の対戦です。私はOBチームの二塁手として出場しました。
まず第1打席、3年生の左腕投手と対戦。1ボール2ストライクから、外角の直球を軽くすくいあげるとセンター前へポトリと落ちました。
ついで第2打席は2年生の左腕投手です。外角の速球をミートすると打球はライナーとなってセンター前に飛びました。クリーンヒットです。
第3打席は1死二・三塁のチャンスです。さすがに内角高めにスピードボールを投げてきました。鋭くスウィングすると、バットの根元に当たりファースト後方に落ちるヒットとなり2打点をあげました。そのあと後続打者のタイムリーで二塁から生還。この時ラミレス選手(DeNA)の決めポーズ「ゲッツ」を決めてご満悦でした。
4打席目は、バッテリーも守備の選手も意識していたようです。1死一・三塁のチャンス。外角低めの直球を無心で払うと、一二塁間をゴロで抜けていき打点1をあげました。さらに後続のタイムリーでホームイン。またラミレスの「ゲッツ」で決めました。
初めて記録したのは4打席連続安打でした。
秋晴れの下、たくさん打席に立てて、ヒットも打てて、幸せだなと感じました。
この試合は、OBチームが大敗したことを申し添えておきます。
そして、その晩の夢の中でも、ライト前に5本目のヒットを放ちました。よほどうれしかったのでしょう。 いつも試合中なのかも知れません。
「松坂さんはスポーツをされるのですね。卓球とか。」
卓球を記事にしたことがあるので、そう思われているのかも知れません。
ただ、一番やってきたスポーツは野球です。中学、高校、大学と合計12年間は野球部でした。医者になっても15年間、野球かソフトボールを続けました。議員になっても13年続けています。
合わせて40年になりますが、残念ながら下手なままです。
医師会の野球部チームは、私が幹事、グラウンド確保係、相手チーム探し係、会計、荷物運搬係を兼ねている以上、監督も務めています。下手ですが監督自ら出場しつつ、サインも出します。
その球歴の中で、初めての記録を打ち立てました。
試合は、広大医学部野球部のOB対現役の対戦です。私はOBチームの二塁手として出場しました。
まず第1打席、3年生の左腕投手と対戦。1ボール2ストライクから、外角の直球を軽くすくいあげるとセンター前へポトリと落ちました。
ついで第2打席は2年生の左腕投手です。外角の速球をミートすると打球はライナーとなってセンター前に飛びました。クリーンヒットです。
第3打席は1死二・三塁のチャンスです。さすがに内角高めにスピードボールを投げてきました。鋭くスウィングすると、バットの根元に当たりファースト後方に落ちるヒットとなり2打点をあげました。そのあと後続打者のタイムリーで二塁から生還。この時ラミレス選手(DeNA)の決めポーズ「ゲッツ」を決めてご満悦でした。
4打席目は、バッテリーも守備の選手も意識していたようです。1死一・三塁のチャンス。外角低めの直球を無心で払うと、一二塁間をゴロで抜けていき打点1をあげました。さらに後続のタイムリーでホームイン。またラミレスの「ゲッツ」で決めました。
初めて記録したのは4打席連続安打でした。
秋晴れの下、たくさん打席に立てて、ヒットも打てて、幸せだなと感じました。
この試合は、OBチームが大敗したことを申し添えておきます。
そして、その晩の夢の中でも、ライト前に5本目のヒットを放ちました。よほどうれしかったのでしょう。 いつも試合中なのかも知れません。
2012年11月2日金曜日
シンドラーの死亡事故
11月1日付けの朝日新聞は、一面にシンドラー社製のエレベーターの死亡事故を報道していました。金沢市の「アパホテル金沢駅前」で、エレベーターに乗ろうとした女性が、突然動き出したエレベーターのかごと上部の枠にはさまれ死亡しました。
2006年にも、 東京都の公営住宅で、高校生がシンドラーのエレベーターにはさまれて生命を奪われました。同じ悲劇が繰り返されました。悲しむべきことです。
私は、さっそく南区の厚生部長に電話を入れました。南区厚生部が入っている別館のエレベーターはシンドラー社製です。2006年以前に広島市が、指名競争入札の結果購入したエレベーターです。
厚生部長は、新聞記事を見ていなかったようですが、「さっそく安全対策をとる」 と述べました。そして、午後にはこのエレベーターの使用を中止しました。
11月2日に、再び厚生部長に電話を入れると、
「3日の土曜日と4日の日曜日は使用を再開したい」、と言います。
「どういう方法で安全が確認できたのか。」と聞きました。
「身体の不自由な方が利用されるので、エレベーターは不可欠だ。」と、部長は言いました。
安全かどうか聞いているのに、この発言にはあきれるしかありません。
「安全確認ができないのに運転再開するなどと、許されることなのか。」と問うと、
「西区にも同じエレベーターが入っている。西区と協議する。」と言います。
西区の区長に電話をかけると、
「西区はエレベーターを止めている。安全が確認されるまで止めたままにする。土日ももちろん止めたままだ。」と答えました。
「同じ広島市の施設なのに、南区は土日に動かし、西区は土日も止めるなどあり得るのか。」と指摘すると、西区の区長は
「あり得ないことである。昼の12時までに結論を出す。」と言いました。
12時に、都市整備局営繕部設備課長と指導部長、そして機械設備担当課長が説明に来ました。
「南区と西区のエレベーターは、安全を確認するまでは運転しない 。」とのことでした。
「どうやって安全確認するのか。」と聞いても、設備課長が「緊急点検させる。」としか言いません。
「金沢のホテルのエレベーターも毎月の点検の結果、異状なしだったが死亡事故が起きた。」と指摘するとみな黙ってしまいました。
市には他に39施設にシンドラーのエレベーターがありますが、停止させずに今まで通り運転させると言います。
その理由について設備課長は、「事故と同じ駆動装置が設置されているのは、西区と南区だけだ。」と述べました。
「なぜ、2か所だけなのか。」と問うと、「シンドラー社がそう言った。」と設備課長は答えました。
「それを鵜呑みにしてよいのか。人が一人死亡したのに、なぜそれで済むのか。」と問いかけましたが、みな黙って何も言いません。
「市の41の施設にあるエレベーターについて、駆動装置の製品番号のリストをシンドラーから取り寄せて、各エレベーターの駆動装置が本当にシンドラー社が言うように、2つが同一で39が同一でないことを確認してはどうか。」と提案しました。
部長は「そのとおりする」と約束して、さっさと帰りました。
市の各幹部は、人命を軽く見ているようにしか映りません。市民の生命を守るよりも、自分たちの仕事が増えないことのほうが、重要なことのようです。
結局、私が提案したことしかやらず、自分たちからは何もやろうとはしないというやりとりです。
2006年にも、 東京都の公営住宅で、高校生がシンドラーのエレベーターにはさまれて生命を奪われました。同じ悲劇が繰り返されました。悲しむべきことです。
私は、さっそく南区の厚生部長に電話を入れました。南区厚生部が入っている別館のエレベーターはシンドラー社製です。2006年以前に広島市が、指名競争入札の結果購入したエレベーターです。
厚生部長は、新聞記事を見ていなかったようですが、「さっそく安全対策をとる」 と述べました。そして、午後にはこのエレベーターの使用を中止しました。
11月2日に、再び厚生部長に電話を入れると、
「3日の土曜日と4日の日曜日は使用を再開したい」、と言います。
「どういう方法で安全が確認できたのか。」と聞きました。
「身体の不自由な方が利用されるので、エレベーターは不可欠だ。」と、部長は言いました。
安全かどうか聞いているのに、この発言にはあきれるしかありません。
「安全確認ができないのに運転再開するなどと、許されることなのか。」と問うと、
「西区にも同じエレベーターが入っている。西区と協議する。」と言います。
西区の区長に電話をかけると、
「西区はエレベーターを止めている。安全が確認されるまで止めたままにする。土日ももちろん止めたままだ。」と答えました。
「同じ広島市の施設なのに、南区は土日に動かし、西区は土日も止めるなどあり得るのか。」と指摘すると、西区の区長は
「あり得ないことである。昼の12時までに結論を出す。」と言いました。
12時に、都市整備局営繕部設備課長と指導部長、そして機械設備担当課長が説明に来ました。
「南区と西区のエレベーターは、安全を確認するまでは運転しない 。」とのことでした。
「どうやって安全確認するのか。」と聞いても、設備課長が「緊急点検させる。」としか言いません。
「金沢のホテルのエレベーターも毎月の点検の結果、異状なしだったが死亡事故が起きた。」と指摘するとみな黙ってしまいました。
市には他に39施設にシンドラーのエレベーターがありますが、停止させずに今まで通り運転させると言います。
その理由について設備課長は、「事故と同じ駆動装置が設置されているのは、西区と南区だけだ。」と述べました。
「なぜ、2か所だけなのか。」と問うと、「シンドラー社がそう言った。」と設備課長は答えました。
「それを鵜呑みにしてよいのか。人が一人死亡したのに、なぜそれで済むのか。」と問いかけましたが、みな黙って何も言いません。
「市の41の施設にあるエレベーターについて、駆動装置の製品番号のリストをシンドラーから取り寄せて、各エレベーターの駆動装置が本当にシンドラー社が言うように、2つが同一で39が同一でないことを確認してはどうか。」と提案しました。
部長は「そのとおりする」と約束して、さっさと帰りました。
市の各幹部は、人命を軽く見ているようにしか映りません。市民の生命を守るよりも、自分たちの仕事が増えないことのほうが、重要なことのようです。
結局、私が提案したことしかやらず、自分たちからは何もやろうとはしないというやりとりです。
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