最も世界で活躍した日本人テニス・プレーヤーというと、誰を思い浮かべられますか。私はなんといっても伊達公子選手です。
1996年全英オープンの準決勝、伊達は当時女王といわれたシュテフィ・グラフ選手と激突しました。
第1セットはグラフが取り、続く第2セット、グラフのサーブを伊達が強烈なリターン。一歩も動けなかったグラフが、「だめだ」という表情で首を横に振っていました。
私は、伊達が勝ったと思いました。しかし日没となり、翌日に順延となりました。結局伊達は敗れました。伊達は世界4大オープンで、計3回ベスト4に進出しています。しかしそれ以後、伊達を超える選手は出てきてません。
男子選手では1933年(昭和8年)シングルスのランキング世界第3位に輝いた、佐藤次郎選手までさかのぼります。
佐藤は1908年(明治41年)群馬県の出身で、早稲田大学に進み世界4大オープンに出場しました。1931年の全仏、1932年の全英・全豪、1933年の全仏・全英で、いずれもシングルス・ベスト4に進みました。計5回のベスト4進出の中で、33年の全仏オープン準々決勝では、当時実力世界一のフレッド・ペリー(英国)を下しています。
佐藤は、その力強いショットといかつい風貌からブルドッグと呼ばれ、世界中の人気者でした。
しかし、そんな佐藤の競技生活は衝撃的な結末を迎えます。
1934年(昭和9年)4月5日、デビスカップ選手権への遠征の途上、汽船の甲板から月のマラッカ海峡に投身自殺して果てたのでした。
世界4大オープンは個人戦ですが、デビスカップは日本チームとして出場します。個人戦で好成績を上げる佐藤が、日の丸を背負って戦うデビスカップで勝てないことを、日本のテニス界は非難していました。佐藤は神経衰弱となり体調を崩していましたが、それを押しての遠征でした。
当時の偏狭なナショナリズムが26歳の若きテニスプレーヤーを殺しました。世代を問わず、また議会においても国会から地方議会に至るまで、偏狭なナショナリズムは一定の支持を受けています。
佐藤選手の悲劇以降に日本がたどってきた道を振り返れば、これがいかに危険な思想か理解できると思います。