元横綱大鵬の、納谷幸喜さんが亡くなられました。享年72歳でした。
昭和15年に生まれた大鵬は19歳で入幕し、昭和36年9月に21歳3か月で早くも横綱に昇進しました。
当時私は2歳と6か月。大鵬の横綱昇進の記憶はありません。
相撲についての記憶にあるのは、大関の北葉山英俊と大関の佐田の山晋松が、ともに13勝2敗で激突した優勝決定戦です。贔屓の佐田の山が北葉山にあっけなく押し出され、悔しかったことを鮮明に覚えています。これが38年の7月場所ですから、38年の1月場所くらいから、テレビの相撲を熱心に見ていたと思われます。
38年の5月場所は、横綱大鵬が15戦全勝で11回目の優勝を飾りました。なんと6場所連続の優勝でした。6連覇中で、大鵬の敗戦はわずかに7回。大鵬は23歳になったばかりでした。
このころわたしは4歳。その頃からすでに大鵬は無敵でした。柏鵬時代と呼ばれていますが、横綱の柏戸 剛が大鵬に対抗していたのは、私がものごころつく前のことでした。
柏戸は男っぷりもよく、相撲も一直線の豪快な相撲で、人気もありました。とくに祖母、お手伝いで住み込んでおられたKさんが、熱狂的な大鵬のファンでした。
私の記憶にある柏戸は下位の力士に取りこぼしが多く、とても大鵬に対抗できていませんでした。
一方、よく対抗したのが大関の佐田の山でした。しかし大鵬に比べて軽量の佐田の山は、大型力士を苦手としていました。そのため、終盤に大鵬と激突するときはたいてい1敗程度の差がついていました。
それでも1敗の差であれば、佐田の山が大鵬に勝てば優勝のチャンスが生まれます。
ある年の佐田の山と大鵬の取り組みです。
佐田の山が頭で当たって猛然と突き押しで大鵬の上体を起こします。なおも佐田が突っ張ります。
しかし大鵬は下がりながらも、下半身は崩れません。そのうち大鵬は右、左と差し、佐田の動きを止めてゆっくりと 寄り切ります。寄り切って大鵬が勝ちました。
それでも佐田の山は、40年の3月に横綱に昇進しました。大鵬はそれまでに佐田の山と21戦して、1回しか敗けていません。いかに偉大な壁として立ちはだかっていたかわかります。
43年5月に引退した佐田の山のあと大鵬に肉薄したのは、大関玉乃島正夫です。176センチと恵まれない身体ながら、精進を重ね、41年9月場所後に21歳で大関に昇進。42年11月場所よりコンスタントに2ケタ勝利を収めてきました。
そして大鵬が休場した43年5月場所では、13勝2敗の成績で初優勝をとげました。覇者交代かと思われました。
しかし大鵬は休場明けの43年9月場所初日、前頭の栃東に敗れたものの、2日目から連勝を始めました。そして44年3月場所2日目、前頭の戸田に敗れるまで45連勝を記録しました。
私は当時小学校4年生、学校が終わるや真っ先に家のテレビの前に陣取って、相撲を見ていました。この45連勝中も大鵬は危なげなく勝ち進んでいました。応援する玉乃島が、猛然とうわ突っ張りで大鵬の上体を起こそうとするのですが、たくみに差し込まれ逆に玉の上体が起きてしまって勝負ありでした。
とにかく大鵬は強かった。負けなかった。そしてここ一番の相撲では必ず勝ちました。
北の富士と玉の海(玉乃島改め)が同時に横綱となった45年3月場所で、大鵬は全勝の玉の海、1敗の北の富士を連破して優勝を遂げています。この2番の相撲は、絶対負けられないという執念が大鵬を勝たせたのでした。
ところで大鵬には中学3年のときに握手してもらったことがあります。掌がやわらかくておもちのようだったのが強く印象に残っています。
優勝32回、6連覇2回、45連勝の記録、まさしく大鵬の前に大鵬なく、大鵬の後に大鵬なし。不世出の横綱でした。
ご冥福をお祈りします。