11月1日付けの朝日新聞は、一面にシンドラー社製のエレベーターの死亡事故を報道していました。金沢市の「アパホテル金沢駅前」で、エレベーターに乗ろうとした女性が、突然動き出したエレベーターのかごと上部の枠にはさまれ死亡しました。
2006年にも、 東京都の公営住宅で、高校生がシンドラーのエレベーターにはさまれて生命を奪われました。同じ悲劇が繰り返されました。悲しむべきことです。
私は、さっそく南区の厚生部長に電話を入れました。南区厚生部が入っている別館のエレベーターはシンドラー社製です。2006年以前に広島市が、指名競争入札の結果購入したエレベーターです。
厚生部長は、新聞記事を見ていなかったようですが、「さっそく安全対策をとる」 と述べました。そして、午後にはこのエレベーターの使用を中止しました。
11月2日に、再び厚生部長に電話を入れると、
「3日の土曜日と4日の日曜日は使用を再開したい」、と言います。
「どういう方法で安全が確認できたのか。」と聞きました。
「身体の不自由な方が利用されるので、エレベーターは不可欠だ。」と、部長は言いました。
安全かどうか聞いているのに、この発言にはあきれるしかありません。
「安全確認ができないのに運転再開するなどと、許されることなのか。」と問うと、
「西区にも同じエレベーターが入っている。西区と協議する。」と言います。
西区の区長に電話をかけると、
「西区はエレベーターを止めている。安全が確認されるまで止めたままにする。土日ももちろん止めたままだ。」と答えました。
「同じ広島市の施設なのに、南区は土日に動かし、西区は土日も止めるなどあり得るのか。」と指摘すると、西区の区長は
「あり得ないことである。昼の12時までに結論を出す。」と言いました。
12時に、都市整備局営繕部設備課長と指導部長、そして機械設備担当課長が説明に来ました。
「南区と西区のエレベーターは、安全を確認するまでは運転しない 。」とのことでした。
「どうやって安全確認するのか。」と聞いても、設備課長が「緊急点検させる。」としか言いません。
「金沢のホテルのエレベーターも毎月の点検の結果、異状なしだったが死亡事故が起きた。」と指摘するとみな黙ってしまいました。
市には他に39施設にシンドラーのエレベーターがありますが、停止させずに今まで通り運転させると言います。
その理由について設備課長は、「事故と同じ駆動装置が設置されているのは、西区と南区だけだ。」と述べました。
「なぜ、2か所だけなのか。」と問うと、「シンドラー社がそう言った。」と設備課長は答えました。
「それを鵜呑みにしてよいのか。人が一人死亡したのに、なぜそれで済むのか。」と問いかけましたが、みな黙って何も言いません。
「市の41の施設にあるエレベーターについて、駆動装置の製品番号のリストをシンドラーから取り寄せて、各エレベーターの駆動装置が本当にシンドラー社が言うように、2つが同一で39が同一でないことを確認してはどうか。」と提案しました。
部長は「そのとおりする」と約束して、さっさと帰りました。
市の各幹部は、人命を軽く見ているようにしか映りません。市民の生命を守るよりも、自分たちの仕事が増えないことのほうが、重要なことのようです。
結局、私が提案したことしかやらず、自分たちからは何もやろうとはしないというやりとりです。
2012年11月2日金曜日
2012年10月29日月曜日
大隈重信
大隈重信(1838-1922)は、佐賀藩出身で、明治・大正期の政治家です。二度にわたって内閣総理大臣をつとめ、早稲田大学の創立者としても知られています。
大隈は慶応四年に、明治新政府の参与職外国事務局判事に抜擢されました。そして切支丹宗徒の即時釈放を求めたイギリス公使パークスと論争し、これを内政干渉であると突っぱねました。
この大隈の堂々たる交渉ぶりが認められ、明治新政府の要職へと進んでいきます。
明治10年の西南戦争で西郷隆盛が戦死し、翌年には大久保利通が暗殺されました。木戸孝允も明治10年に病死しており、維新の三傑はすべて世を去りました。
そのあとの新政府を支えたのが、伊藤博文と大隈重信です。
大隈は明治6年の政変後大蔵卿に就任、そして筆頭参議に上り詰めました。実質的なトップになったのです。
しかし、伊藤や井上馨、山県有朋らの長州閥と西郷従道、黒田清隆らの薩摩閥は、示し合わせて大隈を筆頭参議辞任に追い込みます。これが明治14年の政変です。
この原因となったのは、大隈が明治14年3月に右大臣岩倉具視に提出した憲法制定についての意見書です。
大隈以外の参議は、国会開設は当分先のこととする漸進主義でした。
一方の大隈は、明治15年には選挙し、明治16年には国会を開くべしという、急進論を唱えました。
この背景には、イギリス流民主主義の導入を求める福沢諭吉らの後押しがありました。この意外な急進論に驚愕した薩長藩閥が、大隈を下野させたのです。
小説家江藤淳は、戯曲「明治の群像」の中で、大隈に次のように語らせています。
「諸君、立憲政治は政党の政治である。そして政党政治は主義言論の政治である。
もし政党、その主義言論によって国民過半数の支持を得れば、すなわち入って政権を担当し、これに反すれば、すなわち出でて政権を去る。
諸君、これは英国において、過去百年来きわめて平和裡に慣行されている立憲政治の大原則である。」
ひるがえって今日、現政権は支持率10%台と低下しています。大隈の言を借りれば、「すなわち出でて政権を去る。」 状況です。
政権に恋々として、いたずらに政治の停滞を招くよりは、国会を解散して国民の信を問い、立憲政治の大原則に立ち返るべきと考えます。
大隈は慶応四年に、明治新政府の参与職外国事務局判事に抜擢されました。そして切支丹宗徒の即時釈放を求めたイギリス公使パークスと論争し、これを内政干渉であると突っぱねました。
この大隈の堂々たる交渉ぶりが認められ、明治新政府の要職へと進んでいきます。
明治10年の西南戦争で西郷隆盛が戦死し、翌年には大久保利通が暗殺されました。木戸孝允も明治10年に病死しており、維新の三傑はすべて世を去りました。
そのあとの新政府を支えたのが、伊藤博文と大隈重信です。
大隈は明治6年の政変後大蔵卿に就任、そして筆頭参議に上り詰めました。実質的なトップになったのです。
しかし、伊藤や井上馨、山県有朋らの長州閥と西郷従道、黒田清隆らの薩摩閥は、示し合わせて大隈を筆頭参議辞任に追い込みます。これが明治14年の政変です。
この原因となったのは、大隈が明治14年3月に右大臣岩倉具視に提出した憲法制定についての意見書です。
大隈以外の参議は、国会開設は当分先のこととする漸進主義でした。
一方の大隈は、明治15年には選挙し、明治16年には国会を開くべしという、急進論を唱えました。
この背景には、イギリス流民主主義の導入を求める福沢諭吉らの後押しがありました。この意外な急進論に驚愕した薩長藩閥が、大隈を下野させたのです。
小説家江藤淳は、戯曲「明治の群像」の中で、大隈に次のように語らせています。
「諸君、立憲政治は政党の政治である。そして政党政治は主義言論の政治である。
もし政党、その主義言論によって国民過半数の支持を得れば、すなわち入って政権を担当し、これに反すれば、すなわち出でて政権を去る。
諸君、これは英国において、過去百年来きわめて平和裡に慣行されている立憲政治の大原則である。」
ひるがえって今日、現政権は支持率10%台と低下しています。大隈の言を借りれば、「すなわち出でて政権を去る。」 状況です。
政権に恋々として、いたずらに政治の停滞を招くよりは、国会を解散して国民の信を問い、立憲政治の大原則に立ち返るべきと考えます。
2012年10月26日金曜日
1968年のオールスター戦
2012年のプロ野球は、日本ハム対巨人の日本シリーズを残すのみとなりました。吉川、武田勝の両左腕が、巨人をねじ伏せてくれることを期待します。
私が6歳だった1965年から、巨人は9年連続日本一を達成しました。9年間、毎年同じことの繰り返しでした。
まず広島カープが5月5日を境に脱落、ついで応援していた大洋ホエールズが奮闘むなしく敗退。あまり好きでない阪神が、一番嫌いな巨人と闘って巨人が優勝します。つづく日本シリーズでは、南海ホークス、阪急ブレーブス、ロッテオリオンズがいずれも敗退。圧倒的に強い巨人でした。
9年間、テレビで放映されるのは巨人の試合だけでした。巨人と他の5チームの試合です。
パリーグの試合は、月に一度くらいNHKで放映するだけでした。
そんな普段テレビに映らないパの選手が、アップでテレビに映るのがオールスター戦でした。
新聞でしか知らない選手が次々出てきます。
特に覚えているのは、1968年7月23日に川崎球場で行われたオールスター戦です。土曜日のナイターで、たぶんNHKで放映したのを、試合開始から終了まで食い入るように見ていました。
先攻はパ、一番のロペス(東京オリオンズ)がセの先発島田源太郎(大洋)の初球をいきなりホームラン。1964年以来カムバックした島田でしたが、ロペスの怪力に吹っ飛びました。しかし島田はスライダーが冴え、結局は3回を1点に抑えました。
一方のパの先発は池永正明(西鉄ライオンズ)です。速球派の池永はびゅんびゅんストレートを投げ込み、王も長嶋も凡退させます。3回を9人で切ってとりました。
セの2番手は江夏豊(阪神)。江夏も負けじと速球で押し、張本(東映フライヤーズ)、野村(南海)らを完璧に抑えます。3回を無失点で収めました。
パの2番手は森安敏明(東映)。全盛期は江夏よりも池永よりも早いといわれた速球派です。えげつないスライダーも武器です。3回を9人で抑えました。
セの3人目は小川健太郎(中日)です。横手投げながらそのスピードボールは切れ味抜群、前年29勝を挙げています。小川も3回をすんなり無失点に抑えました。
パの3人目は成田文男(ロッテ)、シュートを武器に9回ツーアウトまで完璧に抑えました。あと一人で完全試合リレーです。
ここで私はさすがにセを応援しました。セの誰かがヒットで出塁。残念ながらこの選手が記憶に残っていません。その代走が柴田勲(巨人)。トレードマークの赤い手袋をつけて、二盗三盗とあざやかに決めました。
この2死三塁で登場したのが山本一義(広島)。すこし頼りなく映りましたが、成田のボールをとらえたあたりは、高いバウンドのセカンドゴロ。これをパの内野陣が処理しえず、同点となりました。
延長となってセのマウンドは、外木場義郎(広島)。さっそうとパを三者凡退に打ち取りました。
その裏のパは石井茂雄(阪急)が登板。さすがに池永や森安に比べれば、打ちやすそうでした。江藤慎一(中日)が石井の初球をレフトスタンドに叩き込み、最後はセが勝ちました。
池永、森安、成田といった速球派のボールは、見たことのない躍動する球でした。
しかし、この試合から間もなく、池永、森安、小川健太郎は八百長やとばく事件に関与した疑いで、野球界を追放されました。
私にとっては、選手たちの一瞬のきらめきを見たオールスターでした。
私が6歳だった1965年から、巨人は9年連続日本一を達成しました。9年間、毎年同じことの繰り返しでした。
まず広島カープが5月5日を境に脱落、ついで応援していた大洋ホエールズが奮闘むなしく敗退。あまり好きでない阪神が、一番嫌いな巨人と闘って巨人が優勝します。つづく日本シリーズでは、南海ホークス、阪急ブレーブス、ロッテオリオンズがいずれも敗退。圧倒的に強い巨人でした。
9年間、テレビで放映されるのは巨人の試合だけでした。巨人と他の5チームの試合です。
パリーグの試合は、月に一度くらいNHKで放映するだけでした。
そんな普段テレビに映らないパの選手が、アップでテレビに映るのがオールスター戦でした。
新聞でしか知らない選手が次々出てきます。
特に覚えているのは、1968年7月23日に川崎球場で行われたオールスター戦です。土曜日のナイターで、たぶんNHKで放映したのを、試合開始から終了まで食い入るように見ていました。
先攻はパ、一番のロペス(東京オリオンズ)がセの先発島田源太郎(大洋)の初球をいきなりホームラン。1964年以来カムバックした島田でしたが、ロペスの怪力に吹っ飛びました。しかし島田はスライダーが冴え、結局は3回を1点に抑えました。
一方のパの先発は池永正明(西鉄ライオンズ)です。速球派の池永はびゅんびゅんストレートを投げ込み、王も長嶋も凡退させます。3回を9人で切ってとりました。
セの2番手は江夏豊(阪神)。江夏も負けじと速球で押し、張本(東映フライヤーズ)、野村(南海)らを完璧に抑えます。3回を無失点で収めました。
パの2番手は森安敏明(東映)。全盛期は江夏よりも池永よりも早いといわれた速球派です。えげつないスライダーも武器です。3回を9人で抑えました。
セの3人目は小川健太郎(中日)です。横手投げながらそのスピードボールは切れ味抜群、前年29勝を挙げています。小川も3回をすんなり無失点に抑えました。
パの3人目は成田文男(ロッテ)、シュートを武器に9回ツーアウトまで完璧に抑えました。あと一人で完全試合リレーです。
ここで私はさすがにセを応援しました。セの誰かがヒットで出塁。残念ながらこの選手が記憶に残っていません。その代走が柴田勲(巨人)。トレードマークの赤い手袋をつけて、二盗三盗とあざやかに決めました。
この2死三塁で登場したのが山本一義(広島)。すこし頼りなく映りましたが、成田のボールをとらえたあたりは、高いバウンドのセカンドゴロ。これをパの内野陣が処理しえず、同点となりました。
延長となってセのマウンドは、外木場義郎(広島)。さっそうとパを三者凡退に打ち取りました。
その裏のパは石井茂雄(阪急)が登板。さすがに池永や森安に比べれば、打ちやすそうでした。江藤慎一(中日)が石井の初球をレフトスタンドに叩き込み、最後はセが勝ちました。
池永、森安、成田といった速球派のボールは、見たことのない躍動する球でした。
しかし、この試合から間もなく、池永、森安、小川健太郎は八百長やとばく事件に関与した疑いで、野球界を追放されました。
私にとっては、選手たちの一瞬のきらめきを見たオールスターでした。
2012年9月23日日曜日
昭和37年のセリーグ
平成24年のセリーグは、予想通りに巨人軍が独走で優勝を飾りました。
ペナントレースは、まったく面白くないの一言。横浜は開幕から最下位に沈み、広島は3位に手の届きそうなところでの9連戦を1勝8敗と大きく負け越し、失速しました。
ある試合の終盤、ノーアウト一、二塁のチャンスでサインは強攻。バッター東出は打って出てショートゴロ。一塁ランナーと二塁ランナーがアウトになりました。
この時期、野村監督は「責任は俺がとる」と言ったそうです。その途端に連敗が始まったようです。チームの中に、監督交代を望んでいる空気が読み取れます。
さて、今私は「死闘。昭和三十七年阪神タイガース」という本を読んでいます。このころは、野球の試合も時代がかっていました。個人と個人の因縁の対決という色彩が濃厚でした。
37年は、阪神タイガースと大洋ホエールズ(現在の横浜)が残り数試合までデッドヒートを繰り広げました。阪神が残り6試合、大洋が残り9試合を残した段階で、阪神が1.5ゲーム差で首位でした。
9月25・26日、両チームは川崎球場で激突しました。
25日の先発は阪神が村山実(この年25勝14敗)、大洋は秋山登(26勝12敗)でした。大洋は、桑田武のホームランなどで3対0で先勝しました。
26日の先発は、阪神が小山正明(27勝11敗)、大洋は前日9回を完封した秋山が連投です。
大洋は、鈴木武の二塁打と近藤和彦の犠牲フライで1点を先取。秋山は、なんと9回をシャットアウトの力投。大洋が0.5ゲーム差で首位に立ちました。絶対有利に立ちました。
この時大洋の監督は三原脩。阪神の藤本定義監督は、昭和11年読売巨人軍がスタートした時の監督で、その時助監督が三原でした。大監督同士のマッチレース、負けるわけにはいきません。
三原はチームの運命をエースの秋山に託し、秋山は首位の阪神を18イニング無失点に抑え、三原の期待に応えたのでした。
しかし、大洋は残り7試合となって川上監督の巨人に3連敗を喫しました。一方、いったん死んだ阪神は、国鉄スワローズ(今のヤクルト)に3連勝で首位を奪還。つづく広島戦で優勝を決めました。
最終順位は、1.阪神 2.大洋 3.中日 4.巨人 5.広島 6.国鉄 でした。
しかし、ここで優勝を決めるという時に、監督の三原はあえて秋山に連投を命じ、秋山はそれに応えて二試合とも完封勝ちで飾ったというエピソードには感動しました。
当時、私は3歳だったので、まったく記憶がありません。
私がプロ野球を観戦し始めた昭和40年は三原、秋山、桑田、近藤は大洋のメンバーで、藤本、村山も阪神のメンバーでした。
その頃も、37年の雰囲気は残っていました。いまのプロ野球より数段面白く、しかも人間臭かったようです。 今で言うと、カープが3位に入るため、エースの前田健太に2試合連投を命じるようなものです。前田が「投げましょう」という気になるかどうか。
チームのため、ファンのためと考えて投げようとするかもしれません。
首脳陣と前田健太の間に、三原と秋山のような人間関係があれば投げるでしょう。しかし、そのような雰囲気はみじんも感じません。
そうなっていない以上、前田投手は目先の一戦だけでなく、来年を見据えてほしいと思います。
ペナントレースは、まったく面白くないの一言。横浜は開幕から最下位に沈み、広島は3位に手の届きそうなところでの9連戦を1勝8敗と大きく負け越し、失速しました。
ある試合の終盤、ノーアウト一、二塁のチャンスでサインは強攻。バッター東出は打って出てショートゴロ。一塁ランナーと二塁ランナーがアウトになりました。
この時期、野村監督は「責任は俺がとる」と言ったそうです。その途端に連敗が始まったようです。チームの中に、監督交代を望んでいる空気が読み取れます。
さて、今私は「死闘。昭和三十七年阪神タイガース」という本を読んでいます。このころは、野球の試合も時代がかっていました。個人と個人の因縁の対決という色彩が濃厚でした。
37年は、阪神タイガースと大洋ホエールズ(現在の横浜)が残り数試合までデッドヒートを繰り広げました。阪神が残り6試合、大洋が残り9試合を残した段階で、阪神が1.5ゲーム差で首位でした。
9月25・26日、両チームは川崎球場で激突しました。
25日の先発は阪神が村山実(この年25勝14敗)、大洋は秋山登(26勝12敗)でした。大洋は、桑田武のホームランなどで3対0で先勝しました。
26日の先発は、阪神が小山正明(27勝11敗)、大洋は前日9回を完封した秋山が連投です。
大洋は、鈴木武の二塁打と近藤和彦の犠牲フライで1点を先取。秋山は、なんと9回をシャットアウトの力投。大洋が0.5ゲーム差で首位に立ちました。絶対有利に立ちました。
この時大洋の監督は三原脩。阪神の藤本定義監督は、昭和11年読売巨人軍がスタートした時の監督で、その時助監督が三原でした。大監督同士のマッチレース、負けるわけにはいきません。
三原はチームの運命をエースの秋山に託し、秋山は首位の阪神を18イニング無失点に抑え、三原の期待に応えたのでした。
しかし、大洋は残り7試合となって川上監督の巨人に3連敗を喫しました。一方、いったん死んだ阪神は、国鉄スワローズ(今のヤクルト)に3連勝で首位を奪還。つづく広島戦で優勝を決めました。
最終順位は、1.阪神 2.大洋 3.中日 4.巨人 5.広島 6.国鉄 でした。
しかし、ここで優勝を決めるという時に、監督の三原はあえて秋山に連投を命じ、秋山はそれに応えて二試合とも完封勝ちで飾ったというエピソードには感動しました。
当時、私は3歳だったので、まったく記憶がありません。
私がプロ野球を観戦し始めた昭和40年は三原、秋山、桑田、近藤は大洋のメンバーで、藤本、村山も阪神のメンバーでした。
その頃も、37年の雰囲気は残っていました。いまのプロ野球より数段面白く、しかも人間臭かったようです。 今で言うと、カープが3位に入るため、エースの前田健太に2試合連投を命じるようなものです。前田が「投げましょう」という気になるかどうか。
チームのため、ファンのためと考えて投げようとするかもしれません。
首脳陣と前田健太の間に、三原と秋山のような人間関係があれば投げるでしょう。しかし、そのような雰囲気はみじんも感じません。
そうなっていない以上、前田投手は目先の一戦だけでなく、来年を見据えてほしいと思います。
2012年9月16日日曜日
平清盛
大河ドラマ「平清盛」を、毎週欠かさず見ています。
これが面白い。なぜかというと、このドラマが史実に極めて忠実に作られているからです。
清盛(松山ケンイチ)は、白河法皇(伊東四朗)のご落胤と呼ばれていました。ドラマでは、このいきさつを忠実に再現しています。
崇徳天皇(井浦新)も、白河法皇が可愛がっていた璋子(壇れい)に産ませた子どもといううわさが立っていました。白河法皇の孫になる鳥羽上皇(三上博史)は、このうわさにこころを狂わせました。なぜなら璋子は自分のお后だったからです。
崇徳は、鳥羽にとっては叔父にあたります。自分の后の子とは言え、祖父の子供だからです。
鳥羽は死ぬまで崇徳をおじご(叔父御)とよび、嫌っていました。しかし、崇徳は自分が鳥羽と璋子の子だと信じていました。
鳥羽のこころは、璋子から得子(松雪泰子)へと移っていきます。ぽやーっとした璋子と、嫉妬の炎を燃やせる得子の恋のさや当てが、ドラマの前半の見どころでした。この鳥羽と崇徳の争いが、藤原氏、平氏、源氏を巻き込んだ保元の乱へ進んでいくのです。
この史実に忠実なドラマを、現在の人気俳優たちがいかに演じるか。そこが醍醐味です。
イメージそのままに演じたのが、平忠盛(中井貴一)、時子(深田恭子)、平重盛(窪田正孝)です。とくに、窪田の演じる重盛はなかなか良い。重盛の苦悩をよく表しています。
一方、イメージとまったく異なるのは、後白河法皇(松田翔太)、藤原信西(阿部サダヲ)です。後白河のぷらぷら遊び呆けるさま、信西の元気の良さと明るさ、いずれも新しい人間像を演じています。
また、白河、鳥羽、崇徳、後白河といった皇室は、すごく丁寧に人間臭く描かれています。これも面白い。
女性がいきいきと描かれているのも、ドラマの魅力のひとつです。璋子と得子、後白河のお后となる滋子(成海璃子)、そして北条政子(杏)。成海も杏も、大胆な役柄が似合う女優さんだと思います。
これだけ面白いドラマが、なぜ低視聴率なのでしょうか。
恐らく、歴史ファンには受けるけれども、一家揃って見るには難しいストーリーなのでしょう。
しかし、最後まで難しいストーリーで突っ走ってもらいたいものです。
これが面白い。なぜかというと、このドラマが史実に極めて忠実に作られているからです。
清盛(松山ケンイチ)は、白河法皇(伊東四朗)のご落胤と呼ばれていました。ドラマでは、このいきさつを忠実に再現しています。
崇徳天皇(井浦新)も、白河法皇が可愛がっていた璋子(壇れい)に産ませた子どもといううわさが立っていました。白河法皇の孫になる鳥羽上皇(三上博史)は、このうわさにこころを狂わせました。なぜなら璋子は自分のお后だったからです。
崇徳は、鳥羽にとっては叔父にあたります。自分の后の子とは言え、祖父の子供だからです。
鳥羽は死ぬまで崇徳をおじご(叔父御)とよび、嫌っていました。しかし、崇徳は自分が鳥羽と璋子の子だと信じていました。
鳥羽のこころは、璋子から得子(松雪泰子)へと移っていきます。ぽやーっとした璋子と、嫉妬の炎を燃やせる得子の恋のさや当てが、ドラマの前半の見どころでした。この鳥羽と崇徳の争いが、藤原氏、平氏、源氏を巻き込んだ保元の乱へ進んでいくのです。
この史実に忠実なドラマを、現在の人気俳優たちがいかに演じるか。そこが醍醐味です。
イメージそのままに演じたのが、平忠盛(中井貴一)、時子(深田恭子)、平重盛(窪田正孝)です。とくに、窪田の演じる重盛はなかなか良い。重盛の苦悩をよく表しています。
一方、イメージとまったく異なるのは、後白河法皇(松田翔太)、藤原信西(阿部サダヲ)です。後白河のぷらぷら遊び呆けるさま、信西の元気の良さと明るさ、いずれも新しい人間像を演じています。
また、白河、鳥羽、崇徳、後白河といった皇室は、すごく丁寧に人間臭く描かれています。これも面白い。
女性がいきいきと描かれているのも、ドラマの魅力のひとつです。璋子と得子、後白河のお后となる滋子(成海璃子)、そして北条政子(杏)。成海も杏も、大胆な役柄が似合う女優さんだと思います。
これだけ面白いドラマが、なぜ低視聴率なのでしょうか。
恐らく、歴史ファンには受けるけれども、一家揃って見るには難しいストーリーなのでしょう。
しかし、最後まで難しいストーリーで突っ走ってもらいたいものです。
2012年8月3日金曜日
内村の金メダル
8月1日の未明。ふと目が覚めてすぐにテレビをつけると、若い男性が三人肩を組んで並んでいました。眠い目をこすりながら誰かと確認すると、真ん中は体操の内村航平選手でした。内村選手の胸には金メダルが輝いていました。体操の個人総合で優勝したのでした。
おめでとう、内村選手。
今回のオリンピックは、「個人よりも団体の金がほしい」と明言していた内村選手は、あえて重圧を背負うかのようでした。彼は、常にチームのことを考えていたようです。怪我をした山村選手を気づかい、また自らも失敗しながら、次の演技で取り戻すのだという決意が感じ取れ、その姿勢はいつも前向きでした。
優勝のインタビューで彼はこう言いました。
「応援してくれた皆さんや、国民の皆さんのためにも、強い気持ちで演技しなければ。
その気持ちが演技に出て良かった」
「国民のために」とは、昔のスポーツ選手の感覚です。今風の若者が、なぜ国民のために闘ったのか。それは、東日本の大震災で被災した、子供たちのもとを彼が訪れて、一緒に体操をしたり、記念撮影に応じたりして慰問したことが大きいと思います。たいへんな回数だったでしょう。
激励される中で、被災した皆さんや子供たちのために勝たなければいけないと、心に決めたのでしょう。
個人総合の跳馬の着地は、ぴたりと決まっていました。まるで神業です。内村選手は、自分の中にもうひとりの自分がいて、身体を操っているようだと述べています。人並みはずれた、すぐれた感覚の持ち主です。
また跳馬の着地の時に、子供たちが支えてくれたのかもしれません。それが、国民の皆さんのために勝つんだという決意につながったと思います。
たくさんの国民が、彼の勝利に大いに勇気づけられたことでしょう。素晴らしい金メダルだと思います。
おめでとう、内村選手。
今回のオリンピックは、「個人よりも団体の金がほしい」と明言していた内村選手は、あえて重圧を背負うかのようでした。彼は、常にチームのことを考えていたようです。怪我をした山村選手を気づかい、また自らも失敗しながら、次の演技で取り戻すのだという決意が感じ取れ、その姿勢はいつも前向きでした。
優勝のインタビューで彼はこう言いました。
「応援してくれた皆さんや、国民の皆さんのためにも、強い気持ちで演技しなければ。
その気持ちが演技に出て良かった」
「国民のために」とは、昔のスポーツ選手の感覚です。今風の若者が、なぜ国民のために闘ったのか。それは、東日本の大震災で被災した、子供たちのもとを彼が訪れて、一緒に体操をしたり、記念撮影に応じたりして慰問したことが大きいと思います。たいへんな回数だったでしょう。
激励される中で、被災した皆さんや子供たちのために勝たなければいけないと、心に決めたのでしょう。
個人総合の跳馬の着地は、ぴたりと決まっていました。まるで神業です。内村選手は、自分の中にもうひとりの自分がいて、身体を操っているようだと述べています。人並みはずれた、すぐれた感覚の持ち主です。
また跳馬の着地の時に、子供たちが支えてくれたのかもしれません。それが、国民の皆さんのために勝つんだという決意につながったと思います。
たくさんの国民が、彼の勝利に大いに勇気づけられたことでしょう。素晴らしい金メダルだと思います。
2012年8月1日水曜日
ロンドンオリンピック微笑みのメダル
7月30日の夜は、ロンドンオリンピックの中継をテレビにかじりついて観ていました。
柔道・松本薫選手の金メダル、中矢力選手の銀メダルを観た後、卓球の福原愛、石川佳純両選手の試合を観ながら、別のチャンネルでは水泳の決勝戦も見ました。テレビが何台もある電気店で観たかったです。
その水泳で、女子100米背泳ぎで寺川綾選手が銅メダル、男子100米背泳ぎの入江陵介選手が銅メダル、そして女子100米平泳ぎの鈴木聡美選手も銅メダルを獲得しました。3レース続いてのメダルで、大いに盛り上がりました。
鈴木選手は21歳の大学生です。レース終了後のインタビューで、その眼は、いきいきと喜びを表していました。口元はにっこりと微笑をたたえ、見る人をたいへんなごませる表情でした。
喜びの表情がいかに人を引き付け、良い気持ちにさせるか。その典型とも言うべき素敵な笑顔でした。
もう一組、魅力的な笑顔をふりまいていたチームがあります。女子アーチェリー団体の、早川漣、蟹江美貴、川中香緒里の三選手です。
彼女らはロシアとの3位決定戦で、すこぶる魅力的な微笑みをたたえていました。まるで三体の観音さまがいらっしゃるような、競技とか勝敗だとかを超越した世界を作り出していました。
結局、最後の一射で勝ったのですが、生き仏さまが勝利をたたえているような、ふしぎなここちよい気分におそわれました。
いま、世の中に一番必要なものは、彼女たちの持っているような微笑みではないかと思います。
柔道・松本薫選手の金メダル、中矢力選手の銀メダルを観た後、卓球の福原愛、石川佳純両選手の試合を観ながら、別のチャンネルでは水泳の決勝戦も見ました。テレビが何台もある電気店で観たかったです。
その水泳で、女子100米背泳ぎで寺川綾選手が銅メダル、男子100米背泳ぎの入江陵介選手が銅メダル、そして女子100米平泳ぎの鈴木聡美選手も銅メダルを獲得しました。3レース続いてのメダルで、大いに盛り上がりました。
鈴木選手は21歳の大学生です。レース終了後のインタビューで、その眼は、いきいきと喜びを表していました。口元はにっこりと微笑をたたえ、見る人をたいへんなごませる表情でした。
喜びの表情がいかに人を引き付け、良い気持ちにさせるか。その典型とも言うべき素敵な笑顔でした。
もう一組、魅力的な笑顔をふりまいていたチームがあります。女子アーチェリー団体の、早川漣、蟹江美貴、川中香緒里の三選手です。
彼女らはロシアとの3位決定戦で、すこぶる魅力的な微笑みをたたえていました。まるで三体の観音さまがいらっしゃるような、競技とか勝敗だとかを超越した世界を作り出していました。
結局、最後の一射で勝ったのですが、生き仏さまが勝利をたたえているような、ふしぎなここちよい気分におそわれました。
いま、世の中に一番必要なものは、彼女たちの持っているような微笑みではないかと思います。
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