11月21日は、広島市議会常任委員会の開催日です。私が所属する消防上下水道委員会を含め、六つの委員会が開催されました。委員会の資料は、前もって配布されており、議題は「事務・事業の見直し検討状況」でした。
これは、いわゆる国の事業仕分けの広島市版です。松井市長の肝いりで、外部の有識者を入れず、市の内部のみで不必要な事業を止めていこうとするものです。とりあえず、私たち議員の意見を聞くことになり、委員会の所管ごとに議論することになりました。
下水道局が検討しているのは、汲み取り便所を水洗便所にする工事費を、利用者に無利子で貸し付ける制度を廃止するというものです。水洗化率が95%となったため、役割を終えたとして廃止するのだそうです。
残る5%の人たちが、水洗化した95%の人たちと比較して不当な扱いを受けることになるため、反対しました。
すると局長は、「不公平だ。でも廃止する。」と意味不明の発言をしました。意味のある議論はこれ以上できないと判断し、議論をやめました。
消防局は、40世帯の職員が居住している市営の住宅を廃止し、土地を民間に売却するそうです。移転する職員は民間住宅に住みますが、住居手当は毎月2万円支給するそうです。
40世帯が1年間で受け取る総額は960万円になります。一方、住宅の維持費は年間76万円です。職員課長の説明は、まるで「76万円は惜しいが960万円は惜しくない」と言っているようでした。全く理解に苦しむ検討です。真面目に検討したとは思えません。
耐久年数いっぱい利用して、建て替えの時期が来たら解体し、それから売却したらよいと考えて反対しました。
残る水道局は、検討状況が0件でした。私は資料を見て、「何件か検討したが、1件も俎上に載らなかったのか。それとも、最初から検討しなかったのか」と、委員会で質問しようとしていました。
しかし、水道局の職員は局長以下、誰一人として出席していませんでした。その理由は、水道局の検討状況が0件だったので出席を求めなかったとのことでした。
出席させないでよいと判断したのは、委員長か、議会事務局か、委員会の幹事局である下水道局か、あるいは水道局が自分の意思で欠席したのか。誰からも明快な回答はありませんでした。
結局、私が用意していた質問は出来ませんでした。「事務・事業の検討状況を、水道局に聞く」という質問は容易に想定されるので、事務局や下水道局は水道局に出席を要請するべきでしょう。水道局も自らすすんで出席し、検討状況が結果として0となった理由を説明するべきでした。
委員会終了後、水道局長、次長、財務課長、企画総務課長から、欠席に至った状況を聞きました。「議会が閉会中の委員会審査には、議題に関係が無い理事者は出席しなくてよいと申し合わせがあります。」と、財務課長が説明しました。
「なぜ0になったのか、その理由と経過について説明する必要があるのではないか」と尋ねると、局長が「それはそうです」と答えました。しかし、私に指摘されるまで出席しないといけないとは全く思っていなかったそうです。
私はその能天気ぶりにあきれ、水道局は委員会に出席することの重要性を全く理解していない、と猛省をうながしました。
危機管理の一翼を担う広島市水道局が、この程度の質問の想定ができず、平気で重要な委員会を欠席するとは。
もし災害などの危機が迫っても、何の想定も出来ずに能天気でやり過ごすのでは、と心配になりました。
12月も消防上下水道委員会は続きます。
引き続き発言し、眠れる三つの局を覚醒させます。
2011年11月22日火曜日
2011年11月20日日曜日
マダム・バタフライ
オペラ「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」は、1904年(明治37年)初演、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)の不朽の名作です。
主人公の蝶々さんは、長崎に住む15歳の女性です。来航中に長崎に上陸したアメリカ海軍の軍人・ピンカートンは、蝶々さんに一目惚れ。ついに蝶々さんとピンカートンは結婚してしまいます。
その後、ピンカートンは軍務のため帰国します。
彼を待ちわびる蝶々さんは、丘の上にある自宅から海を見つめて歌います。そのアリアが、有名な「ある晴れた日に」です。
しかし、ピンカートンは帰国後にアメリカ人女性と結婚。三年後、長崎に新妻と上陸し、蝶々さんとの間に生まれた男の子を渡せと迫ります。
絶望した蝶々さんは、「子どもを頼みます」と告げ、自刃して果てるのです。
この軍人の勝手さと蝶々さんのはかなさに、私は涙します。特に「ある晴れた日に」を歌う蝶々さんがしのびなく、感激は最高潮に達します。
広島のアステール・プラザで、島根県出身の歌手の方が蝶々さんを演じられましたが、楚楚とした美しい方で大変感激しました。
映画では歌は吹き替えでしたが、若き日の八千草薫が演じていました。とても可愛らしい蝶々さんでした。
11月19日のNHKのドラマで、「蝶々さん」を放映していました。オペラではなくお芝居ですが、「ある晴れた日に」の旋律が流れると、なんとも言えない思いが胸にこみ上げてきます。
主演の宮崎あおいは、可愛らしい中に強い意志を持った蝶々さんを演じています。佐賀藩の士族の出身で、父は佐賀の乱で江藤新平とともに討たれたことになっています。
第1話の終わりで、アメリカの軍艦が長崎を目指し航行中でした。第2話では、宮崎あおいが蝶々さんの悲劇をどのように演じるのでしょう。
楽しみではありますが、また泣いてしまうことは間違いありません。
最近、外交や通商において、アメリカの日本に対する横暴がまかり通ろうとしています。
オペラ「マダム・バタフライ」は、アメリカでも好演を果たしていることと思います。このオペラを鑑賞して、「アメリカ人はひどいことをした」という心境にはならないのでしょうか。
主人公の蝶々さんは、長崎に住む15歳の女性です。来航中に長崎に上陸したアメリカ海軍の軍人・ピンカートンは、蝶々さんに一目惚れ。ついに蝶々さんとピンカートンは結婚してしまいます。
その後、ピンカートンは軍務のため帰国します。
彼を待ちわびる蝶々さんは、丘の上にある自宅から海を見つめて歌います。そのアリアが、有名な「ある晴れた日に」です。
しかし、ピンカートンは帰国後にアメリカ人女性と結婚。三年後、長崎に新妻と上陸し、蝶々さんとの間に生まれた男の子を渡せと迫ります。
絶望した蝶々さんは、「子どもを頼みます」と告げ、自刃して果てるのです。
この軍人の勝手さと蝶々さんのはかなさに、私は涙します。特に「ある晴れた日に」を歌う蝶々さんがしのびなく、感激は最高潮に達します。
広島のアステール・プラザで、島根県出身の歌手の方が蝶々さんを演じられましたが、楚楚とした美しい方で大変感激しました。
映画では歌は吹き替えでしたが、若き日の八千草薫が演じていました。とても可愛らしい蝶々さんでした。
11月19日のNHKのドラマで、「蝶々さん」を放映していました。オペラではなくお芝居ですが、「ある晴れた日に」の旋律が流れると、なんとも言えない思いが胸にこみ上げてきます。
主演の宮崎あおいは、可愛らしい中に強い意志を持った蝶々さんを演じています。佐賀藩の士族の出身で、父は佐賀の乱で江藤新平とともに討たれたことになっています。
第1話の終わりで、アメリカの軍艦が長崎を目指し航行中でした。第2話では、宮崎あおいが蝶々さんの悲劇をどのように演じるのでしょう。
楽しみではありますが、また泣いてしまうことは間違いありません。
最近、外交や通商において、アメリカの日本に対する横暴がまかり通ろうとしています。
オペラ「マダム・バタフライ」は、アメリカでも好演を果たしていることと思います。このオペラを鑑賞して、「アメリカ人はひどいことをした」という心境にはならないのでしょうか。
2011年11月18日金曜日
隆の里
11月7日、元横綱・隆の里(鳴戸親方)が亡くなりました。享年59歳でした。
隆の里は筋骨隆々の力感あふれる相撲で、1983年名古屋場所から1984年初場所までの四場所のうち、三場所優勝しました。
特に新横綱として迎えた83年秋場所では、横綱・千代の富士と14戦全勝同士で激突。千代の富士をつり出しに破って、新横綱で全勝優勝の快挙を成し遂げました。
最盛期は誰もかなう力士がいませんでした。特に千代の富士は隆の里に歯が立たず、隆の里の独走かと思われました。
私が大学の4年生のときに、内科学の特別講義がありました。東北大学の後藤教授の講演で、主題は「糖尿病」でした。実は、後藤先生は当時幕内力士だった隆の里の主治医でした。
糖尿病の血糖コントロールのため隆の里を入院させたが、大男のためベッドをふたつ横に並べて、斜めに寝てもらったなど、興味深いエピソードを語っていただきました。
当初は内服薬でコントロールしようとしたそうですが、うまくいかずに低血糖発作を起こしていたそうです。土俵上で立ち上がった途端、相手がぶつかる前から隆の里が崩れ落ちる場面をよく見ましたが、それは低血糖による失神発作なのでした。
しかし、後藤先生の指導のもと、インスリン注射の治療に切り換え、徹底した食事コントロールをすると、血糖値が安定してきました。
血液中の糖分はインスリンの働きで筋肉中に蓄えられ、あのポパイのような肉体が出来上がったのです。
講義のころは、隆の里が三役から横綱をうかがう頃で、医学の力とは大したものだと感心しましたが、それ以上に隆の里本人の不撓不屈の精神があったと思います。
隆の里の全盛期は、私が大学の5、6年の頃で、相撲をゆっくり見ることが出来た時期です。医師を目指して試験勉強に取り掛かっていた頃、糖尿病を克服した隆の里の土俵に大きな声援を送ったものです。
個性的な力士が、またひとり去り、さびしさが残ります。
隆の里は筋骨隆々の力感あふれる相撲で、1983年名古屋場所から1984年初場所までの四場所のうち、三場所優勝しました。
特に新横綱として迎えた83年秋場所では、横綱・千代の富士と14戦全勝同士で激突。千代の富士をつり出しに破って、新横綱で全勝優勝の快挙を成し遂げました。
最盛期は誰もかなう力士がいませんでした。特に千代の富士は隆の里に歯が立たず、隆の里の独走かと思われました。
私が大学の4年生のときに、内科学の特別講義がありました。東北大学の後藤教授の講演で、主題は「糖尿病」でした。実は、後藤先生は当時幕内力士だった隆の里の主治医でした。
糖尿病の血糖コントロールのため隆の里を入院させたが、大男のためベッドをふたつ横に並べて、斜めに寝てもらったなど、興味深いエピソードを語っていただきました。
当初は内服薬でコントロールしようとしたそうですが、うまくいかずに低血糖発作を起こしていたそうです。土俵上で立ち上がった途端、相手がぶつかる前から隆の里が崩れ落ちる場面をよく見ましたが、それは低血糖による失神発作なのでした。
しかし、後藤先生の指導のもと、インスリン注射の治療に切り換え、徹底した食事コントロールをすると、血糖値が安定してきました。
血液中の糖分はインスリンの働きで筋肉中に蓄えられ、あのポパイのような肉体が出来上がったのです。
講義のころは、隆の里が三役から横綱をうかがう頃で、医学の力とは大したものだと感心しましたが、それ以上に隆の里本人の不撓不屈の精神があったと思います。
隆の里の全盛期は、私が大学の5、6年の頃で、相撲をゆっくり見ることが出来た時期です。医師を目指して試験勉強に取り掛かっていた頃、糖尿病を克服した隆の里の土俵に大きな声援を送ったものです。
個性的な力士が、またひとり去り、さびしさが残ります。
2011年10月27日木曜日
北杜夫さん死す
北杜夫(きたもりお)さんが、10月24日亡くなられました。享年84歳でした。
医師で作家の北さんは、慶応大病院で精神科医を務める一方、作家として文壇デビューしました。
代表作「楡家の人びと」は、青山脳病院の設立者である祖父・斎藤紀一、父で日本を代表する歌人で精神科医の斎藤茂吉など、北さんの家族をモデルとした本格小説でした。
私が子どもの頃、NHKのテレビドラマで、この「楡家の人びと」をやっていました。
このドラマには蔵王山という四股名の力士が登場しますが、この力士は実在します。昭和初期に活躍した巨人力士・出羽が嶽文次郎(でわがたけ ぶんじろう)です。
山形県出身の茂吉は、同郷である文次郎少年を引き取って、旧知の出羽の海親方(元横綱・常陸山)に弟子入りさせます。
「楡家の人びと」では、やや落ち目の出羽が嶽が、たびたび斎藤家を訪れるのですが、茂吉はその都度暖かく迎えてやるのでした。
北さんには、こんなエピソードがあります。
私が中学校の頃聴いていた「オールナイト・ニッポン」に、こんな投稿がありました。
リスナーの大学生は北杜夫の小説を読み、心から傾倒してしまいました。小説家を目指し、まずは古本屋にバイトで勤め始めました。
すると、ある日尊敬する北杜夫先生が、バイト先の古本屋を訪れました。
感激した大学生は、胸をときめかせながらどういう言葉を掛けようかチャンスをうかがっていました。その時、北先生が言葉を掛けてきました。
「お兄さん、そこのダイブツジロウさんの全集を取ってください。」
大佛次郎氏は、「天皇の世紀」「パリ燃ゆ」などを著した文豪です。
ダイブツジロウではなく「オサラギジロウ」と読みます。
なぜ北さんが、ダイブツジロウと読んだのか。本当に知らなかったのか、北さん一流のギャグだったのかは不明です。
ともあれ、この言葉に大学生は感激もときめきも一瞬に冷めてしまったそうです。
そんな北さんでしたが、1998年に父・茂吉の評伝4部作で、大佛次郎賞を受賞することとなるのでした。
医師で作家の北さんは、慶応大病院で精神科医を務める一方、作家として文壇デビューしました。
代表作「楡家の人びと」は、青山脳病院の設立者である祖父・斎藤紀一、父で日本を代表する歌人で精神科医の斎藤茂吉など、北さんの家族をモデルとした本格小説でした。
私が子どもの頃、NHKのテレビドラマで、この「楡家の人びと」をやっていました。
このドラマには蔵王山という四股名の力士が登場しますが、この力士は実在します。昭和初期に活躍した巨人力士・出羽が嶽文次郎(でわがたけ ぶんじろう)です。
山形県出身の茂吉は、同郷である文次郎少年を引き取って、旧知の出羽の海親方(元横綱・常陸山)に弟子入りさせます。
「楡家の人びと」では、やや落ち目の出羽が嶽が、たびたび斎藤家を訪れるのですが、茂吉はその都度暖かく迎えてやるのでした。
北さんには、こんなエピソードがあります。
私が中学校の頃聴いていた「オールナイト・ニッポン」に、こんな投稿がありました。
リスナーの大学生は北杜夫の小説を読み、心から傾倒してしまいました。小説家を目指し、まずは古本屋にバイトで勤め始めました。
すると、ある日尊敬する北杜夫先生が、バイト先の古本屋を訪れました。
感激した大学生は、胸をときめかせながらどういう言葉を掛けようかチャンスをうかがっていました。その時、北先生が言葉を掛けてきました。
「お兄さん、そこのダイブツジロウさんの全集を取ってください。」
大佛次郎氏は、「天皇の世紀」「パリ燃ゆ」などを著した文豪です。
ダイブツジロウではなく「オサラギジロウ」と読みます。
なぜ北さんが、ダイブツジロウと読んだのか。本当に知らなかったのか、北さん一流のギャグだったのかは不明です。
ともあれ、この言葉に大学生は感激もときめきも一瞬に冷めてしまったそうです。
そんな北さんでしたが、1998年に父・茂吉の評伝4部作で、大佛次郎賞を受賞することとなるのでした。
2011年10月25日火曜日
元寇船の発見
長崎県の鷹島沖の海底から、元寇の時に襲来した元軍の軍船が発見されました。船底を上に沈んでおり、全長は約20メートル、総排水量は200トンから300トンではないかと言われています。
元寇、すなわち蒙古襲来は、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたって行われました。鷹島沖の軍船は、弘安の役の際に襲来したものだと考えられています。
当時の蒙古は、中国を支配した元、ロシアを支配したキプチャク汗国、イランを支配したイル汗国、中央アジアを支配したオゴタイ汗国、チャガタイ汗国と、世界最大の版図を誇っていました。
中でも、元のフビライ・ハーンは最強の軍団を擁し、朝鮮の高麗、中国の金、南宋といった国々を支配下に置いていました。日本の運命も風前の灯火でした。
文永の役では、鎌倉幕府はかろうじて元軍を退けました。しかし4年後に元軍は高麗の兵船4万人、南宋の兵船10万人を擁し、再び九州に迫りました。まさに日本滅亡の危機です。
この時、鎌倉幕府は執権・北条時宗以下一丸となり、西国の御家人を総動員して元軍にあたらせました。京都の朝廷も、亀山上皇が福岡の筥崎宮に「敵国降伏」の額を奉納。全国の寺社では、蒙古討伐の祈祷がおこなわれました。民衆も大いに動揺し、日蓮宗などの新しい宗派の台頭を呼びました。
まさに未曾有の国難です。私は、元寇は日本史上最大の危機であったと思います。
明治時代の唱歌「元寇」の歌詞に、「国難ここに見る、弘安四年夏の頃」と歌われています。私たちの親たちは、みんなこの歌を歌っていました。
さいわいにも暴風雨が来襲し、十四万の大軍は一夜にして海の藻屑と消えました。これを後世の日本人は「神風」と呼び、太平洋戦争の敗戦が明らかな末期においても、「いずれ神風が吹く」との妄想を戦争指導者に思い込ませ、政策を誤らせる結果となりました。
野田首相はじめ、多くの与野党の政治家は、現在の日本の状況を、「未曾有の国難」と表現しておりますが、どこまで真剣なのかと疑問に思います。
もしそうであるならば、民主党はもっと党内一致に努めなければなりません。野党も与党に協力せねばなりません。野田首相はいのちをすり減らして、奮闘していることでしょう。
しかし、国難といいながらも、本当の意味での真剣さはうかがえないと思います。
執権・北条時宗は、弘安の役の3年後に33歳の若さで世を去りました。肉体的、精神的ともに、巨大な重圧が時宗を襲ったものと思われます。まさに元寇が国難であった証拠でありましょう。
政府や与野党に、さらなる真剣さを求めたいと思います。
元寇、すなわち蒙古襲来は、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたって行われました。鷹島沖の軍船は、弘安の役の際に襲来したものだと考えられています。
当時の蒙古は、中国を支配した元、ロシアを支配したキプチャク汗国、イランを支配したイル汗国、中央アジアを支配したオゴタイ汗国、チャガタイ汗国と、世界最大の版図を誇っていました。
中でも、元のフビライ・ハーンは最強の軍団を擁し、朝鮮の高麗、中国の金、南宋といった国々を支配下に置いていました。日本の運命も風前の灯火でした。
文永の役では、鎌倉幕府はかろうじて元軍を退けました。しかし4年後に元軍は高麗の兵船4万人、南宋の兵船10万人を擁し、再び九州に迫りました。まさに日本滅亡の危機です。
この時、鎌倉幕府は執権・北条時宗以下一丸となり、西国の御家人を総動員して元軍にあたらせました。京都の朝廷も、亀山上皇が福岡の筥崎宮に「敵国降伏」の額を奉納。全国の寺社では、蒙古討伐の祈祷がおこなわれました。民衆も大いに動揺し、日蓮宗などの新しい宗派の台頭を呼びました。
まさに未曾有の国難です。私は、元寇は日本史上最大の危機であったと思います。
明治時代の唱歌「元寇」の歌詞に、「国難ここに見る、弘安四年夏の頃」と歌われています。私たちの親たちは、みんなこの歌を歌っていました。
さいわいにも暴風雨が来襲し、十四万の大軍は一夜にして海の藻屑と消えました。これを後世の日本人は「神風」と呼び、太平洋戦争の敗戦が明らかな末期においても、「いずれ神風が吹く」との妄想を戦争指導者に思い込ませ、政策を誤らせる結果となりました。
野田首相はじめ、多くの与野党の政治家は、現在の日本の状況を、「未曾有の国難」と表現しておりますが、どこまで真剣なのかと疑問に思います。
もしそうであるならば、民主党はもっと党内一致に努めなければなりません。野党も与党に協力せねばなりません。野田首相はいのちをすり減らして、奮闘していることでしょう。
しかし、国難といいながらも、本当の意味での真剣さはうかがえないと思います。
執権・北条時宗は、弘安の役の3年後に33歳の若さで世を去りました。肉体的、精神的ともに、巨大な重圧が時宗を襲ったものと思われます。まさに元寇が国難であった証拠でありましょう。
政府や与野党に、さらなる真剣さを求めたいと思います。
2011年10月15日土曜日
内村選手三連覇
10月14日に開催された世界体操男子個人総合で、内村航平選手は金メダルを獲得し、体操史上初の三連覇を達成しました。素晴らしいことです。
体操競技は一瞬のうちに勝負が決するスポーツで、自分自身とのすさまじい葛藤があるものと想像します。それゆえ、各選手の試技をかたずを呑んで見守ります。
その日、私はテレビで見ていましたが、内村選手の特に跳馬の試技は素晴らしいのひとことに尽きました。着地の瞬間、思わずテレビの内村選手に向かって拍手を送っていました。
内村選手は、以前の体操選手のイメージの「固い、真面目そう、悲壮感漂う」というイメージを打ち破りました。
髪が長くて、チョコレートが好きで、喜怒哀楽もあまり表に出しません。それでいて、大技を決めて世界の頂点に立っています。世界のスーパースターとは思えない、いまどきのお兄さんという感じがします。
何を考えているのか良く分からないところが、面白くて好きでした。今大会では、勝ちたいという気持ちが全面に出て、頼もしく感じられました。これからまだまだ強くなると確信しました。
ところで、私の友人に内村選手と似た雰囲気の若者がいます。彼も、一見何を考えているのか分からないと言われています。
地道に働いていますが、そのうち大化けして、皆が見上げる内村選手のようなビッグな人物になるのではと期待しています。
体操競技は一瞬のうちに勝負が決するスポーツで、自分自身とのすさまじい葛藤があるものと想像します。それゆえ、各選手の試技をかたずを呑んで見守ります。
その日、私はテレビで見ていましたが、内村選手の特に跳馬の試技は素晴らしいのひとことに尽きました。着地の瞬間、思わずテレビの内村選手に向かって拍手を送っていました。
内村選手は、以前の体操選手のイメージの「固い、真面目そう、悲壮感漂う」というイメージを打ち破りました。
髪が長くて、チョコレートが好きで、喜怒哀楽もあまり表に出しません。それでいて、大技を決めて世界の頂点に立っています。世界のスーパースターとは思えない、いまどきのお兄さんという感じがします。
何を考えているのか良く分からないところが、面白くて好きでした。今大会では、勝ちたいという気持ちが全面に出て、頼もしく感じられました。これからまだまだ強くなると確信しました。
ところで、私の友人に内村選手と似た雰囲気の若者がいます。彼も、一見何を考えているのか分からないと言われています。
地道に働いていますが、そのうち大化けして、皆が見上げる内村選手のようなビッグな人物になるのではと期待しています。
2011年10月8日土曜日
楽しいフットサル
前回のブログでは、緊迫感の無い委員会の様子をお伝えしました。
その日は20時から元宇品でフットサルをしました。
顔見知りのメンバーもいますが、久しぶりの参加だったので大半は初対面です。何となく不安もあります。
とりあえず5人で1チームを組みました。若手の男性3人と女性1人のグループに私が加わって、5人のチームです。ほとんど初対面なので、会話も無くよそよそしい感じでした。
ところがどうでしょう。ゲームが始まると先ほどまでのよそよそしさは、吹き飛んでしまいます。
若手3人が走りまくるので、私も負けずに走りました。やや下がり気味にポジションをとるので、攻撃と守備を行ったり来たり繰り返します。1試合の7分間過ぎたところで、すっかり打ち解けました。昼間の委員会でのもやもやは、どこかへ行ってしまいました。
若手の活躍で優勢のため、チャンスと見れば攻撃に参加します。左側から混戦の中、右から来たこぼれ球を押し込みました。ボールがころころと緩く転がります。相手チームの選手はは戻れないので、「やった、ゴールだ!」と確信しました。
ところがボールがゴールラインを越えようとしたところで、何と味方がとどめとばかりに蹴りこんでしまいました。
「せっかくのゴールじゃったのに。」と言うと、「へへへっ、ナイスアシストですね。」と屈託無く笑っていました。若者は無邪気です。
対戦したチームの人もあまり愛想は無いですが、帰るときにすれ違うと、「お疲れ様でした」と大きな声で挨拶してくれます。こういう瞬間も嬉しいです。
走り続けることができるかぎり、フットサルを続けます。
映画「七人の侍」の主人公、勘兵衛のこんな台詞があります。
「いくさでは、とにかく走れ。走れなくなったら終わりだ。」
まったくその通りで、フットサルは走れなくなったら終わりだと思います。
その日は20時から元宇品でフットサルをしました。
顔見知りのメンバーもいますが、久しぶりの参加だったので大半は初対面です。何となく不安もあります。
とりあえず5人で1チームを組みました。若手の男性3人と女性1人のグループに私が加わって、5人のチームです。ほとんど初対面なので、会話も無くよそよそしい感じでした。
ところがどうでしょう。ゲームが始まると先ほどまでのよそよそしさは、吹き飛んでしまいます。
若手3人が走りまくるので、私も負けずに走りました。やや下がり気味にポジションをとるので、攻撃と守備を行ったり来たり繰り返します。1試合の7分間過ぎたところで、すっかり打ち解けました。昼間の委員会でのもやもやは、どこかへ行ってしまいました。
若手の活躍で優勢のため、チャンスと見れば攻撃に参加します。左側から混戦の中、右から来たこぼれ球を押し込みました。ボールがころころと緩く転がります。相手チームの選手はは戻れないので、「やった、ゴールだ!」と確信しました。
ところがボールがゴールラインを越えようとしたところで、何と味方がとどめとばかりに蹴りこんでしまいました。
「せっかくのゴールじゃったのに。」と言うと、「へへへっ、ナイスアシストですね。」と屈託無く笑っていました。若者は無邪気です。
対戦したチームの人もあまり愛想は無いですが、帰るときにすれ違うと、「お疲れ様でした」と大きな声で挨拶してくれます。こういう瞬間も嬉しいです。
走り続けることができるかぎり、フットサルを続けます。
映画「七人の侍」の主人公、勘兵衛のこんな台詞があります。
「いくさでは、とにかく走れ。走れなくなったら終わりだ。」
まったくその通りで、フットサルは走れなくなったら終わりだと思います。
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