2012年3月31日土曜日

ピー(後編)

前回のつづきです。

 ザ・タイガースは、1968年に入っても「花の首飾り」「シーシーシー」と大ヒットを連発しました。しかし、音楽性を追求していたトッポが渡辺プロのアイドル路線に反発し、69年3月に脱退。ピーもトッポと同様に、事務所との対立を強めていきました。

 このころからピーは髪を伸ばし、表情からは笑顔も消えていきました。
 そしてついに71年1月24日、日本武道館のコンサートを最後にタイガースは解散しました。

 この後、ピーはメンバーと一切の連絡を絶ちました。
 うわさでは高校の教師となり、国語を教えていると聞きました。

 ジュリーはソロ歌手として活躍。サリーは岸部一徳と改名し、俳優として活躍しています。タローは芸能プロダクションの社長。トッポは音楽活動をしているようです。タイガース再結成と称して、何度かコンサートが開かれましたが、ピーだけは参加しませんでした。

 ことしの3月、ジュリーのコンサートに岸部、森本、そして瞳が参加するとテレビ欄にあったのを見て驚きました。
 ピーが出るのかと。

 60歳を超えたタイガースは、舞台でかってのように躍動してました。
 ピーは昔のままの躍動的な演奏で、笑顔で私を楽しませてくれました。そしてソロで「ジャスティン」と言う曲を歌い、ステージ中央で健在振りを見せてくれました。タイガースは解散から40年ぶりに集まったのです。特に、ピーは40年間メンバーの誰とも会っていなかったそうです。

 その後、ピーの自伝を読みました。幼い頃貧しかったピーは、山城高校定時制を中退してバンド活動に没頭しました。タイガース解散後、定時制高校に復学し、一年後に慶応義塾大学の文学部に入学。教員免許を取り、慶應高校で国語、漢文、現代中国語を教えていました。

 彼は「自分はやりたいようにやって来た。」と語っています。ステージに立った彼は、いま本当に満足していることを、笑顔や身体いっぱいのプレイでそのことを表現していました。

2012年3月30日金曜日

ピー(前編)

ピーは、ザ・タイガースのドラマー、「瞳みのる」のニックネームです。
 ザ・タイガースは、1960年代後半に一世を風靡したグループサウンズ(GS)の、旗手とも言うべきグループです。
 メンバーは、ジュリーこと沢田研二(ヴォーカル)、サリーこと岸部おさみ(ベース)、タローこと森本タロー(サイドギター)、トッポこと加橋かつみ(ギター&ヴォーカル)、そしてピーこと瞳みのる。
 5人は、京都の出身、大阪のダンス喫茶「ナンバ一番」で腕をみがいた後、1966年上京、渡辺プロと契約しました。当時のGSといえば、ジャッキー吉川とブルーコメッツやザ・スパイダースが活躍していました。

 67年2月、デビュー曲の「僕のマリー」がヒット、67年には、「シーサイドバウンド」、「モナリザの微笑み」、「君だけに愛を」と大ヒット曲を生み、タイガースは一躍大スターとなりました。日本中、タイガースを知らない人はいないほどの大人気でした。
 当時、ピーは1946年生まれで21歳、ジュリーが20歳、あとの3人も21歳の若い5人組で、それぞれにたくさんのファンがいました。スターを扱った雑誌「週刊明星」のスター人気投票で、5人はすべてベスト10に入り、1位はジュリー、2位がピーでした。

 我が家でも、母、妹がタイガースの大ファンでした。たぶんジュリーが好きだったと思います。もしかすると妹はトッポが好きだったかもしれません。私が8歳、妹が5歳でしたから、いかにタイガースが幅広い層に人気だったか分かると思います。

 私は、5人の中ではピーが好きでした。ほかの4人が髪を長くして、やや暗い表情で演奏しているのに対し、ピーだけはいつもニコニコと笑っていて、細い身体全体を使ったドラムプレイは痛快でした。なんとなく、身近にいるお兄さんという雰囲気でした。

 しかし、タイガースは5人で演奏しているので、一曲のうちピーのドラムはちょっとしか映りません。それでも、かっこいいなと満足していました。

 そんなある日、明治製菓のチョコレートの包み紙を3枚送ると、タイガースの5人それぞれのメッセージを吹き込んだソノシート(ぺらぺらのレコード)が送られてくるというキャンペーンを知りました。
 私はさっそく応募しました。選んだのはもちろん、「電話で話すピー」でした。

  「もしもし、ピーだよ。いま君は何をしてるの。僕は曲を作ってたとこなんだ。」
 
 という調子で、女友達と他愛も無い話をするのですが、ピーの語りはぎごちなく、かえってそれが真面目な人柄を想像させました。何度も何度も、妹とふたりでけらけら笑いながらピーのメッセージを聞いていました。

 続きます。

2012年3月20日火曜日

ハンフリー・ボガード

NHKの衛星放送では、アカデミー賞の受賞作品を放映する番組があります。先日は、ハンフリー・ボガード主演の「黄金」でした。ジョン・ヒューストンがアカデミー監督賞を受賞しています。

 食いつめ者のボガードと友人が、山師の爺さんとメキシコの金山を採掘する話です。砂金を手に入れた三人のうち、ボガードは他の二人がそれぞれ砂金をひとり占めするのではと疑い、爺さんが原住民の子どもを治療しているすきに、友人を撃って砂金を自分のものにします。

 しかし、逃げる途中で山賊に襲われ、ボガードは死んでしまいます。山賊はボガードが袋に入れていた砂金の価値が分からず、殺害現場に捨ててしまいます。そしてボガードが連れていたロバを町に売りにいき、警察に逮捕されます。

 原住民の看病で回復したボガードの友人は、爺さんと砂金を探しに行きますが、その地方特有の砂嵐で砂金は飛び散ってしまいます。それを見ながら二人は大笑いをして、映画は終わります。

 仲間を疑い裏切ったボガードが殺害され。最後まで仲間を信頼していた友人と爺さんが生き残りました。ひとを信頼する美しさがテーマの映画だと思います。
 とにかくボガードの存在感は逸品でした。ボガード49歳の作品でした。

 1942年、イングリッド・バーグマンと共演した「カサブランカ」をはじめ、ローレン・バコールと共演した「三つ数えろ」、キャサリン・ヘップバーンと共演した「アフリカの女王」、オードリー・ヘップバーンと共演した「麗しのサブリナ」、エヴァ・ガードナーと共演の「裸足の伯爵夫人」。
 世界を代表する女優たちと、堂々渡り合いました。
 1999年に全米で実施した好きな男優の第一位は、ハンフリー・ボガードでした。クロコダイルと呼ばれるほど薄気味悪さを感じさせつつ、男の中の男を演じていました。

 ボガードは、残念ながら58歳で亡くなりました。
 今、彼ほど男を感じさせる男優は見当たりません。

 俳優も政治家も、存在感がそして華が無ければ、その仕事に就いた意味を持たないと思います。

2012年3月7日水曜日

予算特別委員会

予算特別委員会の論戦が、2月28日から始まっています。
 ところが、この論戦がまったく盛り上がりません。その原因のひとつに、新任の松井一實市長が答弁に立たないことが挙げられます。
 
 私をはじめ、多くの議員が市長に直接質問しますが、答弁しません。その時に市長がとる態度は次のようなものです。
 市長は、まずは隣に座る佐々木副市長に相談します。佐々木氏は市長に一言ほど返事をして、それから担当の局長に答弁するように指差すなどして答弁をうながします。

 3月2日、私が「市民が市長との面会を希望しているのに、会っても意味が無いとは何事か。」と迫りましたが、市長は駄々っ子のように首を振っていやいやをしました。答弁したのは, 糸山健康福祉局長でした。

 3月6日は藤田博之議員が質問し、「菓子博覧会は、旧市民球場を解体しなくても、出来たのではないか。なぜ解体を進めたのか。市長に聞く。」と迫りました。
 市長は、その長いアゴをしゃくって、担当の片平都市活性化局長に答弁するよう命じました。
 
 すると、藤田氏は「解体の決断は、市長がみずから下したから、市長の答弁を求めます。」と発言し、議員席からも「市長答弁せよ」と声が上がりました。委員長が「市長」と指名したので、ようやく市長が腰を上げました。

 たいした答弁ではありませんでしたが、質問に立つことは、かなりのストレスだったようです。
 市長はその後、中原ひろみ議員の質問の前に突然中座しました。5分ほどで帰ってきましたが、急な腹痛に襲われたそうです。終了後、中原議員に詫びていました。

 市長は傀儡国家の君主。佐々木副市長が、君主をあやつる家臣のトップ。議員席から見ているとそう見えます。
 このトップふたりと、荒本副市長をはじめとして他の局長との間にはかなり距離があるように思われます。この距離の大きさにに、局長たちが戸惑っていることが容易にうかがえます。
 
 松井市政の先行きには、闇が広がっています。