新年あけましておめでとうございます。今年も「坂ブログ」をよろしくお願いします。
新年になって、私のこころをとらえた言葉があります。
「人間に、つまり私自身に絶望しないために」
フランス人で精神科医・革命家である、フランツ・ファノン(1925-1961)の言葉です。
ファノンは、フランス領西インド諸島のマルティニークの出身です。父は黒人奴隷の子孫、母は混血の私生児です。
第二次大戦では、ドゴール将軍の指揮する「自由フランス軍」に参加し、軍功章を受ける活躍を収めています。
戦後はフランス本土に渡り、精神医学、文学、演劇、哲学などを学びました。1951年に精神科医の資格を得て、本土で研修を終えたのち、1953年にフランス領アルジェリアに渡り、ブリダ=ジョアンビル精神病院で医療主任となりました。
1954年、フランス当局に抑圧されていたアラブ人やベルベル人は、1954年にアルジェリア民族解放戦線(FLN)を組織し、11月1日一斉蜂起しました。
これに対し、フランスのピエール・マンデス=フランス内閣は、蜂起の全面鎮圧にあたりました。
この戦争がアルジェリア戦争です。1962年の独立までの8年間に、 FLN側141,000人、フランス国軍28,500人、フランス側について戦ったアルジェリア人(アルキ)は50,000人から90,000人がそれぞれ戦死しました。
ファノンはこの殺戮、とくにフランス国軍のアルジェリア人に対する殺戮に対し、精神病院の職を辞して民族解放戦線に参加することを決意します。
その時書いた辞表の締めくくりの言葉が冒頭の
「人間に、すなわち私自身に絶望しないために」
であったのです。
悲惨な殺戮や、それを見て心を病んでいくアルジェリア人を見て、ファノンは人間に対する絶望を感じていたのでしょう。無力な自分自身にも絶望を感じていたかもしれません。
葛藤の末にファノンが行き着いた答えは、民族解放戦線に従軍することだったのです。
この絶望的状態を見過ごすのではなく、希望に変えるため。ファノンは医師の職をなげうち、革命運動に身を投じました。
この転換こそ 「私自身に絶望しないため」 だったのです。
私も医師として15年間働きました。その中でどうしても医療では救えない、弱者と言われる人たちがいました。子ども、障害者、お年寄り、女性といった人々です。
この人たちを絶望の淵から救うために、私は16年前、医師の職をなげうって政治家に転身しました。
まさに、
「人間に、すなわち私自身に絶望しないために」
でした。
2013年の広島市政に対する私の姿勢は、16年前の原点に立ち返ることです。
今年もどうぞよろしくお願いします。
2012年12月6日木曜日
いよいよ質問です
いよいよ12月の10日、今年最後の一般質問に立ちます。30分質問して答弁が30分です。
松井市長は、私の質問だと4,5分の答弁でしょうか。そっけないものになりそうです。また、市長がどの問いに答えるのかわかりません。
質問の内容を紹介します。
1.総合博物館について
これは、広島市の通史すなわち歴史と、自然史の博物館が広島市に無いことについて、質問します。
博物館とは、研究して発表したり論文を書いたり、成果を展示して発表したりする学問の場です。
歴史と自然史を総合した博物館を総合博物館といい、ほとんどの県庁所在地にはあります。
これが広島市に無いのは、文化的に大いなる損失です。博物館を作ってはどうかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
2.平和記念資料館について
これは、以前のブログに掲載したように、資料館が資料の原文を解説文において、意図的に変えたという問題です。原爆投下の対象が、原文ではJapaneseだったのが、資料館の解説ではJapanに変えられていました。
学問の府である平和資料館が、客観的事実に基づかず館の独自の判断で、原文を変えて解説文に載せるのは問題ではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
3.市民の生命の安全について
この中では、①市民の自殺対策、②他殺による死亡者の減少を図ること、③交通事故死亡者の減少を図ることです。
①市内の自殺者数は、2年間で252人から202人に減少しました。今回はいじめから自殺にいたった大津市のようなことを起こさせないよう、健康福祉局と教育委員会で連携せよという質問です。
②市内での他殺者数は減少せず、横ばいです。ゼロにせよとの質問です。
③交通事故の死亡者数も減りません。歩行者、自転車、2輪車、乗用車ごとの細かい対策が必要ではないかという質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長、尾形完治教育長、佐伯克彦市民局長、高井巌道路交通局長です。
4.シンドラーエレベーター社のエレベーターについて
これもブログに書いておりますように、シンドラーエレベーター社のエレベーターが6年間で二人の生命を奪うという、危険極まりないエレベーターだということが判明しました。しかも広島市の西区役所と南区役所に同型の機種が動いています。早く買い換えるようにという質問です。
答弁は藤本誠都市整備局指導担当局長です。
5.児童相談所の充実について
東区光町にある児童相談所が手狭となり、一時保護所についても定員を超えて収容することが度重なっています。今こそ立て替えて、さらに高い機能をもつ児童相談所が、さまざまな児童虐待に対応すべきではないかとの質問です。DVとの関連についても質問します。
答弁は藤田典子子ども未来局長、佐伯克彦市民課長です。
6.高速道路5号線について
高速5号線のうち、東区中山から二葉の里に至る二葉山トンネルは、掘ってみなければ工事費が決定しないというしろものです。さらに、トンネル上部の団地には、多くの家が密集し地盤沈下の影響が考えられます。貧しい広島市の財政から、このトンネルにいくらつぎ込むのかという質問です。
答弁は高井巌道路交通局長、岡村清治財政局長です。
7.福祉行政について
これは、健康福祉局自立支援課の職員4名が、しょうがい者へ介護サービスを支給している 事業所を訪れ、しょうがい者の状況をまったく把握することなく、一方的に「過誤請求であるから減額して請求せよ」と実地指導して、事業所や保護者に大いなる不安と絶望を与えました。この4人は、多岐にわたるしょうがい者の実態をまったく理解していませんでした。福祉行政はこれで良いのか。という質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長です。
8.8月6日の式典の暑さ対策について
今年の8月6日の式典で、意識がもうろうとなった方がありました。きめ細かい熱中症対策を採るべきではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
前向きな答弁をする局長と、しょぼい答弁しかしない局長がいます。自分の守備範囲なのに答弁に立たない逃げ腰の局長もいます。
12月10日の午後2時より一時間です。どうぞ傍聴にお越しください。
松井市長は、私の質問だと4,5分の答弁でしょうか。そっけないものになりそうです。また、市長がどの問いに答えるのかわかりません。
質問の内容を紹介します。
1.総合博物館について
これは、広島市の通史すなわち歴史と、自然史の博物館が広島市に無いことについて、質問します。
博物館とは、研究して発表したり論文を書いたり、成果を展示して発表したりする学問の場です。
歴史と自然史を総合した博物館を総合博物館といい、ほとんどの県庁所在地にはあります。
これが広島市に無いのは、文化的に大いなる損失です。博物館を作ってはどうかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
2.平和記念資料館について
これは、以前のブログに掲載したように、資料館が資料の原文を解説文において、意図的に変えたという問題です。原爆投下の対象が、原文ではJapaneseだったのが、資料館の解説ではJapanに変えられていました。
学問の府である平和資料館が、客観的事実に基づかず館の独自の判断で、原文を変えて解説文に載せるのは問題ではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
3.市民の生命の安全について
この中では、①市民の自殺対策、②他殺による死亡者の減少を図ること、③交通事故死亡者の減少を図ることです。
①市内の自殺者数は、2年間で252人から202人に減少しました。今回はいじめから自殺にいたった大津市のようなことを起こさせないよう、健康福祉局と教育委員会で連携せよという質問です。
②市内での他殺者数は減少せず、横ばいです。ゼロにせよとの質問です。
③交通事故の死亡者数も減りません。歩行者、自転車、2輪車、乗用車ごとの細かい対策が必要ではないかという質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長、尾形完治教育長、佐伯克彦市民局長、高井巌道路交通局長です。
4.シンドラーエレベーター社のエレベーターについて
これもブログに書いておりますように、シンドラーエレベーター社のエレベーターが6年間で二人の生命を奪うという、危険極まりないエレベーターだということが判明しました。しかも広島市の西区役所と南区役所に同型の機種が動いています。早く買い換えるようにという質問です。
答弁は藤本誠都市整備局指導担当局長です。
5.児童相談所の充実について
東区光町にある児童相談所が手狭となり、一時保護所についても定員を超えて収容することが度重なっています。今こそ立て替えて、さらに高い機能をもつ児童相談所が、さまざまな児童虐待に対応すべきではないかとの質問です。DVとの関連についても質問します。
答弁は藤田典子子ども未来局長、佐伯克彦市民課長です。
6.高速道路5号線について
高速5号線のうち、東区中山から二葉の里に至る二葉山トンネルは、掘ってみなければ工事費が決定しないというしろものです。さらに、トンネル上部の団地には、多くの家が密集し地盤沈下の影響が考えられます。貧しい広島市の財政から、このトンネルにいくらつぎ込むのかという質問です。
答弁は高井巌道路交通局長、岡村清治財政局長です。
7.福祉行政について
これは、健康福祉局自立支援課の職員4名が、しょうがい者へ介護サービスを支給している 事業所を訪れ、しょうがい者の状況をまったく把握することなく、一方的に「過誤請求であるから減額して請求せよ」と実地指導して、事業所や保護者に大いなる不安と絶望を与えました。この4人は、多岐にわたるしょうがい者の実態をまったく理解していませんでした。福祉行政はこれで良いのか。という質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長です。
8.8月6日の式典の暑さ対策について
今年の8月6日の式典で、意識がもうろうとなった方がありました。きめ細かい熱中症対策を採るべきではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
前向きな答弁をする局長と、しょぼい答弁しかしない局長がいます。自分の守備範囲なのに答弁に立たない逃げ腰の局長もいます。
12月10日の午後2時より一時間です。どうぞ傍聴にお越しください。
2012年11月25日日曜日
サンフレッチェ広島 初優勝
サンフレッチェ広島が、J1で初優勝を飾りました。リーグ20年目にして日本一です。優勝おめでとうございます。
勝つことは、素晴らしいと感じました。
当日は、朝早くからビッグアーチに出かけました。開門の30分前には到着したのですが、サブグラウンドまで列ができていました。さらに階段の上に100米ほどの列ができ、その列も行き止まりでUターンしており、そこに並びました。
開門の12時から列が動き始めましたが、なかなか進みません。席に着けたのは13時半でした。
試合開始は14時34分なので、カツ弁当を食べて待っていましたが、降って来たのは雨。熱気も冷めるような、つめたい雨でした。
試合が始まり、立ち上がりに固さの見えた広島ですが、高萩が思い切ったシュートを決め、ここからは広島のペース。
清水のセンタリングを石川が頭で落としたところを、青山が落ち着いて決めて2対0。
さらに清水が左からドリブルで切り込んだところ、セレッソ大阪の選手が倒し、PKとなりました。佐藤寿人がこれを決め、3対0でほぼ勝負ありでした。
広島はセレッソを4対1で破りました。その瞬間控え選手がグランドに殺到しました。2位のベガルタ仙台はアルビレックス新潟に0対1で敗れたので、サンフレッチェが優勝したのです。
後からテレビで見ますと、佐藤寿人選手がグランドに泣き崩れていました。つらかったことが思い出されたのだそうです。
私は佐藤選手が好きです。テレビで話を聞いたり、直接会って話をしたりしましたが、こんなまっすぐなスポーツマンらしい選手は他にいません。
彼が引っ張り、後輩の選手たちがまとまって、優勝することができたのだとと思います。
彼から学ぶ点はたくさんあります。まさに広島を代表するサッカー選手です。
勝つことは、素晴らしいと感じました。
当日は、朝早くからビッグアーチに出かけました。開門の30分前には到着したのですが、サブグラウンドまで列ができていました。さらに階段の上に100米ほどの列ができ、その列も行き止まりでUターンしており、そこに並びました。
開門の12時から列が動き始めましたが、なかなか進みません。席に着けたのは13時半でした。
試合開始は14時34分なので、カツ弁当を食べて待っていましたが、降って来たのは雨。熱気も冷めるような、つめたい雨でした。
試合が始まり、立ち上がりに固さの見えた広島ですが、高萩が思い切ったシュートを決め、ここからは広島のペース。
清水のセンタリングを石川が頭で落としたところを、青山が落ち着いて決めて2対0。
さらに清水が左からドリブルで切り込んだところ、セレッソ大阪の選手が倒し、PKとなりました。佐藤寿人がこれを決め、3対0でほぼ勝負ありでした。
広島はセレッソを4対1で破りました。その瞬間控え選手がグランドに殺到しました。2位のベガルタ仙台はアルビレックス新潟に0対1で敗れたので、サンフレッチェが優勝したのです。
後からテレビで見ますと、佐藤寿人選手がグランドに泣き崩れていました。つらかったことが思い出されたのだそうです。
私は佐藤選手が好きです。テレビで話を聞いたり、直接会って話をしたりしましたが、こんなまっすぐなスポーツマンらしい選手は他にいません。
彼が引っ張り、後輩の選手たちがまとまって、優勝することができたのだとと思います。
彼から学ぶ点はたくさんあります。まさに広島を代表するサッカー選手です。
2012年11月20日火曜日
2012年11月6日火曜日
Japanese は日本か日本人か(下)
前回の続きです。
「広島平和資料館の展示の誤りを訂正することについて」という陳情書は、なぜ日本に原爆が投下されたのか考える良い機会ととらえ、平和資料館の館長、副館長、学芸員の三名から説明を聞きました。
まず、「Japanese」 を、日本人とせず日本としたのかという問いには、館長が「戦争をしているのは、国家と国家だから、日本で良い」との回答でした。
では原文が「Japan」 とせず「Japanese」 とした理由は何かと聞くと、三人とも「使用したアメリカ首脳は、Japan も Japaneseも 同じ日本という意味で使っているのです。区別は無いのです。」と簡単に答えました。
納得はいかないながら、そういう単純な話かと思い、別の質問をしました。
「1943年5月にトラック島に集結した日本艦隊とは、どういった規模か。まだ戦艦大和、戦艦武蔵も健在のはず。ここに原爆を落せば日本艦隊は壊滅すると、軍事政策委員会の面々は考えていたのであろう。艦隊の規模を教えてほしい。」
しかしだれも口を開く者がいません。なにも知らないようでした。
「あなたがたの資料館の展示について、来館者から質問があってもだれも何も答えられないのですか。それでよく資料館の館長だとか、学芸員だとか言えますね。」
と、言いました。
誰も何も言い返しませんでした。
彼らが次に訪れた際、
戦艦は大和、武蔵はじめ8隻。航空母艦は、翔鶴、瑞鶴はじめ7隻。巡洋艦は、利根、筑摩はじめ17隻がトラック島に集結していたと教えてくれました。
詳しく調べていました。 しかし 「トラック島に集結した日本艦隊・・・」の解説文を掲示するときに、調べておくべきでした。
私は、陳情者が唱えているように、日本に原爆を落した理由が人種にあるとは考えていません。
しかし、アメリカ国民やアメリカ軍は、1941年の12月8日の真珠湾攻撃を忘れてはいないでしょう。
1943年の5月の段階で、太平洋は日本の連合艦隊に席巻されていたので、アメリカの敵愾心は旺盛の時期でした。
一方、第2次大戦が勃発した1939年9月、ドイツと戦っていたのは、フランス、イギリス、ポーランドでした。ついで1941年6月に、ドイツはソ連に攻め込みました。
一方アメリカにはドイツ系の移民も多く暮らしており、欧州の大戦への不介入を1939年の9月に宣言していました。参戦を躊躇していたのです。
私が 「真珠湾攻撃の時に、アメリカとドイツは開戦していたのか。」
と質問すると、館長は
「たぶん戦争していたと思います。」
と答えました。
私は、日独伊三国同盟のため、真珠湾攻撃のあとにドイツ、イタリアとアメリカが開戦したのではないかと思っていました。
調べてみると、1941年12月11日にドイツ、イタリア両国がアメリカに宣戦布告しています。日本が真珠湾を攻撃したことによって、アメリカはドイツと戦争をするはめになったのです。館長はこの歴史的事実について、正確な知識を持っていませんでした。
当時のアメリカ政府首脳にとっては、
「にっくきジャップ(Jap すなわち日本人)め。真珠湾のうらみを果たすまで戦うぞ。」
という心境にあったと思われます。
その心境ゆえ、公式文書にも 「Japanese」 を用いたのではないでしょうか。
それが「Japan」では、心境が伝わらないように思います。
館長のように、真珠湾攻撃のときに米独は戦火を交えていると思っている人には、この敵愾心や、うらみは深し真珠湾などというアメリカ人の心境は分からないでしょう。
もっと勉強していただかないと、解説文に説得力が無くなってしまいます。 「世界の」広島平和記念資料館では無くなって、「広島市だけ」の平和記念資料館になってしまうでしょう。
2012年11月5日月曜日
Japaneseは、日本か日本人か(上)
平成24年8月15日、広島市議会事務局は1通の陳情書を受け取りました。陳情者は茨城県在住の男性です。陳情の要件は、「広島平和記念資料館の展示の誤りを訂正することについて」 ということでした。
誤りとは次の2点の文書についてです。
1.1943年5月5日のアメリカ「軍事政策委員会政策会議」の議事録
2.1944年9月18日に行われた、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相がニューヨークのハイドパークで行った極秘会談の合意文書 「チューブ・アロイズ」 です。
この二つの文書が、資料館にその和訳とともに展示されています。
まず「軍事政策委員会政策会議」の議事録の一部とその和訳とを紹介します。
1.The point of use of the first bomb was discussed and the general
view appeared to be that its best point of use would be on a Japanese fleet
concentration in the Harbor of Trak.
The Japanese were selected as they would not be so apt to secure knowledge from it
as would the Germans.
訳(最初の爆弾の投下地点について議論され、トラック諸島の港に集結した日本艦隊が最も望ましいだろうという意見が大半を占めた。
日本人が選ばれたのは、爆弾から知識を得る可能性が、ドイツ人と比べて少ないだろうと見られたためだ。)
この「軍事政策委員会政策会議」の議事録について、平和記念資料館は次のような解説文を紹介しています。
「この委員会は、軍人と科学者で構成し、原爆製造計画全体を管理していました。ドイツが降伏する約2年前に、原爆の最初の投下目標に選ばれていたのは、ドイツではなく、日本でした。」
解説文の英訳です。(冒頭部分省略・・・・About two years before Germany surrendered, the committee selected not Germany but Japan for the first atomic bombing. )
この1.以下の文章をお読みいただくと、「Japanese」が訳文では「日本人」なのに、解説文では「日本」になっていることがわかります。陳情者は、これを改ざんだと指摘しています。
次に2の米英首脳の合意文書を読んでみます。まず原文の抜粋です。
2.・・・when a "bomb" is finally available , it might perhaps, after mature consideration, be used
against the Japanese, ・・・・)
訳(「爆弾」が最終的に使用可能になった時には、慎重な検討の末、ことによると、日本人に対して使用するかもしれない。)
一方、平和記念資料館の解説文です。
「アメリカとイギリスの首脳は、原爆を日本に対して使用するかもしれないと合意しました。」
解説文の英訳です。(・・・・ the U.S. and British leaders agreed that the atomic bomb
might be used against Japan. )
訳文の「日本人」が、「日本」に変わっています。
陳情者は来館し、この改ざんについての説明と展示の変更を求めました。しかし館長、副館長、学芸員はこの要求を拒否したので、市議会への陳情となりました。
つづきます。
誤りとは次の2点の文書についてです。
1.1943年5月5日のアメリカ「軍事政策委員会政策会議」の議事録
2.1944年9月18日に行われた、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相がニューヨークのハイドパークで行った極秘会談の合意文書 「チューブ・アロイズ」 です。
この二つの文書が、資料館にその和訳とともに展示されています。
まず「軍事政策委員会政策会議」の議事録の一部とその和訳とを紹介します。
1.The point of use of the first bomb was discussed and the general
view appeared to be that its best point of use would be on a Japanese fleet
concentration in the Harbor of Trak.
The Japanese were selected as they would not be so apt to secure knowledge from it
as would the Germans.
訳(最初の爆弾の投下地点について議論され、トラック諸島の港に集結した日本艦隊が最も望ましいだろうという意見が大半を占めた。
日本人が選ばれたのは、爆弾から知識を得る可能性が、ドイツ人と比べて少ないだろうと見られたためだ。)
この「軍事政策委員会政策会議」の議事録について、平和記念資料館は次のような解説文を紹介しています。
「この委員会は、軍人と科学者で構成し、原爆製造計画全体を管理していました。ドイツが降伏する約2年前に、原爆の最初の投下目標に選ばれていたのは、ドイツではなく、日本でした。」
解説文の英訳です。(冒頭部分省略・・・・About two years before Germany surrendered, the committee selected not Germany but Japan for the first atomic bombing. )
この1.以下の文章をお読みいただくと、「Japanese」が訳文では「日本人」なのに、解説文では「日本」になっていることがわかります。陳情者は、これを改ざんだと指摘しています。
次に2の米英首脳の合意文書を読んでみます。まず原文の抜粋です。
2.・・・when a "bomb" is finally available , it might perhaps, after mature consideration, be used
against the Japanese, ・・・・)
訳(「爆弾」が最終的に使用可能になった時には、慎重な検討の末、ことによると、日本人に対して使用するかもしれない。)
一方、平和記念資料館の解説文です。
「アメリカとイギリスの首脳は、原爆を日本に対して使用するかもしれないと合意しました。」
解説文の英訳です。(・・・・ the U.S. and British leaders agreed that the atomic bomb
might be used against Japan. )
訳文の「日本人」が、「日本」に変わっています。
陳情者は来館し、この改ざんについての説明と展示の変更を求めました。しかし館長、副館長、学芸員はこの要求を拒否したので、市議会への陳情となりました。
つづきます。
2012年11月4日日曜日
野球の日
ブログの読者のみなさんから言われることがあります。
「松坂さんはスポーツをされるのですね。卓球とか。」
卓球を記事にしたことがあるので、そう思われているのかも知れません。
ただ、一番やってきたスポーツは野球です。中学、高校、大学と合計12年間は野球部でした。医者になっても15年間、野球かソフトボールを続けました。議員になっても13年続けています。
合わせて40年になりますが、残念ながら下手なままです。
医師会の野球部チームは、私が幹事、グラウンド確保係、相手チーム探し係、会計、荷物運搬係を兼ねている以上、監督も務めています。下手ですが監督自ら出場しつつ、サインも出します。
その球歴の中で、初めての記録を打ち立てました。
試合は、広大医学部野球部のOB対現役の対戦です。私はOBチームの二塁手として出場しました。
まず第1打席、3年生の左腕投手と対戦。1ボール2ストライクから、外角の直球を軽くすくいあげるとセンター前へポトリと落ちました。
ついで第2打席は2年生の左腕投手です。外角の速球をミートすると打球はライナーとなってセンター前に飛びました。クリーンヒットです。
第3打席は1死二・三塁のチャンスです。さすがに内角高めにスピードボールを投げてきました。鋭くスウィングすると、バットの根元に当たりファースト後方に落ちるヒットとなり2打点をあげました。そのあと後続打者のタイムリーで二塁から生還。この時ラミレス選手(DeNA)の決めポーズ「ゲッツ」を決めてご満悦でした。
4打席目は、バッテリーも守備の選手も意識していたようです。1死一・三塁のチャンス。外角低めの直球を無心で払うと、一二塁間をゴロで抜けていき打点1をあげました。さらに後続のタイムリーでホームイン。またラミレスの「ゲッツ」で決めました。
初めて記録したのは4打席連続安打でした。
秋晴れの下、たくさん打席に立てて、ヒットも打てて、幸せだなと感じました。
この試合は、OBチームが大敗したことを申し添えておきます。
そして、その晩の夢の中でも、ライト前に5本目のヒットを放ちました。よほどうれしかったのでしょう。 いつも試合中なのかも知れません。
「松坂さんはスポーツをされるのですね。卓球とか。」
卓球を記事にしたことがあるので、そう思われているのかも知れません。
ただ、一番やってきたスポーツは野球です。中学、高校、大学と合計12年間は野球部でした。医者になっても15年間、野球かソフトボールを続けました。議員になっても13年続けています。
合わせて40年になりますが、残念ながら下手なままです。
医師会の野球部チームは、私が幹事、グラウンド確保係、相手チーム探し係、会計、荷物運搬係を兼ねている以上、監督も務めています。下手ですが監督自ら出場しつつ、サインも出します。
その球歴の中で、初めての記録を打ち立てました。
試合は、広大医学部野球部のOB対現役の対戦です。私はOBチームの二塁手として出場しました。
まず第1打席、3年生の左腕投手と対戦。1ボール2ストライクから、外角の直球を軽くすくいあげるとセンター前へポトリと落ちました。
ついで第2打席は2年生の左腕投手です。外角の速球をミートすると打球はライナーとなってセンター前に飛びました。クリーンヒットです。
第3打席は1死二・三塁のチャンスです。さすがに内角高めにスピードボールを投げてきました。鋭くスウィングすると、バットの根元に当たりファースト後方に落ちるヒットとなり2打点をあげました。そのあと後続打者のタイムリーで二塁から生還。この時ラミレス選手(DeNA)の決めポーズ「ゲッツ」を決めてご満悦でした。
4打席目は、バッテリーも守備の選手も意識していたようです。1死一・三塁のチャンス。外角低めの直球を無心で払うと、一二塁間をゴロで抜けていき打点1をあげました。さらに後続のタイムリーでホームイン。またラミレスの「ゲッツ」で決めました。
初めて記録したのは4打席連続安打でした。
秋晴れの下、たくさん打席に立てて、ヒットも打てて、幸せだなと感じました。
この試合は、OBチームが大敗したことを申し添えておきます。
そして、その晩の夢の中でも、ライト前に5本目のヒットを放ちました。よほどうれしかったのでしょう。 いつも試合中なのかも知れません。
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