前回は日本歴代最高のテニス・プレーヤーであるブルドッグ佐藤について書きました。その佐藤の先輩に当たるのが清水善造です。清水は群馬県出身で東京高商(現・一橋大学)へ進みました。1921(大正10年)には世界ランキング第4位にランクされています。
軟式テニスから硬式に転向した清水は、1920年(大正9年)ウィンブルドンでの全英オープンに出場しました。あれよあれよと勝ち進み、前年度の優勝者への挑戦者決定戦に臨みました。対戦相手は当時世界一の強豪、ビル・チルデン(米国)。チルデンはテニス愛好家がよく着用するチルデンセーターにその名を残しています。
清水は4-6,4-6と2セットを失いますが、3セット目に清水は猛然と反撃に移ります。6-7と追い上げて迎えた第14ゲーム、ラリーの応酬から清水は右コーナーへするどいドライブショット。これをチルデンはかろうじて拾い、ボールはふらふらっと上がりました。
この時、チルデンは足をもつれさせて転倒してしまいました。コートの左はがら空きです。
ところが、清水は左に打たず、右に弱いボールを打ちました。立ち直ったチルデンは、これを激しく叩き返しポイントを取りました。清水はこの時、左に強く打ち込むか、裏をかいて右に打つか迷ったそうです。中途半端なショットだったのです。
しかし観客はこの時総立ちになって清水のプレーに拍手を送ったのです。このセットは結局チルデンが11-13で取り、3-0で勝ちました。
清水が打った弱い球は、後日大きく取り上げられました。1933年(昭和8年)、なんと国定教科書に掲載されました。この弱いボールこそいわゆる「武士の情け」。 「日本人」の武士道精神のあらわれであり、「日本男児」の名誉であると国粋主義の高揚に利用されました。会場で賞賛されたのは、「清水のプレー」だったのですが。
おおらかであったデモクラシーの大正時代から、ナショナリズムが高揚した昭和へ。個人を尊ぶスポーツの精神はあたかも悪であるかのように扱わました。何においても国家が個人に優先する時代でした。
現在でも、オリンピックやワールドカップなどに過剰なナショナリズムが垣間見られます。個人、あるいはチームの栄誉がすなわち国威の発揚となり、負けてしまうと国家の恥であるという意見や論調が一部にみられます。
清水が利用され、佐藤が犠牲になった時代へ引き戻そうとでも言うのでしょうか。
広島市議会も最近ナショナリズムの高揚を目指す動きがあり、その先行きが懸念されます。
国際平和文化都市広島を変容させないように、頑張ってまいりたいと思います。