原対協(広島市原爆障害者治療対策協議会)は、1953年被爆者への医療を組織的に行おうと医師会や広島市が中心となって発足させました。濱井信三・広島市長が会長に、松坂義正・広島県医師会長が副会長に就任しました。以後、歴代の広島市長が会長を務めてきました。
ところが、1999年に就任した秋葉忠利市長は会長に就任できず、代わって杉本純雄副会長が会長に就任しました。現在の松井一實市長も会長ではありません。
「広島市と原対協が請負関係なので市長と会長の兼務ができない」という広島市の担当者の説明ですが、私には理解できません。
1953年当時の広島市は財政に余裕が無く、国から被爆者支援の補助金を獲得する必要がありました。ところが、原対協を医師会のメンバーだけで運営すると、国から補助金を貰えなくなる懸念がありました。そのため、市長を会長に頂く必要があったと聞いています。
そこには、中央政府や国会議員、厚生省の官僚などとの丁々発止のやり取りがあったと思われます。水面下の決定だったかも知れません。
それが、ただ請負関係にあるという陳腐な理由で、原対協発足に心血を注いだ先人の努力が無に帰すかと思うと泣けてきます。広島市の原爆被害対策部の調査課長に原対協発足のいきさつを尋ねましたが、全く知りませんでした。おそらく部長も同様でしょう。
わずか58年前の、広島の被爆者援護における重大なエポックを、市の担当職員は誰も知りません。
593年、聖徳太子が推古天皇のもと摂政となり、三宝興隆の詔(594年)、冠位十二階の制定(603年)、憲法十八条の制定(604年)、遣隋使の派遣(607年)など画期的な政治を行いました。1400年以上も前の出来事が事細かく記録に残されており、日本人はみんな知っている出来事です。
1400年前の日本史上画期的な出来事を国民はみんな知っているのに、広島市の被爆者援護における画期的な出来事を市の職員は誰も知らず、別に知らないでも構わないという態度です。
8月6日までは忙しいから調べられないと課長は言いましたが、むしろこのような重要な出来事は8月6日までに調査して、鮮明にしておくべきではないでしょうか。見識を疑います。