続きです。
馬場辰猪が守り抜こうとしたのは、自由民権の理念でした。結党して日の浅い自由党を残して藩閥政府の資金で外遊する党首板垣退助の行動は、この理念を運動の内部から腐食させるものと映りました。
さらに辰猪は、東京大学総理の加藤弘之の挑戦を受けて立ちました。
加藤は福沢諭吉とならぶ啓蒙思想家です。加藤は著書「真政大意」や「国体新論」で、天賦人権論にもとづく自由の精神を紹介しています。
その加藤は明治14年10月、突如転向を声明し、みずから「真政大意」や「国体新論」を絶版としました。そして明治15年10月、「人権新説」を著し、自由や平等は人間固有の権利ではなく、優勝劣敗、適者生存という進化論にもとづくと論じました。
つまり、生存競争の勝者である藩閥政府の保証によって、はじめて権利が発生すると述べています。そして天賦人権論を「妄想」と決めつけました。
この加藤の意見は、数年前に広島市議会で「子どもの権利に関する条例」に反対する一議員の意見を思い出させました。その議員は、子どもの権利が生まれながらに備わっていることについて我慢がならないようでした。
辰猪は加藤の「人権新説」を批判し、明治16年1月「天賦人権論」を刊行しました。
加藤は「権利というものは一般に政治権力によって付与される」という議論を繰り返します。
一方で辰猪は、「主治者が法律を施行するときは、元来人民の幸福を大にするをもって目的となすべきである。これは自然法に基づきて生じ来たるべきものなり。」 と、幸福となる権利は天賦のもの(生まれつきそなわっているもの)であると反論しています。
この辰猪の議論は、まったく我が意を得たりというものでした。わたしも議員として、市民の幸福となる権利は元来そなわっているもの と考え行動しています。
しかし、辰猪は集会条例を適用されて発言の機会を封じられていきます。明治18年11月には爆発物取締法規則違反で逮捕されます。その後明治19年6月にようやく証拠不十分で釈放されます。
辰猪は発言の機会を求め、釈放の十日後に渡米します。そしてアメリカで藩閥政府批判を繰り返します。しかし、元来の肺患のため、明治21年11月1日フィラデルフィアで死亡します。享年39歳でした。
遺作「日本政治の状態」の表紙には、「頼むところは天下の輿論(よろん)、目指す仇は暴虐政府」 とローマ字で刷り込みました。文字通り、藩閥政府の打倒に捧げた生涯でした。
高知市立自由民権資料館の松岡館長は、「講演で辰猪の話をしますと、思わず泣けてくるのです。」 とおっしゃってました。
わたしも、広島市の偉人や先達の話をするとき、涙を流すくらい偉人の足跡をしっかり踏まえたいと思いました。 まったく辰猪ほど、みずからの思想を一貫して表明し続けた政治家はいません。広島市議会にも、国会にも。