常設展のポスターです。二段目の一番左の写真が村野常右衛門です。 |
自由民権資料館です。 |
東京都町田市の自由民権資料館を訪問しました。学芸員の松崎さんは、とても丁寧に説明をしてくださいました。
町田市は東京都西端の三多摩地方にあります。明治時代、自由民権運動華やかなりし時代に、拠点となった三多摩です。
特に、町田からは多くの民権家を排出しました。初代神奈川県会議長の石阪昌孝(当時三多摩は神奈川県)。衆議院議員から財界に転じ、産業育成に貢献した青木正太郎。そして村野常右衛門です。
村野は石阪や青木らとともに、民権運動のリーダーとして活躍しました。明治18年(1885年)に大阪事件に連座して投獄されましたが、その後は県議となり、さらには衆議院議員となります。
村野は立憲政友会に所属し、原敬総裁の片腕として活躍します。質屋だった村野は、そろばん勘定に明るく、政友会の会計を担って幾多の総選挙を指揮し勝利に導きました。
原内閣などの政友会内閣に何度も入閣を要請されましたが、その都度「わたしは大臣の器ではない」と固辞したということです。
自由民権資料館の立つ場所は、明治16年(1883年)に村野が開いた私塾 「凌霜館」の跡です。村野は、常に後に続く俊才の教育に努めていました。
学芸員の松崎さんは、民権家ひとりひとりの業績から、彼らにまつわる事件までよどみなく詳しく説明してくださいました。
博物館の存在意義は、ひとえに学芸員にかかっていると言えましょう。
広島市も博物館の建設を望むものです。学芸員の要請も急務と言えます。
恥ずかしながら、私は三多摩の民権家の名前を一人も知りませんでした。しかし、村野が戦前に政友会への入党を勧めた人物を知っています。大野伴睦(おおのばんぼく)です。
大野は、戦前から政友会の代議士として活躍しました。戦後も自由党幹事長として吉田茂首相を支えました。「ばんちゃん」と呼ばれ、庶民派の政治家でした。
大野には、あるエピソードがあります。ある日、大野のところへ一人の老婦人が訪ねてきました。家の前のどぶ板の整備を、いくら役所に頼んでもやってくれない。なんとかしてほしいと大野にお願いしました。
大野が即座に役所に電話したところ、役所の課長が老婦人の家に謝罪に来て、さっそく工事にとりかかったということです。
よくある話のように思えますが、実は老婦人は大野の選挙区外に住む人でした。
大野の行為は、当たり前のように思いますが、エピソードとして残っているということは、自分の選挙区の世話ばかりする政治家がいかに多いかということを物語っているのでしょう。それは現代の政治家にも言えることです。
大野のような政治家を育てた、村野常右衛門の人柄がしのばれます。