2013年5月17日金曜日

中国へ行きました。


 最初の写真は、清朝の発祥の地故宮です。初代皇帝ヌルハチと二代皇帝ホンタイジが住んでいたところです。当時の建物が残っています。黄色い瓦屋根が王宮のしるしです。
次の写真は瀋陽駅です。旧南満州鉄道(満鉄)の時代の建築で、日本人の設計になりました。赤レンガの建物は、東京駅、ソウル駅と同じデザインです。

この建物は遼寧賓館で、満鉄が建設した奉天大和ホテルです。建物は当時のままです。
 このホテルは、中山広場という円形の広場に面して建っています。満州国の時代は、日露戦争で戦死した日本兵の忠霊塔が立っていました。今は毛沢東の像に代わっています。
瀋陽には妻の父が住んでいまして、ホテルを営む両親や姉、弟などたくさんの兄弟と住んでいたそうです。義父は生前に満州へ行きたいと言っていました。それもかなわず亡くなりました。
 
 たまたま私の友人が瀋陽市の出身で、彼の父に聞いてみると、
「日本人は固まって住んでいて、われわれ朝鮮族はそこへは入ることが出来なかった。」
と言っていたそうです。

 古いフィルムでは、先ほどの瀋陽駅 から大和ホテルのあった中山広場までが新市街、故宮の周囲が旧市街と言われていました。満州国建国(1932年)以降に義父は満州に渡っています。
 両親のホテルは、中山広場から瀋陽駅の間、つまり新市街にあったと思われます。

 その界隈を歩きました。いまも繁華街で、当時の建物がいくつか残っていますが、当時の面影を見ることはできませんでした。生きていれば 「このへんに住んでいたよ。」と言ったかもしれません。
最後の写真は、日中両国が15年間、戦争をすることになった柳条湖事件の現場です。「9・18事件記念館」 と言いますが、大きな記念館です。

 「9.18事件」とは、1931年9月18日、当時満鉄沿線を警備していた日本軍(関東軍)が奉天郊外の柳条湖で自ら鉄道を爆破し、これを中国軍(張学良軍)のしわざとして、一方的に張学良軍に攻めかかった事件です。日本では満州事変として知られています。

 関東軍は瞬く間に満州一円を占領し、翌1932年に満州国を打ち建てたのでした。
 これは当時の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、石原莞爾中佐の作戦によるものです。若槻礼次郎内閣も関東軍の上層部も、板垣や石原の暴走を止めることはできませんでした。
 その後、中国国民がいかに苦難を味わったかを、この記念館は詳細に展示しています。
 

 板垣は事件の責任を問われ東京裁判で絞首刑。石原はなぜか訴追されず、裁判中に証人尋問を受けていますが、間もなくぼうこう癌で亡くなりました。

 驚いたのは、記念館の見学にたくさんの中国人が訪れていたことです。しかも若い人も初老の人も、たくさんの展示を時間をかけて熱心に見ていました。

 わたしが 「これが板垣、これが東條、これが石原」 などと写真を指差して、人物評を友人と語っていますと、周囲の中国人が、珍しい日本人もいるものだと小さい声で話していたそうです。

 日中の歴史、とりわけ明治以降の近代史について、日本人はあまりに知らないようです。
 それは学校教育に問題があります。

 中国人は詳しく知っていて、日本人は何も知らない。中国政府の反日教育がけしからんと言っても、史実を何も知らないため反論できません。
 たとえ反論しても、中国政府が教えているのは全てが嘘だという極端な意見になってしまいます。

 広島市の教育委員会は、小中高校生に中国の若者と同等の知識を教え込むべきです。
 80数年前に起きた出来事について、広島市民が何も知らないまま
「広島市が国際都市だ」
と、中国人の前でのたまうのは恥ずかしい話です。