2012年1月27日金曜日

全豪オープン

テニスの全豪オープンで、準々決勝に進出した錦織圭選手(世界ランキング24位)は、イギリスのアンディ・マリー選手(同ランキング4位)に、3-6,3-6,1-6の0-3で完敗しました。

 22歳の錦織選手は、ここ最近で急激に実力をアップし、ランキングも急上昇しました。そして、松岡修造選手以来の四大オープンベスト8に進みましたが、あえなく敗れました。
 実力差ははっきりしていましたが、まだ22歳です。まだまだ強くなって欲しいと思います。

 ベスト4に進んだ日本人選手では、最近では伊達公子選手、戦前はブルドッグの異名を取った佐藤次郎選手、そして日本テニス界の黎明を飾る清水善造選手です。彼らの成績を誰もしのげないというところに、日本のテニス界の底の浅さを感じます。

 特に佐藤次郎選手は、4大オープンで日本人最多の5回のベスト4進出を遂げています。全仏、全英でベスト4に進んだ1933年には、世界ランキング3位にのぼりました。1位のジャック・クロフォード(豪)、2位のフレッド・ペリー(英)をも過去に破っており、世界トップクラスの選手として認められていました。

 佐藤選手は、1934年日本テニス協会からの「国別対抗戦のデビス・カップでは必ず勝て」との強い圧力に耐えかねて、デビス・カップ戦に向うマラッカ海峡の船上から、投身自殺をします。26歳の若さでした。

 テニスの世界大会というと、この佐藤選手の悲劇が思い出されます。
 錦織選手のベスト8進出の記事に、一部の全国紙が佐藤選手と清水選手の業績を載せていました。苦闘した先人の功績を知らしめなければ、現代の日本人にはテニスの4大タイトルの厚く高い壁は理解できないのではないかと思います。

2012年1月22日日曜日

卓球日本選手権

先週ひいた風邪が治りません。体を動かしたいところですが、自宅のテレビで卓球観戦です。
 前回の北京オリンピックで、女子が4位、男子が5位に入ったので、出場選手のプレーは連日テレビで見ていました。
 福原愛選手、平野早矢香選手、水谷隼選手、岸川聖也選手、もちろん前回の日本選手権者の石川佳純選手も、しっかりと顔やプレーを覚えています。

 1月21日、午後から卓球日本選手権が放映されました。
 女子準決勝で対戦したのは、福原選手と平野選手でした。4年前の五輪では平野選手がリーダー格でしたが、今では世界ランキングで福原選手が上回っています。好カードです。

 卓球はサーブを打つまでのインターバルと、一つの打ち合いが終わってからの選手の表情の変化がたいへん面白く、女子選手はかわいい表情をこわばらせ、真剣そのものです。

 特に、平野選手は得意のフォアハンドからのスマッシュが決まると、あごを上げ鼻の線も上に向け、相手をどうだと威嚇します。福原選手はきっと眉根にしわをよせ、唇をへの字に結んでサーブを打ちます。
 この試合は、福原選手が得意のバックハンドに加え、最近磨いてきたフォアからのスマッシュも威力を発揮し、ストレートで平野選手を下しました。

 次は決勝戦。福原選手と石川選手との一騎打ちとなりました。試合開始から、福原選手がフォアとバックのスマッシュが快調で、石川選手をスピードで上回っていました。

 そんな時、ドアホンが鳴りました。出てみると広島刑務所の所長と名乗られます。

「分かりました。降りていきます。」

 と返事しましたが、たまたまオートロックの玄関が開いたようで、3人がぞろぞろマンション内に入ってきました。そして私の自宅がある階まで上がって来ました。失礼だけでなく非常識だと思いました。

 謝罪の言葉を述べられたので再発防止策について聞きましたが、まだ作っていないとの返事でした。今度、刑務所へ再発防止の調査に行きたいというと、いつでも入っていただいて結構ですとあっさり許可してくれました。

 あまり愉快でない気持ちで先ほど切ったテレビのスイッチを入れると、福原選手がインタビューを受けているではありませんか。決勝戦のほとんどは、観戦することができませんでした。

 脱獄囚が逮捕されるまでの間、恐怖を味わわされた多くの市民の気持ちを刑務所への視察ににぶつけてやろうと思います。
 もちろん、決勝戦を見ることができなかった無念さもぶつけます。

2012年1月15日日曜日

刑務所とは

広島を震撼させる事件が起こりました。
 1月11日午前10時40分、中区の吉島にある広島刑務所から40歳の囚人が脱走しました。12日は西区の住宅に空き巣に入るなど、逃走を続けました。13日午後4時30分頃、西区天満町の路上で女性警官から職務質問を受けたところ、本名を名乗り御用となりました。
 
 2日半に及ぶ逃走劇でした。その間、子どもたちの登校や下校時の警戒など、市民は恐怖を感じ続けました。また、連日全国ニュースと地方ニュースで報道され、市民はこの脱獄囚の捕縛に協力したものと思われます。

 しかし、逃走の経路をたどりますと、刑務所がこの囚人が逃走できるようにお膳立てしていたとしか思えません。6メートルある刑務所の塀は、改修工事のため工事用の足場が組んでありました。さらに、接触すると感知するようになっている防犯線の電源は切られていました。
 このため、囚人はやすやすと6メートルの塀に上り、塀の外の路面に飛び降り逃走したのです。
 近所の住民は、この工事用の足場を見て、
「抜け出せるのではないかと不安に思っていたら、やはりこのような事態が起きた」
 と、語っています。

 広島刑務所の山崎秀幸総務部長は、
「危険性が高いと認識していたが、職員に注意を呼びかける程度だった。」
 と、打ち明けています。

 刑務所とは、囚人の身柄を拘束するところです。
 今回の事件は、高い塀に足場を組み、さらに防犯線の電源を切って、「さあ、お逃げください。」と言わんばかりです。
 工事現場の足場を見て、「こりゃあ大事になる。監視を強化せんと。」と誰も思わなかったのです。想像力の欠如であり、無責任の極みであり、無能のそしりを免れません。

 今回の事件で、塀の外の住民の危険に対する感覚と、塀の中の刑務官の持つ感覚とに大きなギャップがあることが分かりました。
 このギャップを埋めるのが、私たち政治家の急務であると思います。

2012年1月12日木曜日

警察とは(その二)

(前回からのつづき)
 
 店の所在地の管轄はどこの警察署か聞くために、まずは中央署に行きました。
 女性の警官が迎えてくれたので、私はたずねました。

「この店はE町にあるのですが、管轄は中央署ですか、南署ですか。」
「少々お待ちください。」

 5分ほど後、女性警官はこう言いました。

「この廊下の突き当たりの右手でお聞きください。」

 上司から、そう言えと言われたのでしょう。たらいまわしにされると思い、私は彼女に言いました。

「あなたにお聞きしたのですから、あなたから管轄の署をお答え下さい。」
「少々お待ちください。」

 今度は10分たっても戻ってきません。放っとかれたので、
「ここの警察は自分の管轄もわからんのか。」
 と、おらんでみました。

 すると、つい立てのうしろから一人の警官が出てきて、自分はT巡査部長であると名乗りました。事情をを説明したところ、

「少々お待ちください。」と言い、私たちの前から去りました。
 ほどなく現れて、南署の管轄であると教えてくれました。さらにこう付け加えました。

「南署の刑事課に行ってください。私から電話しておきます。」

「ご親切に、どうもありがとうございました。」とお礼を述べて、私たちは外へ出ました。

 すぐに南署へ行ったのですが、刑事課は2つありました。T巡査部長はあんまり親切に無いのうと思いましたが、まず刑事第一課へ向いました。
 部屋に入ったところ、8人ばかりの警察官がおり、作業をしたり話し合ったりしていて誰も私たちに視線を向けようとしません。
 
 そこで、
「ただいま中央署のT巡査部長から、こちらに連絡していただいた松坂とOOです。被害届けを出しにまいりましたので、ご対応お願いします。」
 と、おらびました。

 視線はこちらに集中しましたが、誰も対応しようとしません。T巡査部長が連絡していなかったのか、したけれども南署が無視したのか、それは不明です。

「ここの警察は、ご対応していただけないのですか。」とおらんでいると、ひとりの警察官が「こちらへどうぞ」と別室に案内してくれました。彼はY巡査部長と名乗りました。

 二人で1時間話し、Y巡査部長含めて三人の警察官が聞いてくれました。ここで、Y巡査部長は中座しました。五分くらいして戻ってきて、私にこう言いました。

「あなたは、帰っていただけませんか。」

 どうやら、もっと本人と話がしたいということでした。私は了解して外に出ました。Y巡査部長は私を玄関まで送り、この事件についていろいろ話してくれました。
 
 結局、被害届けは受理してもらえませんでしたが、相談に来たことはY巡査部長が記録に残してくれました。
 目的は達し、知人は喜んでくれました。

 それにしても、この警察の対応はどうしたものでしょう。一般市民が一人だけで行っても、とても歯が立たないだろうと思われる敷居の高さです。

 さしものオオム真理教の平田信も、警察の敷居はさぞや高かっただろうと思います。
 警察とは、一体何をするところなのか考えさせられます。

2012年1月9日月曜日

満蒙開拓青少年義勇軍

1931年、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破。これを中国軍の仕業と決め付け、当時、満州を治めていた張学良軍に攻めかかりました。関東軍は瞬く間に満州全土を支配下に置き、1932年に傀儡国家「満州国」を建国しました。
 この間の関東軍の進行はすさまじく、無人の野を行くが如しでした。

 これらは全て、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐の作戦でした。関東軍は、支配下に置いた満州の地から、満州人を追い出しました。そして広大な平野に、日本本土から開拓農民を移住させる計画が立てられました。総勢500万人にのぼる開拓移民団の移住です。 実際の人数は27万人でしたが、いずれも貧農の次男三男たちでした。
 日本にいても食うや食わず、満州で3年辛抱したら40ヘクタールの広大な農地が手に入る。この話にみんな飛びついたのです。

 満州に渡った開拓農民は、もし国境を接するソ連軍が攻めてくれば関東軍と共に戦うことになっていました。その関東軍は、1943年ころから太平洋戦線に転戦し手薄と成りました。

 そこで、1944年6月に全国から15歳の生徒へ呼びかけ、満蒙開拓青少年義勇軍として志願させたのです。86,000人をソ満国境へ配備し、武装したうえで農作業に従事させました。
 1945年8月9日、突如ソ連が太平洋戦に参戦。戦車や機関銃による攻撃で、青少年義勇軍の子どもたちは相次いで倒れました。一緒に戦ってくれるはずの関東軍は、いち早く敵の攻撃を知り、満州南部に撤退していました。

青少年義勇軍や開拓農民は、自分たちで逃げるしか無かったのです。その様子はまるで地獄絵図でした。自分でわが子を殺す母親、濁流の中で流される親子。母親に負ぶさっている間に、息を引き取る子ども。

 私の妻の父は、両親・姉・弟・妹らと、奉天で旅館を営んでいました。中学生だった妻の父は、撫順の飛行機工場で働いていました。工場が閉鎖になり、奉天に戻ると関東軍の司令部と兵舎があり、ソ連が攻めてくれば守ってくれると信じていたそうです。
 ところが、8月10日の朝になると関東軍の兵舎はもぬけのからで、人っ子一人いなかったそうです。ソ連が攻めてくるという情報を得るや否や、奉天を捨てて南へ逃げたのです。

 それからが大変でした。ソ連軍に占領されて捕虜になり、あちこちへ移動させられました。その間、国民党軍の支配下に入ったり、共産軍が入れ代わったり辛苦をなめたそうです。1946年に帰還船で日本に帰国したのですが、幼い弟、妹をはじめ幾人も家族や親類を失いました。

 開拓民は27万人のうち8万人が死亡。青少年義勇軍は8万6千人のうち、2万人が死亡しました。
 関東軍の「五族協和」「王道楽土」の美名にだまされ満州に渡った人たち。彼らの無念を誰が知るものでしょう。

 軍であったり、官であったり。公が民に語るメッセージには、とんでもない嘘があります。 それは戦後60年以上経ち、世紀が変わった現在でも、残念ながら受け継がれている悪しき伝統なのです。

2012年1月8日日曜日

警察とは

昨年12月31日の夜、日本中を震撼させた大事件の容疑者、オウム真理教信者の平田信容疑者(46)が警視庁に逮捕されました。17年間の長きに及ぶ逃亡生活でした。
 
 31日、平田容疑者は新大阪駅から新幹線で上京し、品川駅で下車しました。自首するため、情報提供を呼びかける警察のフリーダイヤルに電話するも、話中でした。
 さればと、大崎署へ向うも玄関の入り方が不明で、110番に電話したところ「警視庁へ行け」と言われ、警視庁に向いました。
 警視庁の玄関には、機動隊の隊員が警備のため立っていましたが、「丸の内署へ行け」と指示しました。丸の内署で応対した女性警察官は「うそだ」と本気にしなかったそうです。その後結局署内に案内され、逮捕となりました。

 私は17年間、駅、交番、役所その他の公共施設で、この平田信の顔をいやと言うほど見てきました。「私はオウムの平田信だ」と話しかけてくれば、私は迷わず警察まで連れて行ったでしょう。

 それが、本人が出頭してもたらいまわしにして身柄を拘束しない。警察とは、何をする機関なのでしょうか。

 私も平田容疑者と同じような目にあったことがあります。
 
 私の知人が、ある店で傷害を受けました。知人は、この店に損害賠償の請求をしようと立ち上がりました。
 弁護士から「警察に被害届けを出したら良い。ただし門前払いされるので、誰かと一緒に行けば良いだろう。」と助言された知人は、同行してくれる相手を探しました。そこで、なぜか私が同行することになったのです。
 (続きます)

2012年1月5日木曜日

ミュンヘンへの道

新年あけましておめでとうございます。今年も坂ブログのご愛読、よろしくお願いします。

 昨年12月31日、バレーボール元全日本監督の松平康隆さんが81歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

 松平さんは、1972年のミュンヘンオリンピックで男子バレーボールチームを世界一の座に押し上げました。
 当時、私は中学2年生でした。日曜日の夜のテレビで、「ミュンヘンへの道」が放映されていました。アニメと実写が組み合わさっていましたが、代表選手が実名で登場し、名前をすぐに覚えてしまいました。

 アタッカーは、森田淳悟・大古誠司・横田忠義・木村憲治で、特に横田と大古は大砲と呼ばれていました。セッターは「世界のセッター」猫田勝敏。猫田は広島市安佐南区の出身で、専売広島(現・JTサンダース)の中心選手でした。

 キャプテンの中村祐造、ベテランのアタッカー南将之、若い嶋岡健治。これらの選手たちは、それぞれがオリンピックのコート上でも大活躍しました。
 特に準決勝の対ブルガリア戦。立て続けに2セット連取されて3セット目も敗色濃厚でしたが、南・中村・西本の起用で盛り返し、勝つことが出来ました。

 ドイツと日本の時差は約11時間ですが、同級生は午前2時頃から始まる男子バレーボールをみんな見ていました。試合終了は5時過ぎ、遅ければ6時でした。
 そのまま登校して居眠りしながら授業を聞いたものですが、授業をする先生もすっかり眠そうでした。

 ここまで日本がひとつになることは、今まで無かったかのではないかという熱狂ぶりでした。それを作ったのは、松平監督だったのです。
 私は「ミュンヘンへの道」を見ながらも、「優勝優勝いうとるが、負けたらどうするんじゃろうか」と思っていました。

 しかし、この番組は松平監督がスポンサーを集めて、テレビ局に製作させた番組だったのです。日本中にこのバレー番組が流れ、日本のトップ選手は国民のヒーローになり、そのファンの後押しで金メダルが取れたのです。この情熱は本当に素晴らしい。

 プロ野球やサッカーなどのスポーツの監督に限らず、総理大臣も広島市長も、松平さんが持っていたような情熱をどこかへ失っているとしか思えません。

 私は12月議会で執拗に松井市長に答弁を求めましたが、答弁はありませんでした。そこには一片の情熱もうかがうことが出来ませんでした。
 広島市を情熱で盛り上げることなど絶望的と言うよりありません。