私は辰猪のおかげでこの夏の猛暑を乗り切ることが出来ました。というのは、辰猪の伝記を毎晩読んでいたからです。
辰猪の伝記が猛暑を忘れさせてくれるくらい面白かったのかというと、そうではありません。
伝記の著者は、歴史家であり評論家の萩原延壽氏です。萩原氏の文章は、たいへん辰猪に対する思い入れに満ちた名文でした。この格調の高さと引用した辰猪の文章の難解さが、わたしを夢の中へいざなったのでした。しかも辰猪の文章はカタカナと漢字で書かれており、慣れない文体はより一層まぶたを重くしたのでした。
そんなわけで、伝記を読み終わるのに1か月以上かかりました。しかし、じっくり遅読し熟読したため、辰猪はわたしの中で生き続けることでしょう。
高知市に市立自由民権記念館があり、辰猪の足跡についても詳しく展示されています。このような歴史博物館を広島市に建設するため、この記念館を訪れました。
辰猪は1850年(嘉永3年)土佐藩上士格の武家の次男として生まれました。満16歳で江戸の慶応義塾に学び、1870年には土佐藩の留学生として渡英しました。海軍機関学の勉強のかたわら、英国の中流家庭の自由主義者との交流を深め、英国の政治制度を学びました。
1878年(明治11年)に帰国すると、政府に職を求めず、自由民権運動の中心的思想家となりました。1881年(明治14年)には板垣退助を総理とする自由党に参加します。元来英国流の穏健な思想家であった辰猪は、その後藩閥政府による迫害や弾圧を経て、急進的な考えに変わっていきます。
辰猪は藩閥政府を専制政府と批判しながらも、自由民権運動の内部に大きな危惧を抱きます。そのきっかけとなったのが、1882年(明治15年)に巻き起こった板垣退助の洋行問題です。
辰猪は、自由党が党勢拡大に全力を傾けなければならない時に、板垣が洋行することは適当でないと批判しています。さらに辰猪は東京在住の数十名の党員とともに、洋行を断念しなければ総理の地位から追放するという告発状を板垣に送付します。
これに怒った板垣は、辰猪を党の機関紙「自由新聞」から追放し、自身は1882年の11月から翌1883年(明治16年)6月まで洋行します。資金については、藩閥のリーダー井上馨が三井から二万円を引き出し、後藤象二郎の手を経て板垣に渡したということです。
板垣と自由党に絶望した辰猪は、1883年9月に自由党を脱党します。 (つづく)
高知県の自由民権記念館と筆者