2012年4月14日土曜日

オリンピックの金メダル

アスリート最高の栄誉は、4年に1度開かれるオリンピックで優勝することでしょう。

 競泳平泳ぎの北島康介選手は、2004年のアテネ大会で、100メートル・200メートルとも優勝。さらに2008年の北京大会でも同じ2種目で優勝しました。
 さらに今年のロンドン大会の国内選考競技でも、自らの持つ日本記録に迫る好成績で大会出場を決めました。3大会連続の2種目優勝など聞いたことなどありませんが、北島選手ならやってくれそうな気がします。

 個人での最多金メダル獲得者といえば、フィンランドの英雄、パーヴォ・ヌルミ選手です。3つのオリンピックに出場し、陸上競技で合計9個の金メダルを獲得しています。

 1920年のベルギー・アントワープ大会では、10000メートル、クロスカントリー個人、クロスカントリー団体で優勝して3つ。
 1924年のフランス・パリ大会では、1500メートル、5000メートル、クロスカントリー個人、クロスカントリー団体、3000メートル団体で優勝して5つ。
 1928年のオランダ・アムステルダム大会では、10000メートルで優勝して1つ。

 合計9個の金メダルを獲得しました。

 最も激戦だったのは、パリ大会5000メートル決勝です。
 当日、ヌルミは1500メートルと5000メートルの2種目にエントリーしていました。まずは最初の1500メートルは、オリンピック新記録で優勝しました。

 しかし、次の5000メートルのスタートまでの時間はわずか30分。ヌルミ側からの抗議の末、スタートは1時間半ほど延長されました。そのヌルミに立ちはだかったのは、同じフィンランドのヴィリョ・リトラでした。
 リトラは4日前に、ヌルミがエントリーされなかった10000メートルに出場し、世界新記録で優勝していました。

 ヌルミかリトラか。観衆がかたずを飲んで見守る中、スタートのピストルが鳴りました。
 2時間前に走ったばかりのヌルミの消耗を考え、リトラが飛ばします。しかし、2500メートルでヌルミがリトラをとらえます。先頭に立つヌルミ。抜かれたリトラも追走します。

 残り500メートル。ヌルミは手に持っていたストップウォッチを投げ捨てて猛然とスパート。リトラもそれを懸命に追い上げます。
 観客は総立ち。両者ほぼ同時にゴールインしました。

 わずかの差で1位はヌルミ、2位はリトラ。わずか0.2秒差の死闘でした。

 1952年フィンランドのヘルシンキ大会で、ヌルミは最終聖火ランナーとして、聖火台に点火する栄誉を与えられました。

 私はヌルミと並走したことがあります。

 といっても銅像のヌルミですが。
 ヘルシンキのオリンピックスタジアムにヌルミの銅像があると聞いて、ヘルシンキ市へ海外視察に出かけたとき、同僚の議員に写真を撮ってもらいました。せっかくだからランニングポーズをとりました。
 デジタルのデータがないので今回はお見せできませんが、いつかお見せしたいと思います。

2012年4月9日月曜日

佐藤寿人J1通算100得点

サンフレッチェ広島のフォワード・佐藤寿人選手が、4月7日のガンバ大阪戦で2つのゴールを決め、J1リーグ通算100得点を達成しました。心からおめでとうと申し上げます。チームが好調で、2位をキープしているのも、佐藤選手の頑張りが大きいと思います。

 2001年にジェフ市原で初得点を挙げてから、足掛け12年です。仙台と広島ではJ2降格も経験しているので、10年で100得点は本当に素晴らしい記録です。

 佐藤選手とは、サンフレッチェを励ます会で二度ほどお会いしました。
 サンフレッチェの選手はみんな紳士で私の質問にも丁寧に答えてくれました。特に佐藤選手とはたいへん親しく話ができました。佐藤選手は170センチ67キロの体格で、背丈は私とほとんど変わりませんでした。

 ドイツでワールドカップが開催された2年前。サンフレッチェを励ます会で、私は佐藤選手にこう話しました。

「ドイツへ行かなくてはなりませんね。」

当時、代表選手の選抜に各選手緊張している時期でした。佐藤選手はこう答えました。

「きっと、ドイツへ行きます。」

 佐藤選手の特長は、爽やかな笑顔です。試合中はイレブンを笑顔で励まし、ファンには満面の笑顔で応対します。
 ずっと笑顔だった佐藤選手が、一瞬で真顔になりました。プロサッカー選手としての意地を垣間見た気がしました。しかし、残念ながらドイツへは行けませんでした。

 30歳を過ぎて、代表への選出は厳しいかも知れません。
 でも佐藤選手には、ブラジルワールドカップのピッチに立ってほしいです。あのするすると抜け出してのシュートを決めて欲しい。
 心から願っています。

2012年4月8日日曜日

マエケンのノーヒットノーラン

今年もプロ野球が開幕しました。広島カープは2連敗の後6連勝と好調です。
 先発陣が素晴らしく、大竹、福井、篠田、前田、バリントン、野村。いずれも力投し勝利に貢献しました。

 4月6日のDeNA戦では、前田健太投手がノーヒットノーランを達成しました。29人の打者に対して、四球二個を与えた以外は全て打ち取りました。
 ラジオで聞いていましたが、まったく危なげの無い投球で、素晴らしい内容でした。今シーズンは好調を維持して、15勝以上あげてほしいとおもいます。

 私も、ノーヒットノーランの試合を球場で見たことがあります。1972年の4月29日、広島市民球場でのナイターでした。当時は中学2年生で、友人と見に行ったと記憶しています。

 カープの先発ピッチャーは、外木場義郎投手。1968年には大洋を相手に完全試合を達成し、20勝投手の栄誉に輝きました。しかし、69年以降は20勝の壁を越えられずにいました。

 対戦相手は巨人でした。当時の巨人は、9年連続日本一の8年目。川上哲治監督のもと、王、長嶋、柴田、黒江、高田、土井、森、末次ら強力打線を擁していました。

 初回、外木場は3番の王に簡単に四球を与えました。四球には慣れている王が、少し下を向いて一塁にゆっくり走って行ったのを憶えています。しかし、外木場はそれ以降巨人を0点に抑えました。
 独特の早い間合いで、ちぎっては投げちぎっては投げ。巨人打線に対して凡打の山を築きました。
 
 あっという間に、カープが3対0で勝ちました。王の四球があったので、ヒットも打たれたのだろうと思っていて、終わってからノーヒットノーランに気付いたほどです。試合中に、はらはらどきどきした記憶はありませんでした。何より強い巨人から快挙をあげるなど、当時は信じられませんでした。

 しかし、その年もチームは首位巨人から24ゲーム差の最下位。外木場も11勝15敗と不調でした。

 それから3年後の1975年、外木場が20勝をあげ、名実共にエースとなった時にカープは優勝しました。
 前田健太が名実共にカープのエースとなる時、ひょっとすると優勝するかも知れません。大いに期待しましょう。