2014年11月24日月曜日

高倉健さん

 映画俳優の高倉健さんが亡くなりました。83歳でした。
 健さんは東映の任侠映画でスターへと上り詰めました。

 わたしが何度も見た映画は、東宝の「八甲田山」です。

 日清戦争と日露戦争のあいだに行われた、雪中行軍の大実験である八甲田山踏破。
 弘前31連隊の踏破隊を率いたのが、健さん扮する徳島大尉です。一方の青森5連隊を率いたのは北大路欣也扮する神田大尉です。
 弘前隊が全員無事帰還したのに比べ、青森隊はほぼ全滅という悲劇が展開されました。

 弘前隊が難所にかかった時に案内人を務めたのが、秋吉久美子の演じる地元の少女でした。

 うさぎのように身軽に山を登って行く 少女を、重装備の弘前隊が追いかけます。
 ようやく目的地に達したあと、少女は弘前隊にあいさつをして去って行きます。
 弘前隊はだまってやりすごすのかと思いましたが、健さんは「案内人殿に、かしら右!」と号令をかけ、隊員一同敬礼をして少女を見送ります。

 この時の健さんの表情が、何とも言えず暖かく、秋吉久美子もさっぱりした笑顔でそれに応えていました。
 多くの兵士が凍死するすさまじい映画の中で、こころ温まる印象的な場面でした。

 名優・高倉健さんのご冥福を祈ります。

2014年9月28日日曜日

バリアフリー

9月27日は、友人の付き添いで神戸まで放射線科の学会に行ってきました。

 新幹線での往復で、駅の構内では駅員の方が乗車まで友人の車いすを押してくれました。      
 新幹線に乗る際は車掌さんがホームに出て、多目的室まで押してくれました。多目的室は二人がゆったりすごせる広さで、トイレも友人が一人で用を足せるだけの広さがあり不便は無かったそうです。

 新神戸駅からは車いすのまま乗り込める介護タクシーを利用しました。運転手さんが車いすに乗った友人を車内に乗り込ませてくれました。  

 10分ほどで学会会場です。そこからはわたしが車いすを押す役目です。
 友人が受付をすませ、講演会場に入りました。部屋の両サイドは通路として広く取っており、通路のすみに車いすを止めて受講しました。
 三つの講演あわせて3時間半ほどでした。X線やMRIの画像などが映され、わたしにもなじみのある講演でした。
 友人が聴講したい講演もすべて聴くことが出来、満足した様子でした。

 ただ、会場であるホテルのトイレは旧式でした。車いす用の多目的トイレは無く、通常の個室トイレを二部屋ほど車いす用に改造したものでした。便器の長軸方向と部屋の長軸方向が平行に設計されていたため、車いすから便器の上に移ることが出来ず、たいへん困ったと言っていました。
 しかも、狭い男性トイレの一番奥に設置されていたので、トイレが空くまで待っていなければなりませんでした。

 新幹線が広島駅に着き、新幹線口に介護タクシーが待っていたのでほっとしていると、友人が一言。

「介護タクシーの乗り場に屋根を付けてくれ。」

 その日は晴天でしたが、たしかに雨の日であれば友人もわたしも運転手さんも雨に打たれながら車いすを車内に乗り込ませたことでしょう。

 一般のタクシー乗り場には立派な屋根が付いていました。このようなことは、誰かが声を出さないとそのままなのだと思いました。

西高校の卒業式

 9月28日の日曜日は、広島県立西高等学校の前期卒業式でした。
 西高校は、広島県の西部にある通信制の高等学校です。

 通信制とは「自学自習」を基本として学ぶ学校です。学習は授業・レポート提出・試験からなり、所定の単位数を獲得すれば卒業資格を得ることができます。
 仕事の都合により午前のみ履修する、体調の関係で午後からのみ履修するなどの多様なニーズに応えたカリキュラムになっています。

 広島市立の中学校では、毎年数名の生徒が引きこもりの状況になります。その引きこもりから脱するために家族や教師と進学を考えますが、通信制の高校に進学する生徒が多数います。進学をきっかけに、ひきこもりから脱出するそうです。

 中学校のように毎朝8時半に出かけないといけないのではなく、通信制は自分のペースで時間割を組むことが出来るため、通学することへの苦痛がずいぶん軽くなっているのでしょう。

 28日は7名の卒業生のうち3名が出席していました。
 進学して工学系の仕事に就きたいと挨拶した若者、仕事をしながら通った若者、病気で少し時間はかかったが卒業できてとてもうれしいと語った若者。

 三人とも立派で晴れやかな表情でした。クラスメートや保護者のみなさん、先生方も喜んでおられました。

 ひとりひとり卒業までの年月は必ずしも平坦だったわけではないと思います。しかしそれを乗り越えての卒業です。わたしもこころからおめでとうと言葉をかけました。

2014年9月2日火曜日

延長50回の死闘

 8月31日、延長50回の死闘についに決着がつきました。

 第59回・全国高校軟式野球選手権大会の準決勝、広島県代表・崇徳高校と岐阜県代表・中京高校の一戦は、3対0で中京に凱歌が上がりました。

 一日15イニングを三日間闘って45イニング。さらに四日目に5イニングを闘っての決着です。
中京の松井大河投手は709球、崇徳の石岡樹輝弥投手は689球を投げ抜きました。

 この空前絶後の熱戦は、テレビもラジオも中継しませんでした。残念です。ニュースでほんのさわりが流れただけでした。

 わたしは軟式野球を中学高校とやっていましたので、この試合は非常に気になっていました。もちろん広島県代表である崇徳を応援していました。石岡投手は長髪で、坊主頭がほとんどの高校野球にあってひときわ目を引きました。

 首位に迫ろうとする広島カープと同様に、崇徳の健闘は大規模土砂災害に被災した人たちを勇気づけたことでしょう。おおいに顕彰されるべきだと思います。

 硬式の延長戦の記録は、前身である全国中等野球までさかのぼります。

 1933年(昭和8年)の準決勝は、愛知代表・中京商業と兵庫代表・明石中学の一戦でした。
中京は吉田正男投手、明石は中田武雄投手の投げ合いで、ついに延長25回を迎えました。

 25回表の明石は無得点でした。その裏中京の攻撃、無死一塁からのバントが野選となりました。その後無死満塁となり、一番・大野木のセカンドゴロをセカンドがホームへ高投 。三塁ランナーが生還し中京のサヨナラ勝ちです。

 当時のラジオはこう放送しています。
「二塁セーフ、二塁セーフ」「セーフセーフ。ホームイン。ホームイン。1アルファー対0、1アルファー対0。熱戦25回ついに中京勝ったのであります。」

 25回を超える延長戦は、その後のルール改正のためありません。空前絶後の大記録です。吉田投手は336球、中田投手は247球の熱投でした。

 軟式50回、硬式25回の熱戦は不滅の金字塔と言えましょう。

2014年8月13日水曜日

第1次大戦から100年

 今年は2014年。100年前の1914年に起こった大ニュースは、第1次世界大戦の始ったことです。
 戦地となったヨーロッパでは大きな式典が催されたりしていますが、日本ではほとんど取り上げられていません。

 1914年(大正3年)当時、世界は帝国主義、植民地主義の時代でした。日本は1902年に日英同盟を結び、1904年日露戦争を戦いました。

 一方のヨーロッパでは、1882年にドイツのビスマルクがフランスを孤立させるべく、オーストリア、イタリア間の同盟を結びました。三国同盟です。
 しかし、1890年にビスマルクが失脚すると、1893年にドイツに対抗して露仏協商が結ばれました。
 1902年には仏伊協商が結ばれ、イタリアは三国同盟から事実上脱退しました。
 1904年に英仏協商が、1907年には日露協商と英露協商が結ばれ、英仏露の三国協商がなりました。
 1908年にはオーストリアが旧トルコ領のボスニア・ヘルツエゴビナを合併し、セルビアとの関係は険悪となりました。

 そんな関係の中、1814年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツーフェルジナンド大公夫妻が、ボスニアの首府サライエヴォでセルビア人の青年に暗殺されました。
 この事件が第1次大戦につながるとは、世界中のだれもが想像だにしませんでした。

 1814年7月7日、オーストリアがセルビアに最後通牒を突きつけ、7月28日回答を不服として宣戦を布告しました。

 ドイツは8月1日にセルビアをバックアップするロシア、8月3日にフランス、4日にはイギリスに宣戦布告しました。
ドイツーオーストリア同盟と三国協商側との戦争となりました。
 

 日本は8月15日、ドイツに最後通牒を突きつけ、9月3日に中国山東省の龍江に上陸。11月7日には青島を占領しました。

 あれよあれよと戦線が拡大した原因は、多国間の同盟、協商にありました。

 その後1000万人を超える戦死者を出した大戦は、1917年アメリカの参戦やロシア革命を経て1918年ドイツの敗北で決しました。
 日本は日英同盟の関係で三国協商側につき、 1919年のヴェルサイユ講和会議には連合国の一員として参加しました。

 戦争は終わりましたが1939年には第2次大戦がおこり、平和はわずか20年で終了したのでした。

 現在の安倍内閣は、集団的自衛権の行使可能を閣議決定し、アメリカの艦船が攻撃された時には日本の自衛隊はアメリカ軍とともに他国を攻撃できるとしました。
 

 2国間の同盟ゆえ、アメリカが大戦に参戦した時、日本も第1次大戦の時のように参戦することになるでしょう。。日英同盟の時代、イギリスとドイツが開戦し、日本がドイツ領に攻め込み参戦したことが再現されるのは容易に想像がつきます。

 世界大戦に参戦するというあやまちを繰り返さぬためにも、新しい内閣の下で集団的自衛権を行使しないことを決定するべきでしょう。
 それが広島の願いでもあります。

2014年7月5日土曜日

ワールドカップ

 サッカー・ワールドカップもベスト8が出そろい、佳境に入ってきました。みなさんもそれぞれ応援するチームがあることでしょう。

 わたしが応援しているのは、コロンビアとフランスです。

 コロンビアのMF・ロドリゲスのウルグアイ戦でのシュートは見事の一言でした。MF・クアドラドのサイドからの攻撃も魅力的です。

 フランスはベンゼマ、バルブエナ、ジルー(グリーズマン)の前線3人の切れ味がいいですね。

 と、ここまで書いてきましたが、メンバー表を見ながら名前を書いています。なじみの無い名前で覚えられません。

 かろうじてロドリゲスだけは、耳に覚えがあります。これは野球のヤンキースの4番打者、アレックス・ロドリゲスを知っているからです。

 
 アメリカのFW・デンプシーからは、大正時代にボクシングの世界ヘビー級チャンピオンであったジャック・デンプシーを思い出します。そのすさまじいファイトぶりは、「マナッサのひと殺し」の異名をとりました。

 日本と対戦したコート・ジボアールのMFヤヤ・トゥーレは、隣国ギニア共和国の建国の父、セク・トゥーレ大統領をほうふつとさせます。

 フランスのハンサムな監督デュシャンですが、デュシャンヌ型筋ジストロフィー症という筋肉の力がだんだん衰えていく病気があります。発見したデュシャンヌという神経病理学者にちなんで命名されたと思われます。試験のヤマだったので、忘れられない名前です。

 ドイツの点取り屋ミラーですが、力道山やジャイアント馬場と闘ったプロレスラー、ビッグ・ビル・ミラーのイメージと重なります。 マスクをかぶってミスターXを名乗り、大暴れしました。

 メッシ、ロッベン、クリスチアーノ・ロナルド、ネイマールなどのビッグネームは苦も無く思い出されますが、あとの選手は覚えられません。

 そうそう、ガーナも応援していました。FW・ジャンのスピード感たっぷりのドリブルは非常に魅力でしたが、早々に敗退して、おジャンになってしまったのは残念でした。

2014年6月14日土曜日

サッカースタジアム

 「広島にサッカー専用スタジアムを」
 という署名運動が始まって、二年が過ぎようとしています。

 そんなファンの熱意をよそに、スタジアムの建設を話し合う委員会の議論は、遅々として進んでおりません。先日も建設候補地の絞り込みの作業に入ったのですが、結局一つもしぼれないまま5つの候補地はそのままになりました。

 なぜ遅々として進まないのか。それは松井一實広島市長にサッカースタジアムを建てる気が無いか、あるいは建てる気がほぼ無いかのどちらかです。

 昨年、最終節を残した時点で2位のサンフレッチェ広島。首位・横浜Fマリノスの結果によっては逆転優勝の可能性がありました。
 試合の数日前に松井市長は、公式な席上でこう言ったと聞いています。

「サンフレッチェは2位でええ。優勝したらスタジアムの議論をしないといけないから」

 サンフレッチェの選手、スタッフ、サポーターや多くの市民はこの発言に憤慨して奮起した結果、リーグ二連覇を達成しました。
 松井市長のコメントが起爆剤になって良かったという人もいました。

 その後、松井市長は祝勝会などに顔を出し祝辞をのべていますが、スタジアム建設を進めようという話はしていません。まことに残念です。


 先日、コンパクトなスタジアムがさいたま市の大宮にあると聞き、出かけてまいりました。大宮アルデイージャのホームグラウンド、NACK5大宮スタジアムです。

 スタジアムはJR大宮駅からほど近く、大宮公園の内部にあります。大宮公園は一の宮神社という大きな神社の敷地内にあり、野球場も併設されています。

 定員18000人ほどで小ぶりなスタジアムでしたが、座席とフィールドとの距離が短いことに驚きました。
 タッチラインと観客席との距離は5メートルほど。ボールが観客席に入るのはもちろんのこと、まるで競り合う守備と攻撃の選手も飛び込んでくるような迫力でした。

 小ぶりのスタジアムで良いのなら、市民球場跡地や、基町の中央公園につくるのが最適であると感じました。それならば建設費も安く抑えられるはずです。

 議論を長々と繰り返させて、時間が無くなったから何もつくらないことに決めるという愚挙は、市民全体を愚弄するものと言わざるをえません。