2月の議会、および3月の予算特別委員会の日程です。
25年度当初予算、24年度補正予算などが提案され、審議・議決されます。
2月14日 本会議 市長説明
2月19日 総括質問
2月20日 総括質問
2月21日 総括質問・24年度提案に対する質疑・予算特別委員会の設置
2月22日 常任委員会 (消防上下水、文教、建設)
2月25日 常任委員会 (総務、経済観光環境、厚生)
2月26日 本会議・24年度関係議案の議決
予算特別委員会
2月28日 厚生
3月1日 厚生
3月4日 文教
3月5日 文教
3月6日 建設
3月7日 建設
3月8日 経済観光環境
3月11日 経済観光環境
3月12日 消防上下水道 中学校卒業式のため13時開会
3月13日 総務
3月14日 総務
3月15日 総括質疑
3月25日 予算特別委員会 討論・採決
3月26日 本会議 討論・議決
3月12日は13時開会
それ以外は、10時開会です。
どなたでも傍聴できます。どうぞお越しください。
2013年2月6日水曜日
女子柔道 吉村理事の辞任
2月5日、全柔連の吉村和郎強化担当理事が辞任しました。女子選手15人による告発は、「前強化委員長」の辞任を求めていました。「前強化委員長」とは、吉村氏のことです。
吉村氏の本意がどこにあったのか。辞任の記者会見では、はっきりとは明言しませんでした。
ただ、昨年の9月ロンドンオリンピックの後に、強化委員長として臨んだ記者会見では、「辞任するのか」との記者の質問に「おまえら、おれを辞めさせたいんやろ」と反論し、辞任の意思が無いことを明確にしています。
一方で、期待された女子柔道チームが金メダルわずかに1個にとどまったことについて「自分が責任を取って進退伺いを出す」とも言っていました。しかし、全柔連の幹部の小野沢弘史専務理事によると、吉村氏は進退伺いなど提出していないそうです。
翌月、吉村氏は新設された全柔連の強化担当理事に就任しました。
吉村氏のためにつくられたポストです。
吉村氏は1951年生まれ、1986年に全柔連のコーチに就任して以来27年間全柔連に所属しています。
1996年に全日本女子チームの監督に就任。2004年のアテネオリンピックでは、女子柔道が金メダル5つを獲得しています。
きわめて長い間、日本柔道界に君臨してきた指導者であるがゆえに、思うがままにふるまってきました。
辞任した園田監督は、吉村氏の警視庁柔道部の後輩です。吉村氏が園田氏の指導に影響を与えたことは容易に想像できます。
15人の告発にあるように、園田前監督の暴力やハラスメントによって、選手は心身ともに傷つけられました。園田氏の行為は、吉村氏そして吉村氏に連なる柔道界の幹部の持つ体質そのものです。
これを機に、日本柔道界が選手の尊厳を尊重する組織に変わってもらいたいと思います。
ひるがえって広島市役所も似たような体質にあるといえましょう。
庁内で多くのパワーハラスメントを見聞きしています。それを見て見ぬふりをする管理職がいます。吉村氏、園田氏のような上司や管理職がたくさんいるのが広島市です。
この際、多くの吉村氏、園田氏には退いていただき、新しい風通しの良い組織に変わってほしいと思います。
吉村氏の本意がどこにあったのか。辞任の記者会見では、はっきりとは明言しませんでした。
ただ、昨年の9月ロンドンオリンピックの後に、強化委員長として臨んだ記者会見では、「辞任するのか」との記者の質問に「おまえら、おれを辞めさせたいんやろ」と反論し、辞任の意思が無いことを明確にしています。
一方で、期待された女子柔道チームが金メダルわずかに1個にとどまったことについて「自分が責任を取って進退伺いを出す」とも言っていました。しかし、全柔連の幹部の小野沢弘史専務理事によると、吉村氏は進退伺いなど提出していないそうです。
翌月、吉村氏は新設された全柔連の強化担当理事に就任しました。
吉村氏のためにつくられたポストです。
吉村氏は1951年生まれ、1986年に全柔連のコーチに就任して以来27年間全柔連に所属しています。
1996年に全日本女子チームの監督に就任。2004年のアテネオリンピックでは、女子柔道が金メダル5つを獲得しています。
きわめて長い間、日本柔道界に君臨してきた指導者であるがゆえに、思うがままにふるまってきました。
辞任した園田監督は、吉村氏の警視庁柔道部の後輩です。吉村氏が園田氏の指導に影響を与えたことは容易に想像できます。
15人の告発にあるように、園田前監督の暴力やハラスメントによって、選手は心身ともに傷つけられました。園田氏の行為は、吉村氏そして吉村氏に連なる柔道界の幹部の持つ体質そのものです。
これを機に、日本柔道界が選手の尊厳を尊重する組織に変わってもらいたいと思います。
ひるがえって広島市役所も似たような体質にあるといえましょう。
庁内で多くのパワーハラスメントを見聞きしています。それを見て見ぬふりをする管理職がいます。吉村氏、園田氏のような上司や管理職がたくさんいるのが広島市です。
この際、多くの吉村氏、園田氏には退いていただき、新しい風通しの良い組織に変わってほしいと思います。
2013年2月4日月曜日
園田監督の辞任
柔道女子日本代表監督の園田隆二氏(39)が2月1日辞任しました。選手への暴力やパワーハラスメントが原因です。
全国各地でスポーツの監督やコーチによる暴力が明るみに出てきています。
大阪市立桜宮高校のバスケット部の高校2年生の主将が、顧問の教員から数十発にわたって殴打され、翌日の平成24年12月23日に自殺したこともきっかけの一つでしょう。
広島市内でも、野球やサッカーの強豪校で暴力が振るわれてきたことを知っています。私の知る限りでは、暴力を振るったとされる監督やコーチは、転勤などの処分(?)を受けています。
なんとなくうやむやに終わって、表ざたにはならなかったものの、同じ学校では同じ暴力は振るえなくなりました。一応の改善とみて良いでしょう。
一方で、桜宮高校の教師は15年以上も在籍して暴力を振るい続けていたといいます。これは異常だと言えます。許されないことです。
桜宮高校のバスケット部は強豪として名が通っており、バスケットをしたいから桜宮高へ入った生徒もたくさんいます。殴られてもいいから、頑張って良い成績を上げたいという思いを持つ子もいると思います。
また、暴力を振るったとしても、強いチームに仕立て上げた監督を擁護する保護者もいます。
それはどちらも間違った考えだと思います。暴力を振るわれてもよいから勝ちたい、上手くなりたいという考えは時代遅れです。
もしそれで勝ったとしても、誤った認識を持った指導者を育てる一因にもなります。
そんな中で、柔道のトップアスリート15名が、園田監督の暴力やパワハラを文書で糾弾したことは画期的だと思います。しかも。選手の申し出を無視して、監督をそのまま居座らせようとした全日本柔道連盟やJOCにも、改善を文書で申し入れました。
選手たちの勇気に拍手を送りたいと思います。
園田監督が指揮したロンドンオリンピックでは金メダル1個に終わり、マスコミは「惨敗」と表現しました。惨敗の原因は園田監督の指導にあり、その監督が選手に暴力を振るっていたので糾弾されましたという、分かりやすいシナリオです。
しかし、ちょっと考えてみましょう。
暴力を振るっていた園田監督のもとで、女子柔道が金メダルラッシュだったらどうなったのでしょうか。暴力が続くことに対し、選手やマスコミはどう反応したのでしょうか。
その答えはわかりませんが、はっきり言えることがあります。金メダルラッシュは、あり得ないことでした。今回の 暴力による指導が、金メダルに価しないことが明らかとなりました。
スポーツの世界での暴力の根絶を、自殺した高校生が願っていたこと、また15名の柔道選手が願っていることは事実です。
私も根絶を願う者の一人です。
せめて広島市の学校現場での暴力は、根絶したいと思います。
全国各地でスポーツの監督やコーチによる暴力が明るみに出てきています。
大阪市立桜宮高校のバスケット部の高校2年生の主将が、顧問の教員から数十発にわたって殴打され、翌日の平成24年12月23日に自殺したこともきっかけの一つでしょう。
広島市内でも、野球やサッカーの強豪校で暴力が振るわれてきたことを知っています。私の知る限りでは、暴力を振るったとされる監督やコーチは、転勤などの処分(?)を受けています。
なんとなくうやむやに終わって、表ざたにはならなかったものの、同じ学校では同じ暴力は振るえなくなりました。一応の改善とみて良いでしょう。
一方で、桜宮高校の教師は15年以上も在籍して暴力を振るい続けていたといいます。これは異常だと言えます。許されないことです。
桜宮高校のバスケット部は強豪として名が通っており、バスケットをしたいから桜宮高へ入った生徒もたくさんいます。殴られてもいいから、頑張って良い成績を上げたいという思いを持つ子もいると思います。
また、暴力を振るったとしても、強いチームに仕立て上げた監督を擁護する保護者もいます。
それはどちらも間違った考えだと思います。暴力を振るわれてもよいから勝ちたい、上手くなりたいという考えは時代遅れです。
もしそれで勝ったとしても、誤った認識を持った指導者を育てる一因にもなります。
そんな中で、柔道のトップアスリート15名が、園田監督の暴力やパワハラを文書で糾弾したことは画期的だと思います。しかも。選手の申し出を無視して、監督をそのまま居座らせようとした全日本柔道連盟やJOCにも、改善を文書で申し入れました。
選手たちの勇気に拍手を送りたいと思います。
園田監督が指揮したロンドンオリンピックでは金メダル1個に終わり、マスコミは「惨敗」と表現しました。惨敗の原因は園田監督の指導にあり、その監督が選手に暴力を振るっていたので糾弾されましたという、分かりやすいシナリオです。
しかし、ちょっと考えてみましょう。
暴力を振るっていた園田監督のもとで、女子柔道が金メダルラッシュだったらどうなったのでしょうか。暴力が続くことに対し、選手やマスコミはどう反応したのでしょうか。
その答えはわかりませんが、はっきり言えることがあります。金メダルラッシュは、あり得ないことでした。今回の 暴力による指導が、金メダルに価しないことが明らかとなりました。
スポーツの世界での暴力の根絶を、自殺した高校生が願っていたこと、また15名の柔道選手が願っていることは事実です。
私も根絶を願う者の一人です。
せめて広島市の学校現場での暴力は、根絶したいと思います。
2013年2月2日土曜日
横綱 大鵬
元横綱大鵬の、納谷幸喜さんが亡くなられました。享年72歳でした。
昭和15年に生まれた大鵬は19歳で入幕し、昭和36年9月に21歳3か月で早くも横綱に昇進しました。
当時私は2歳と6か月。大鵬の横綱昇進の記憶はありません。
相撲についての記憶にあるのは、大関の北葉山英俊と大関の佐田の山晋松が、ともに13勝2敗で激突した優勝決定戦です。贔屓の佐田の山が北葉山にあっけなく押し出され、悔しかったことを鮮明に覚えています。これが38年の7月場所ですから、38年の1月場所くらいから、テレビの相撲を熱心に見ていたと思われます。
38年の5月場所は、横綱大鵬が15戦全勝で11回目の優勝を飾りました。なんと6場所連続の優勝でした。6連覇中で、大鵬の敗戦はわずかに7回。大鵬は23歳になったばかりでした。
このころわたしは4歳。その頃からすでに大鵬は無敵でした。柏鵬時代と呼ばれていますが、横綱の柏戸 剛が大鵬に対抗していたのは、私がものごころつく前のことでした。
柏戸は男っぷりもよく、相撲も一直線の豪快な相撲で、人気もありました。とくに祖母、お手伝いで住み込んでおられたKさんが、熱狂的な大鵬のファンでした。
私の記憶にある柏戸は下位の力士に取りこぼしが多く、とても大鵬に対抗できていませんでした。
一方、よく対抗したのが大関の佐田の山でした。しかし大鵬に比べて軽量の佐田の山は、大型力士を苦手としていました。そのため、終盤に大鵬と激突するときはたいてい1敗程度の差がついていました。
それでも1敗の差であれば、佐田の山が大鵬に勝てば優勝のチャンスが生まれます。
ある年の佐田の山と大鵬の取り組みです。
佐田の山が頭で当たって猛然と突き押しで大鵬の上体を起こします。なおも佐田が突っ張ります。
しかし大鵬は下がりながらも、下半身は崩れません。そのうち大鵬は右、左と差し、佐田の動きを止めてゆっくりと 寄り切ります。寄り切って大鵬が勝ちました。
それでも佐田の山は、40年の3月に横綱に昇進しました。大鵬はそれまでに佐田の山と21戦して、1回しか敗けていません。いかに偉大な壁として立ちはだかっていたかわかります。
43年5月に引退した佐田の山のあと大鵬に肉薄したのは、大関玉乃島正夫です。176センチと恵まれない身体ながら、精進を重ね、41年9月場所後に21歳で大関に昇進。42年11月場所よりコンスタントに2ケタ勝利を収めてきました。
そして大鵬が休場した43年5月場所では、13勝2敗の成績で初優勝をとげました。覇者交代かと思われました。
しかし大鵬は休場明けの43年9月場所初日、前頭の栃東に敗れたものの、2日目から連勝を始めました。そして44年3月場所2日目、前頭の戸田に敗れるまで45連勝を記録しました。
私は当時小学校4年生、学校が終わるや真っ先に家のテレビの前に陣取って、相撲を見ていました。この45連勝中も大鵬は危なげなく勝ち進んでいました。応援する玉乃島が、猛然とうわ突っ張りで大鵬の上体を起こそうとするのですが、たくみに差し込まれ逆に玉の上体が起きてしまって勝負ありでした。
とにかく大鵬は強かった。負けなかった。そしてここ一番の相撲では必ず勝ちました。
北の富士と玉の海(玉乃島改め)が同時に横綱となった45年3月場所で、大鵬は全勝の玉の海、1敗の北の富士を連破して優勝を遂げています。この2番の相撲は、絶対負けられないという執念が大鵬を勝たせたのでした。
ところで大鵬には中学3年のときに握手してもらったことがあります。掌がやわらかくておもちのようだったのが強く印象に残っています。
優勝32回、6連覇2回、45連勝の記録、まさしく大鵬の前に大鵬なく、大鵬の後に大鵬なし。不世出の横綱でした。
ご冥福をお祈りします。
昭和15年に生まれた大鵬は19歳で入幕し、昭和36年9月に21歳3か月で早くも横綱に昇進しました。
当時私は2歳と6か月。大鵬の横綱昇進の記憶はありません。
相撲についての記憶にあるのは、大関の北葉山英俊と大関の佐田の山晋松が、ともに13勝2敗で激突した優勝決定戦です。贔屓の佐田の山が北葉山にあっけなく押し出され、悔しかったことを鮮明に覚えています。これが38年の7月場所ですから、38年の1月場所くらいから、テレビの相撲を熱心に見ていたと思われます。
38年の5月場所は、横綱大鵬が15戦全勝で11回目の優勝を飾りました。なんと6場所連続の優勝でした。6連覇中で、大鵬の敗戦はわずかに7回。大鵬は23歳になったばかりでした。
このころわたしは4歳。その頃からすでに大鵬は無敵でした。柏鵬時代と呼ばれていますが、横綱の柏戸 剛が大鵬に対抗していたのは、私がものごころつく前のことでした。
柏戸は男っぷりもよく、相撲も一直線の豪快な相撲で、人気もありました。とくに祖母、お手伝いで住み込んでおられたKさんが、熱狂的な大鵬のファンでした。
私の記憶にある柏戸は下位の力士に取りこぼしが多く、とても大鵬に対抗できていませんでした。
一方、よく対抗したのが大関の佐田の山でした。しかし大鵬に比べて軽量の佐田の山は、大型力士を苦手としていました。そのため、終盤に大鵬と激突するときはたいてい1敗程度の差がついていました。
それでも1敗の差であれば、佐田の山が大鵬に勝てば優勝のチャンスが生まれます。
ある年の佐田の山と大鵬の取り組みです。
佐田の山が頭で当たって猛然と突き押しで大鵬の上体を起こします。なおも佐田が突っ張ります。
しかし大鵬は下がりながらも、下半身は崩れません。そのうち大鵬は右、左と差し、佐田の動きを止めてゆっくりと 寄り切ります。寄り切って大鵬が勝ちました。
それでも佐田の山は、40年の3月に横綱に昇進しました。大鵬はそれまでに佐田の山と21戦して、1回しか敗けていません。いかに偉大な壁として立ちはだかっていたかわかります。
43年5月に引退した佐田の山のあと大鵬に肉薄したのは、大関玉乃島正夫です。176センチと恵まれない身体ながら、精進を重ね、41年9月場所後に21歳で大関に昇進。42年11月場所よりコンスタントに2ケタ勝利を収めてきました。
そして大鵬が休場した43年5月場所では、13勝2敗の成績で初優勝をとげました。覇者交代かと思われました。
しかし大鵬は休場明けの43年9月場所初日、前頭の栃東に敗れたものの、2日目から連勝を始めました。そして44年3月場所2日目、前頭の戸田に敗れるまで45連勝を記録しました。
私は当時小学校4年生、学校が終わるや真っ先に家のテレビの前に陣取って、相撲を見ていました。この45連勝中も大鵬は危なげなく勝ち進んでいました。応援する玉乃島が、猛然とうわ突っ張りで大鵬の上体を起こそうとするのですが、たくみに差し込まれ逆に玉の上体が起きてしまって勝負ありでした。
とにかく大鵬は強かった。負けなかった。そしてここ一番の相撲では必ず勝ちました。
北の富士と玉の海(玉乃島改め)が同時に横綱となった45年3月場所で、大鵬は全勝の玉の海、1敗の北の富士を連破して優勝を遂げています。この2番の相撲は、絶対負けられないという執念が大鵬を勝たせたのでした。
ところで大鵬には中学3年のときに握手してもらったことがあります。掌がやわらかくておもちのようだったのが強く印象に残っています。
優勝32回、6連覇2回、45連勝の記録、まさしく大鵬の前に大鵬なく、大鵬の後に大鵬なし。不世出の横綱でした。
ご冥福をお祈りします。
2013年1月24日木曜日
フランツ・ファノン
新年あけましておめでとうございます。今年も「坂ブログ」をよろしくお願いします。
新年になって、私のこころをとらえた言葉があります。
「人間に、つまり私自身に絶望しないために」
フランス人で精神科医・革命家である、フランツ・ファノン(1925-1961)の言葉です。
ファノンは、フランス領西インド諸島のマルティニークの出身です。父は黒人奴隷の子孫、母は混血の私生児です。
第二次大戦では、ドゴール将軍の指揮する「自由フランス軍」に参加し、軍功章を受ける活躍を収めています。
戦後はフランス本土に渡り、精神医学、文学、演劇、哲学などを学びました。1951年に精神科医の資格を得て、本土で研修を終えたのち、1953年にフランス領アルジェリアに渡り、ブリダ=ジョアンビル精神病院で医療主任となりました。
1954年、フランス当局に抑圧されていたアラブ人やベルベル人は、1954年にアルジェリア民族解放戦線(FLN)を組織し、11月1日一斉蜂起しました。
これに対し、フランスのピエール・マンデス=フランス内閣は、蜂起の全面鎮圧にあたりました。
この戦争がアルジェリア戦争です。1962年の独立までの8年間に、 FLN側141,000人、フランス国軍28,500人、フランス側について戦ったアルジェリア人(アルキ)は50,000人から90,000人がそれぞれ戦死しました。
ファノンはこの殺戮、とくにフランス国軍のアルジェリア人に対する殺戮に対し、精神病院の職を辞して民族解放戦線に参加することを決意します。
その時書いた辞表の締めくくりの言葉が冒頭の
「人間に、すなわち私自身に絶望しないために」
であったのです。
悲惨な殺戮や、それを見て心を病んでいくアルジェリア人を見て、ファノンは人間に対する絶望を感じていたのでしょう。無力な自分自身にも絶望を感じていたかもしれません。
葛藤の末にファノンが行き着いた答えは、民族解放戦線に従軍することだったのです。
この絶望的状態を見過ごすのではなく、希望に変えるため。ファノンは医師の職をなげうち、革命運動に身を投じました。
この転換こそ 「私自身に絶望しないため」 だったのです。
私も医師として15年間働きました。その中でどうしても医療では救えない、弱者と言われる人たちがいました。子ども、障害者、お年寄り、女性といった人々です。
この人たちを絶望の淵から救うために、私は16年前、医師の職をなげうって政治家に転身しました。
まさに、
「人間に、すなわち私自身に絶望しないために」
でした。
2013年の広島市政に対する私の姿勢は、16年前の原点に立ち返ることです。
今年もどうぞよろしくお願いします。
新年になって、私のこころをとらえた言葉があります。
「人間に、つまり私自身に絶望しないために」
フランス人で精神科医・革命家である、フランツ・ファノン(1925-1961)の言葉です。
ファノンは、フランス領西インド諸島のマルティニークの出身です。父は黒人奴隷の子孫、母は混血の私生児です。
第二次大戦では、ドゴール将軍の指揮する「自由フランス軍」に参加し、軍功章を受ける活躍を収めています。
戦後はフランス本土に渡り、精神医学、文学、演劇、哲学などを学びました。1951年に精神科医の資格を得て、本土で研修を終えたのち、1953年にフランス領アルジェリアに渡り、ブリダ=ジョアンビル精神病院で医療主任となりました。
1954年、フランス当局に抑圧されていたアラブ人やベルベル人は、1954年にアルジェリア民族解放戦線(FLN)を組織し、11月1日一斉蜂起しました。
これに対し、フランスのピエール・マンデス=フランス内閣は、蜂起の全面鎮圧にあたりました。
この戦争がアルジェリア戦争です。1962年の独立までの8年間に、 FLN側141,000人、フランス国軍28,500人、フランス側について戦ったアルジェリア人(アルキ)は50,000人から90,000人がそれぞれ戦死しました。
ファノンはこの殺戮、とくにフランス国軍のアルジェリア人に対する殺戮に対し、精神病院の職を辞して民族解放戦線に参加することを決意します。
その時書いた辞表の締めくくりの言葉が冒頭の
「人間に、すなわち私自身に絶望しないために」
であったのです。
悲惨な殺戮や、それを見て心を病んでいくアルジェリア人を見て、ファノンは人間に対する絶望を感じていたのでしょう。無力な自分自身にも絶望を感じていたかもしれません。
葛藤の末にファノンが行き着いた答えは、民族解放戦線に従軍することだったのです。
この絶望的状態を見過ごすのではなく、希望に変えるため。ファノンは医師の職をなげうち、革命運動に身を投じました。
この転換こそ 「私自身に絶望しないため」 だったのです。
私も医師として15年間働きました。その中でどうしても医療では救えない、弱者と言われる人たちがいました。子ども、障害者、お年寄り、女性といった人々です。
この人たちを絶望の淵から救うために、私は16年前、医師の職をなげうって政治家に転身しました。
まさに、
「人間に、すなわち私自身に絶望しないために」
でした。
2013年の広島市政に対する私の姿勢は、16年前の原点に立ち返ることです。
今年もどうぞよろしくお願いします。
2012年12月6日木曜日
いよいよ質問です
いよいよ12月の10日、今年最後の一般質問に立ちます。30分質問して答弁が30分です。
松井市長は、私の質問だと4,5分の答弁でしょうか。そっけないものになりそうです。また、市長がどの問いに答えるのかわかりません。
質問の内容を紹介します。
1.総合博物館について
これは、広島市の通史すなわち歴史と、自然史の博物館が広島市に無いことについて、質問します。
博物館とは、研究して発表したり論文を書いたり、成果を展示して発表したりする学問の場です。
歴史と自然史を総合した博物館を総合博物館といい、ほとんどの県庁所在地にはあります。
これが広島市に無いのは、文化的に大いなる損失です。博物館を作ってはどうかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
2.平和記念資料館について
これは、以前のブログに掲載したように、資料館が資料の原文を解説文において、意図的に変えたという問題です。原爆投下の対象が、原文ではJapaneseだったのが、資料館の解説ではJapanに変えられていました。
学問の府である平和資料館が、客観的事実に基づかず館の独自の判断で、原文を変えて解説文に載せるのは問題ではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
3.市民の生命の安全について
この中では、①市民の自殺対策、②他殺による死亡者の減少を図ること、③交通事故死亡者の減少を図ることです。
①市内の自殺者数は、2年間で252人から202人に減少しました。今回はいじめから自殺にいたった大津市のようなことを起こさせないよう、健康福祉局と教育委員会で連携せよという質問です。
②市内での他殺者数は減少せず、横ばいです。ゼロにせよとの質問です。
③交通事故の死亡者数も減りません。歩行者、自転車、2輪車、乗用車ごとの細かい対策が必要ではないかという質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長、尾形完治教育長、佐伯克彦市民局長、高井巌道路交通局長です。
4.シンドラーエレベーター社のエレベーターについて
これもブログに書いておりますように、シンドラーエレベーター社のエレベーターが6年間で二人の生命を奪うという、危険極まりないエレベーターだということが判明しました。しかも広島市の西区役所と南区役所に同型の機種が動いています。早く買い換えるようにという質問です。
答弁は藤本誠都市整備局指導担当局長です。
5.児童相談所の充実について
東区光町にある児童相談所が手狭となり、一時保護所についても定員を超えて収容することが度重なっています。今こそ立て替えて、さらに高い機能をもつ児童相談所が、さまざまな児童虐待に対応すべきではないかとの質問です。DVとの関連についても質問します。
答弁は藤田典子子ども未来局長、佐伯克彦市民課長です。
6.高速道路5号線について
高速5号線のうち、東区中山から二葉の里に至る二葉山トンネルは、掘ってみなければ工事費が決定しないというしろものです。さらに、トンネル上部の団地には、多くの家が密集し地盤沈下の影響が考えられます。貧しい広島市の財政から、このトンネルにいくらつぎ込むのかという質問です。
答弁は高井巌道路交通局長、岡村清治財政局長です。
7.福祉行政について
これは、健康福祉局自立支援課の職員4名が、しょうがい者へ介護サービスを支給している 事業所を訪れ、しょうがい者の状況をまったく把握することなく、一方的に「過誤請求であるから減額して請求せよ」と実地指導して、事業所や保護者に大いなる不安と絶望を与えました。この4人は、多岐にわたるしょうがい者の実態をまったく理解していませんでした。福祉行政はこれで良いのか。という質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長です。
8.8月6日の式典の暑さ対策について
今年の8月6日の式典で、意識がもうろうとなった方がありました。きめ細かい熱中症対策を採るべきではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
前向きな答弁をする局長と、しょぼい答弁しかしない局長がいます。自分の守備範囲なのに答弁に立たない逃げ腰の局長もいます。
12月10日の午後2時より一時間です。どうぞ傍聴にお越しください。
松井市長は、私の質問だと4,5分の答弁でしょうか。そっけないものになりそうです。また、市長がどの問いに答えるのかわかりません。
質問の内容を紹介します。
1.総合博物館について
これは、広島市の通史すなわち歴史と、自然史の博物館が広島市に無いことについて、質問します。
博物館とは、研究して発表したり論文を書いたり、成果を展示して発表したりする学問の場です。
歴史と自然史を総合した博物館を総合博物館といい、ほとんどの県庁所在地にはあります。
これが広島市に無いのは、文化的に大いなる損失です。博物館を作ってはどうかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
2.平和記念資料館について
これは、以前のブログに掲載したように、資料館が資料の原文を解説文において、意図的に変えたという問題です。原爆投下の対象が、原文ではJapaneseだったのが、資料館の解説ではJapanに変えられていました。
学問の府である平和資料館が、客観的事実に基づかず館の独自の判断で、原文を変えて解説文に載せるのは問題ではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
3.市民の生命の安全について
この中では、①市民の自殺対策、②他殺による死亡者の減少を図ること、③交通事故死亡者の減少を図ることです。
①市内の自殺者数は、2年間で252人から202人に減少しました。今回はいじめから自殺にいたった大津市のようなことを起こさせないよう、健康福祉局と教育委員会で連携せよという質問です。
②市内での他殺者数は減少せず、横ばいです。ゼロにせよとの質問です。
③交通事故の死亡者数も減りません。歩行者、自転車、2輪車、乗用車ごとの細かい対策が必要ではないかという質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長、尾形完治教育長、佐伯克彦市民局長、高井巌道路交通局長です。
4.シンドラーエレベーター社のエレベーターについて
これもブログに書いておりますように、シンドラーエレベーター社のエレベーターが6年間で二人の生命を奪うという、危険極まりないエレベーターだということが判明しました。しかも広島市の西区役所と南区役所に同型の機種が動いています。早く買い換えるようにという質問です。
答弁は藤本誠都市整備局指導担当局長です。
5.児童相談所の充実について
東区光町にある児童相談所が手狭となり、一時保護所についても定員を超えて収容することが度重なっています。今こそ立て替えて、さらに高い機能をもつ児童相談所が、さまざまな児童虐待に対応すべきではないかとの質問です。DVとの関連についても質問します。
答弁は藤田典子子ども未来局長、佐伯克彦市民課長です。
6.高速道路5号線について
高速5号線のうち、東区中山から二葉の里に至る二葉山トンネルは、掘ってみなければ工事費が決定しないというしろものです。さらに、トンネル上部の団地には、多くの家が密集し地盤沈下の影響が考えられます。貧しい広島市の財政から、このトンネルにいくらつぎ込むのかという質問です。
答弁は高井巌道路交通局長、岡村清治財政局長です。
7.福祉行政について
これは、健康福祉局自立支援課の職員4名が、しょうがい者へ介護サービスを支給している 事業所を訪れ、しょうがい者の状況をまったく把握することなく、一方的に「過誤請求であるから減額して請求せよ」と実地指導して、事業所や保護者に大いなる不安と絶望を与えました。この4人は、多岐にわたるしょうがい者の実態をまったく理解していませんでした。福祉行政はこれで良いのか。という質問です。
答弁は糸山隆健康福祉局長です。
8.8月6日の式典の暑さ対策について
今年の8月6日の式典で、意識がもうろうとなった方がありました。きめ細かい熱中症対策を採るべきではないかという質問です。
答弁は佐伯克彦市民局長です。
前向きな答弁をする局長と、しょぼい答弁しかしない局長がいます。自分の守備範囲なのに答弁に立たない逃げ腰の局長もいます。
12月10日の午後2時より一時間です。どうぞ傍聴にお越しください。
2012年11月25日日曜日
サンフレッチェ広島 初優勝
サンフレッチェ広島が、J1で初優勝を飾りました。リーグ20年目にして日本一です。優勝おめでとうございます。
勝つことは、素晴らしいと感じました。
当日は、朝早くからビッグアーチに出かけました。開門の30分前には到着したのですが、サブグラウンドまで列ができていました。さらに階段の上に100米ほどの列ができ、その列も行き止まりでUターンしており、そこに並びました。
開門の12時から列が動き始めましたが、なかなか進みません。席に着けたのは13時半でした。
試合開始は14時34分なので、カツ弁当を食べて待っていましたが、降って来たのは雨。熱気も冷めるような、つめたい雨でした。
試合が始まり、立ち上がりに固さの見えた広島ですが、高萩が思い切ったシュートを決め、ここからは広島のペース。
清水のセンタリングを石川が頭で落としたところを、青山が落ち着いて決めて2対0。
さらに清水が左からドリブルで切り込んだところ、セレッソ大阪の選手が倒し、PKとなりました。佐藤寿人がこれを決め、3対0でほぼ勝負ありでした。
広島はセレッソを4対1で破りました。その瞬間控え選手がグランドに殺到しました。2位のベガルタ仙台はアルビレックス新潟に0対1で敗れたので、サンフレッチェが優勝したのです。
後からテレビで見ますと、佐藤寿人選手がグランドに泣き崩れていました。つらかったことが思い出されたのだそうです。
私は佐藤選手が好きです。テレビで話を聞いたり、直接会って話をしたりしましたが、こんなまっすぐなスポーツマンらしい選手は他にいません。
彼が引っ張り、後輩の選手たちがまとまって、優勝することができたのだとと思います。
彼から学ぶ点はたくさんあります。まさに広島を代表するサッカー選手です。
勝つことは、素晴らしいと感じました。
当日は、朝早くからビッグアーチに出かけました。開門の30分前には到着したのですが、サブグラウンドまで列ができていました。さらに階段の上に100米ほどの列ができ、その列も行き止まりでUターンしており、そこに並びました。
開門の12時から列が動き始めましたが、なかなか進みません。席に着けたのは13時半でした。
試合開始は14時34分なので、カツ弁当を食べて待っていましたが、降って来たのは雨。熱気も冷めるような、つめたい雨でした。
試合が始まり、立ち上がりに固さの見えた広島ですが、高萩が思い切ったシュートを決め、ここからは広島のペース。
清水のセンタリングを石川が頭で落としたところを、青山が落ち着いて決めて2対0。
さらに清水が左からドリブルで切り込んだところ、セレッソ大阪の選手が倒し、PKとなりました。佐藤寿人がこれを決め、3対0でほぼ勝負ありでした。
広島はセレッソを4対1で破りました。その瞬間控え選手がグランドに殺到しました。2位のベガルタ仙台はアルビレックス新潟に0対1で敗れたので、サンフレッチェが優勝したのです。
後からテレビで見ますと、佐藤寿人選手がグランドに泣き崩れていました。つらかったことが思い出されたのだそうです。
私は佐藤選手が好きです。テレビで話を聞いたり、直接会って話をしたりしましたが、こんなまっすぐなスポーツマンらしい選手は他にいません。
彼が引っ張り、後輩の選手たちがまとまって、優勝することができたのだとと思います。
彼から学ぶ点はたくさんあります。まさに広島を代表するサッカー選手です。
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