2010年8月31日火曜日

小沢氏の出馬

 民主党の代表選挙は、31日小沢一郎前幹事長の出馬表明で、菅直人首相との一騎打ちとなる様相となりました。
 さっそく毎日新聞から電話で取材が入り、このようにコメントしました。
 
 「3ヶ月前に総理に就任したばかりの菅首相を選挙で引きずりおろすことは、政策の一貫性が損なわれ、国民の理解は得られないと思います。各紙の世論調査でも、菅内閣の存続を希望する人が70%を超していることがその現れです。
 小沢氏は、参議院選挙の敗北を菅総理の責任だと言っています。しかし、敗北の原因は普天間基地をめぐる問題と、鳩山由紀夫首相と小沢幹事長の政治とカネをめぐる問題の二つが最も大きいものだと思います。
 その責任を取って、二人抱き合わせで辞任したのが今年の6月です。辞任の舌も乾かぬうちに代表選挙へ立候補することは、どう考えても理解できません。」

 ここから先はコメントはしませんでしたが、付け加えれば小沢氏の側近たちに幹事長や官房長官、さらに総務大臣・財務大臣・外務大臣といった有力閣僚を独占しようと言う気持ちが、ありありとうかがえます。党や政府の要職を奪い合うことが、この代表選挙の目的であるならば、国民の生活はいっそう不幸になってしまうでしょう。
 
 激しい選挙戦になりますが、どちらが勝とうと民主党は一致団結して、困難を極める国民の生活を向上させるよう、全力投球して行くべきだと思います。もちろん私も広島市民のために働いてまいります。
 

民主党代表選挙

 9月14日投開票の民主党代表選挙は、菅直人首相に対し小沢一郎前幹事長が立候補を表明し、一騎打ちの様相を呈しました。
 同日、私は読売新聞から取材を受け「選挙の結果、代表が交代し政権が交代することになれば、また政策が変更され一貫性を欠く事になる。国民にとっては良くないことだ。」と述べ、記事になりました。
 
 昨年8月の総選挙で、鳩山由紀夫内閣が発足したのが9月16日でした。
 その後、「政治とカネの問題」と「普天間基地の問題」などで鳩山首相と小沢幹事長が辞任し、菅副総理が総理大臣に就任したのが今年の6月4日です。
 
 菅内閣発足から、3ヶ月も経たないのに総理の首をすげかえるのは、国民の理解が得られないと思います。
 国民は、昨年の総選挙で少なくとも4年間、民主党にしっかり政権を運営するよう託したのです。
それを政権の座にあることを好い事に、権力闘争に明け暮れていては、国民は早い時期に民主党を見放すでしょう。
 
 一番恐ろしいのは、議会制民主主義が国民から否定され、戦前の日本やドイツのようにファシズムや全体主義の時代に戻ることです。
 
 政治家は国民から信用されなければなりません。民主党は、国民のための政治を進めるため、一致団結すべきだと思います。
 

2010年8月22日日曜日

核の傘・後編

 前回の続きです。 
 
 日米安保条約が有効で、米国が核兵器を保有している現状では、日本の安全は米国が核の傘を差しかけることによって保障されています。ある意味で、日本は米国の傘の下でぬくぬくと平和を享受しているといえましょう。
 ただし、日本国民がすすんで核の傘に入ったのではなく、米国の占領政策の延長で無理やり核の傘を差しかけられているのです。

 この核の傘からの離脱を目指すには、二つの方法があると思います。
 日米安保条約を廃止して米国の傘から離脱するか、核兵器の全廃を達成して米国の傘を無くすかです。

 市長が目指しているのは、2020年までの核兵器の全廃です。そして首相は日本国の総理としてその先頭に立つと言ったわけです。
 その一方で、日米安保条約の廃棄は現状では困難だという前提で、「米国の核の傘は必要」と述べたと理解します。
 二枚舌だと批判を浴びた菅首相ですが、私はそのようには思いません。二枚舌というよりは、舌足らずな談話だったと思います。

 日本が核の傘から出るにはどうすればいいのか。
 
 私は、核兵器の廃絶を目指す一方で、沖縄などの米軍基地の廃止、さらに日米安保条約の廃止も求めていくべきではないかと思います。
 

2010年8月20日金曜日

核の傘・前編

 この夏、広島はものすごい暑さです。お盆が過ぎたというのに、37℃から38℃を記録しています。この気温は日陰での数字なので、日が当たる場所はもっと高いと思われます。日陰は少し涼しいのですが、日なたに出る気は起こりません。
 少しでも暑さをしのげる方法はないのか・・・。物は試しにと思い、日傘を買って使うことにしてみました。

 これが思ったよりも快適です。素材は綿で、白地に青のストライプが入ってます。雨傘はナイロンなので、暑い中でさすと繊維が溶けることも店員さんに聞いて知りました。日なたも楽しんで歩けるようにと、オシャレな傘を選んだのは正解でした。

 「おんばひがさ」と言う言葉があります。
 「乳母日傘」とも書きますが、乳母(おうば)にだっこやおんぶをされ、しかも日傘を差しかけてもらって育てられたという意味です。大事に育てられる、あるいは過保護という意味で使う人もいます。
 どちらの意味にせよ、傘の下にいる子どもは強い日差しから守られていることには違いありません。

 8月6日の式典で、秋葉市長は「日本政府は核の傘から離脱せよ」と述べました。その言葉を受け、菅首相は「核兵器廃絶の先頭に立つ」と応えました。
 式典後の記者会見で、首相は「米国の核の傘は必要である」と述べ、一部の平和団体から二枚舌と批判を浴びました。

 次回に続きます。

 

2010年8月17日火曜日

まちがった戦争

 「こんな間違った戦争は、早く終わってほしい。」

 これは昭和18年、ある少年航空兵が出撃の前日、日記に記した言葉です。彼は愛知一中の三年生の時に志願し、少年航空兵となったその年戦死しました。

 実話を基にしたテレビドラマの一場面です。愛知一中で海軍の飛行兵を募集したところ、三・四・五年生の全員が志願したという事件です。日記を残した少年は、実は志願したくなかったけれども、教員や上級生により無理やり志願させられてしまいます。無理強いした上級生の多くは、志願したにもかかわらず辞退したりして生き延びます。

 このドラマをはじめとして、今年は例年よりもたくさんのドラマやドキュメンタリーが放送されています。しかもそのほとんどはこのドラマのように、「間違った戦争だった」 という明確なメッセージを伝えています。この「戦争」とは、太平洋戦争または1931年の満州事変以降の15年戦争です。

 なぜ例年になく、「戦争」を否定する番組が多いのか。それは昨年の民主党内閣の誕生が大きく影響しています。
 日本国憲法に記された「言論の自由」が回復され、自民党の「言論統制」から解放された結果です。

 以前、NHKが従軍慰安婦の問題をドキュメンタリー番組にしようとしました。これを、当時自民党の中枢にいた安倍晋三氏、麻生太郎氏、中川昭一氏らがNHKの幹部に「放送するな」と圧力をかけ、放送中止に追い込んだという事件がありました。ただし、安倍氏らは否定しています。

 テレビも新聞も、「戦争」について、かなりはっきりと否定した論調で踏み込んでいます。これは大変好ましいことだと思います。
 85歳を超えた元兵士たちが、玉砕したアッツ島は大本営から全く見捨てられていたという話をしたり、中国で女性を輪姦したのち、その女性の連れていた赤ん坊を崖から投げ落としたら女性も身投げしたという話をしたり。戦後65年以上たって、ようやく語ることの出来た真実です。

 こういう真実を、突きつけられて「あの戦争は正しかった戦争だ」と言える人はいないのではないでしょうか。
 終戦直前には原子爆弾が2発も投下され、民間人にも多くの犠牲がでました。このような戦争が、正しい戦争だったと言えるはずはありません。

 まちがっていたことを、真実だと受け止めること。
 
 それこそが最も勇気がいる、そして最も大事なことではないかと思います。


 

2010年8月16日月曜日

野球部のOB会

 14日は高校の野球部のOB会でした。
 OB会というと、どこかのホテルでパーティーを開いて、2時間ぐらい飲んだり食べたりしながら、歓談するというパターンが多いです。しかし、このOB会は集まって野球をするだけです。
 
 10時から第1試合、OBチームと現役野球部チームの対戦です。特別ルールがあって、OBチームは年齢の順に全員が打席に立ちます。15人が出席していれば、打順は15番までということです。さすがに守備は15人が守るわけにはいかないので、9人で守ります。
  第2試合は、OBが18人集まったので紅白戦を行いました。
 OBといっても40歳以上が7人でそのうち50歳以上は2人、あとの11人は大学生でした。
 野球をやってこその野球部OBだと思っています。何歳になっても走ることができて、取りやすいゴロやフライはアウトにできるように。そして、いつまでもOB会に出場していきたいと思います。
 
 ちなみに今日の結果ですが、第1試合では、現役の投手からピッチャーライナーを放ちました。
 また第2試合ではセカンドを守り、ツーアウト三塁のピンチで痛烈な打球を胸にあてて前へ落とし、即座に一塁へ送球して刺しました。といっても送球がスリーバウンドぐらいの緩い球になり、ファーストが大股を開いて捕球してくれたので間一髪アウトになりました。
 このときファーストのパンツが裂けたそうで、いかに必死でプレーしているかを物語っています。

 2試合とも7回戦、合計3時間半を炎天下の中戦いました。
 

2010年8月6日金曜日

8月6日

 8月6日の平和祈念式典に参列してきました。
 市議会議員は主催者の一人という位置づけです。1999年以来、毎年出席しております。
 
 慰霊碑に向かって、左側の席に市長、議長そして市役所の幹部、遺族代表、こども代表、被爆者代表らが座ります。その後ろが市議会議員の席です。約半数の議員が出席していました。
 右側は来賓席です。内閣総理大臣、外務大臣、厚生労働大臣など政府要人。衆議院議長。各国国連大使など外国要人。そして長崎市長、広島県知事らが座ります。

 式は8時に始まり、8時45分にぴったり終わるのですが、私たちは遅くとも7時30分には着席しています。8時15分に1分間の黙祷を捧げるときに起立しますが、あとは座っています。
 私は12回目の参列になりますが、今年が一番暑かったように思いました。いつもは雲が時おり現れて日陰を作ってくれるのですが、それがほとんどありませんでした。昭和20年の8月6日の朝もこのような感じだったのかと思いました。
 
 主催者と来賓の挨拶も、暑さに負けず熱のこもった良い挨拶でした。

 秋葉忠利市長は平和宣言の中で、目の前に座っている菅直人首相に挑むように、「日本は核の傘から離脱せよ。」と呼びかけました。

 それを受けて、菅首相は民主党内閣の総理大臣として初めて挨拶に立ち、「核兵器廃絶のため世界中に呼びかける。」と述べました。
 また被爆者への補償についても具体的な対策について言及し、自民党の首相の短く素っ気ない挨拶とはかなり違って、今後への期待を感じさせました。

 初めて参列した湯崎英彦広島県知事も、広島大学の教授であった父親の研究成果に触れ、聞き取りをした被爆者の生の声を紹介しました。胸をうつ挨拶だったと思います。

 来賓の最後に挨拶に立ったのは、パン・ギムン国連事務総長です。パン事務総長は広島の被爆の状況を、みずからの体験である朝鮮戦争で受けた大きな悲しみに置き換えて話されました。
 そして大きなジェスチャーを交えながら、力強く核軍縮会議を主催し、核兵器廃絶を実現しようと呼びかけました。私は胸の震えを感じました。

 会場にはアメリカのルース大使をはじめ、イギリス、フランスの大使も初めて参列していました。彼らには、演壇に立った人々の発言がどのように響いたのでしょうか。

 秋葉市長は、来賓の方々の参列とそのメッセージに感激されたのでしょう。いつまでも慰霊碑の前の通路にたち、参列者の手を一人一人握っていました。
 私も握手しましたが、彼はいつもより右手に力を込めて握っていました。核廃絶への確かな手応えを感じたのかもしれません。

2010年8月5日木曜日

碧南

碧南市臨海公園

 暑い日が続きます。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 私はというと、この夏に最高気温を記録した岐阜県多治見市のお隣の県、愛知県の碧南市に行ってきました。名古屋は36℃くらいでしたが、広島では体験できない溶けそうな暑さでした。
 
 その名古屋から電車で1時間、碧南市に到着です。真っ青な南の空をイメージさせる、いかにも暑そうな地名です。写真は碧南市臨海公園の時計塔です。
時間は午後の1時30分。温度計を持参していませんでしたが、40℃はあったように感じました。

 太陽が頭の真上にあって、その近さを感じさせました。駅から公園まで、誰ともすれ違いませんでした。地元の人はさすがに出歩かないようです。

 さて、なぜ碧南に行ったのか。
 大学の野球部の後輩が西日本の大会に出場したので、応援に行ったのです。2試合とも熱戦でしたが、実際熱かった。行った日は1時30分から6時まで。翌日は11時30分から2時30分まで炎天下で座っていました。
 選手は試合の半分はベンチで休息できますが、スタンドはまったく日陰が無く、天日干しの状態でした。
 真の暑さを実感し、これも良い体験だったと思います。
 試合は2連勝で、準々決勝に進みました。