2013年6月26日水曜日

5月21日の救急部長の報告

 5月20日、私は5月17日の深夜に発生した交通事故のことで尾形救急部長と会いました。そして、傷病者の救助に手間取ったこと、市民数名が身体を張って後続車の交通整理にあたったこと、なぜ救急隊は適切な行動を取らなかったのかについて尋ねました。

 尾形救急部長は事件の概要を聞いて、すぐに調査に乗り出しました。
 まず、救急課課長補佐NがE出張所の救急隊長Sから中消防署で聞き取りました。その後、課長補佐のNが隊員のIとSに電話で聞き取ったのだそうです。
 結果を21日に報告してきましたが、その内容は意外なものでした。

「市民Bさんは事故を目撃し、0時37分に119番通報をしました。
E出張所の救急隊は、0時39分に指令を受け0時40分に出動しました。現地到着が0時46分でした。

 現場到着時の状況ですが、歩道側車線の横断歩道上に座り込んでいた傷病者を認めたため、後続の一般車両通過による危険性を考慮し、傷病者の正面に救急車を停車させたそうです。

 ついで隊長Sと隊員Iは、傷病者に繰り返し歩道上への移動を促すも、救急隊を追い払おうと手を振るため、それに連れて少しずつ道路中央部に体が寄り始めたことから、車載の強力ライトを利用し路上に置いて、後続車両に注意喚起を行うなどして安全確保に注意を払った。

 その間、救急車後方で懐中電灯を使用し後続車両への注意喚起を行っている市民の方が何名かいるのを認めた。

 その後パトカーが通りかかったため、警笛等を活用して呼び止め、救急車後方の中央車線に停止してもらったうえ、安全管理を依頼した。 0時55分のことです。」

 尾形救急部長が最後に目を通し、その後に私が受け取った報告書は以上の通りです。

 部長の説明は、AさんとBさんの証言とのっけから食い違っています。私は部長と課長補佐に質問をしました。

「歩道側の車線上に座り込んでいた傷病者をブロックするために、歩道側を救急車が進んだのなら、懐中電灯を振って後続車両に注意喚起していた市民には、気づかなかったのですか。」
「通常、傷病者が座り込んでいる車線の延長上に立って、後続車をブロックするのではないですか。」

 この問いに、二人とも答えることができません。

 Bさんによると、傷病者は初めから歩道から2番目の車線に座っており、Aさんはずっと2番目の車線に立って、後続車をブロックしていたそうです。

「この報告は、虚偽でしょう。」 

 私の指摘により、部長は再度聞き取りをすることになりました。

2013年6月10日月曜日

広島市救急隊の救急活動

 その交通事故が発生したのは、平成25年5月17日午前0時35分頃。場所は西区、平和大通りの東観音交差点でした。
 たまたまその交差点に居合わせた二名の一般市民、AさんとBさんの目撃証言です。

 東から西に進んでいた個人タクシーが、平和大通りを北から南へ横断していた男性をはねました。横断歩道でない場所だったこと、さらに赤信号で(タクシーにとっては青信号)渡っていたので、男性ははねられてしまったのです。
 男性はころころと転がって、歩道から二番目の車線の横断歩道上に倒れました。間もなく起き上がり、あぐらをかいて座りこみましたが立ち上がる様子がありません。
 

 タクシーは現場からすこし左に進んだ車道に停車しましたが、男性は路上に座ったままです。このままでは、続々とやって来る後続車に轢かれるかもしれません。

 そこでAさんは自転車のライトを外し、車道上に出て男性の前に立ちました。そして後続車に向かってライトを振り、男性を避けるように誘導したのです。
 男性は歩道から二番目の車線に座っていたので、Aさんは二番目の車線の男性から十数メートル東寄りに立って誘導し続けました。
 Bさんは携帯電話で119番通報し、現場がどこなのか正確に伝えました。その後はAさんとともに誘導をしていました。

 通報から10分ほどで、救急車が東側からやってきました。N消防署管内のE出張所の救急隊でした。
 救急車は路上にいるAさんとBさんの左側をすり抜けて、一番歩道寄りの車線を直進し、横断歩道の2メートルほど手前で停車しました。2名の隊員が降りてきて、男性のところに近づきました。しかし、男性は助け起こそうとする隊員の手を払いのけ、大声で 「ええけ、ほっといてくれ」 と叫び、その場から動こうとしませんでした。

 その間もAさんは車道上に立って後続車を誘導し、隊員の救急活動を支援していました。しかし、2名の救急隊員は、Aさんの活動に全く気が付いていませんでした。

 隊員が男性の保護に手間取っている間に、隊員の一人が救急車の車内から強力ライトを取り出し、男性の前から後続車に向けて照射しました。
 ちょうどその時、西側からパトカーが事故現場を通りかかりました。隊員の一人が これを呼び止め、現場へ向けUターンさせ、歩道から2車線目に停車させました。
 男性は、ここでようやく後続車からガードされる形となりました。
 警察官の説得で男性はようやく立ち上がり、歩道上に進みました。その時にはAさんは現場を立ち去っていました。パトカーの到着が0時55分、男性が歩道へ移動したのが1時05分でした。
 

 
 救急隊員は、現場に到着した0時46分からパトカーの着いた0時55分までの9分間、AさんとBさんを路上に立たせたまま二人の生命を危機にさらし続けました。

 一方のAさんとBさんは、事故発生直後の0時35分からパトカーが到着した0時55分まで20分間、自らの危険をかえりみず、男性の生命を守りました。
 さらに、本来は市民の生命を守るべき存在である救急隊員の生命をも守りました。

 この話を聞いて、わたしは消防局の尾形昌克救急部長に事実関係を詳細に調査して報告してくださいと求めました。
 

 この報告が波紋を呼ぶことになります。

タクシーのタイヤ痕                     
  (つづく)

2013年6月4日火曜日

町田の民権家ー町田市立自由民権資料館

常設展のポスターです。二段目の一番左の写真が村野常右衛門です。

自由民権資料館です。

 東京都町田市の自由民権資料館を訪問しました。学芸員の松崎さんは、とても丁寧に説明をしてくださいました。
 

 町田市は東京都西端の三多摩地方にあります。明治時代、自由民権運動華やかなりし時代に、拠点となった三多摩です。
 特に、町田からは多くの民権家を排出しました。初代神奈川県会議長の石阪昌孝(当時三多摩は神奈川県)。衆議院議員から財界に転じ、産業育成に貢献した青木正太郎。そして村野常右衛門です。

 村野は石阪や青木らとともに、民権運動のリーダーとして活躍しました。明治18年(1885年)に大阪事件に連座して投獄されましたが、その後は県議となり、さらには衆議院議員となります。

 村野は立憲政友会に所属し、原敬総裁の片腕として活躍します。質屋だった村野は、そろばん勘定に明るく、政友会の会計を担って幾多の総選挙を指揮し勝利に導きました。
 原内閣などの政友会内閣に何度も入閣を要請されましたが、その都度「わたしは大臣の器ではない」と固辞したということです。

 自由民権資料館の立つ場所は、明治16年(1883年)に村野が開いた私塾 「凌霜館」の跡です。村野は、常に後に続く俊才の教育に努めていました。

 学芸員の松崎さんは、民権家ひとりひとりの業績から、彼らにまつわる事件までよどみなく詳しく説明してくださいました。
 

 博物館の存在意義は、ひとえに学芸員にかかっていると言えましょう。
 広島市も博物館の建設を望むものです。学芸員の要請も急務と言えます。

 恥ずかしながら、私は三多摩の民権家の名前を一人も知りませんでした。しかし、村野が戦前に政友会への入党を勧めた人物を知っています。大野伴睦(おおのばんぼく)です。

 大野は、戦前から政友会の代議士として活躍しました。戦後も自由党幹事長として吉田茂首相を支えました。「ばんちゃん」と呼ばれ、庶民派の政治家でした。

 大野には、あるエピソードがあります。ある日、大野のところへ一人の老婦人が訪ねてきました。家の前のどぶ板の整備を、いくら役所に頼んでもやってくれない。なんとかしてほしいと大野にお願いしました。
 大野が即座に役所に電話したところ、役所の課長が老婦人の家に謝罪に来て、さっそく工事にとりかかったということです。

 
 
 よくある話のように思えますが、実は老婦人は大野の選挙区外に住む人でした。
 

 大野の行為は、当たり前のように思いますが、エピソードとして残っているということは、自分の選挙区の世話ばかりする政治家がいかに多いかということを物語っているのでしょう。それは現代の政治家にも言えることです。

 
 大野のような政治家を育てた、村野常右衛門の人柄がしのばれます。