2010年1月31日日曜日

横浜港














 横浜市の山下公園から海を臨んでいます。山下公園は思い出深い場所ですが、その思い出の景色と、今の景色は大きく変わってしまいました。
  写真右手の氷川丸から、左に伸びているのは埋立地です。山下公園が面している横浜港は、埋立地に囲まれた湖のような有様になってしまいました。
 以前来たときには横浜ベイブリッジも無く、山下公園からは遠く外海が展望できました。海はハワイでもアメリカでも、世界中に通じているんだと実感できたのでした。
 
 丘の上には「港の見える丘公園」があります。ところが今では「埋立地の見える丘公園」になってしまいました。
 横浜のイメージは一変してしまいました。
 それでいいのか横浜。
 300万人も人が住んでるし、暮らしやすい良い街なんでしょう。でも風情とか旅情とか、忘れちゃーいませんか。そう言いたくなります。

 広島市でも、港の目の前に県が産廃の処分場を作ってます。事業仕分けで中止にならないものか、と思うことがあります。
 そもそも大規模な処分場を作るから、リサイクルが進まないのではないでしょうか。
 海を陸にすることには反対です。

2010年1月28日木曜日

右か左か--------段原ブロック会

 広島市南区医師会は地域のブロック会に分かれており、私は段原ブロックに所属しています。このブロック会は2ヶ月に1回会合を開き食事をともにするのですが、高い意識を持った開業医の先生方と話し合いを続けています。
 この議論はなかなか厳しく容赦無いのですが、この中から夜間急病センターの開設や、妊産婦健診の回数増などの意見をいただき、広島市の政策に反映されています。
 
 では医療政策や医学の話ばかりかというとそうでもなく、政治や歴史に始まって、相撲やプロレスと続きます。
 先日も米軍普天間基地の移転問題から、ドラマ「坂の上の雲」の話になりました。その後、外国が日本に攻めてくるという恐ろしい話になりました。私は、経済的にがっちり結びついた日本と中国が開戦するはずはない。また金正日体制の維持が最大の目的である北朝鮮が、他国を攻めるといった愚策を取るはずが無いと話しました。
 
 その後日本が侵略の危機にあったのは元寇と黒船来航だと意見が出ました。そこで私が、663年の白村江の戦いこそ国家存亡の最大の危機だったのですよと話しました。すると、あれは百済の子孫である中臣鎌足が、中大兄皇子をだまして唐・新羅連合軍に戦いを挑ませたのだという珍説が披露されました。
 
 戦争とか国家の危機とかいう話は、なぜか盛り上がります。医者は弱者の味方で左寄りかと思っていましたが、どうも右寄りの人が多いようです。
 
 そういえば、若い頃ドイツ社民党の若い女性党員と話をしたことがあります。
「I'm a doctor. (私は医者である。)」と自己紹介したところ、
「They keep right. (医者は右よりだ。)」と一蹴されたことを思い出しました。
 
 キープ ライトは洋の東西を問わないようです。

2010年1月27日水曜日

3万人の自殺者

 2009年の自殺者は3万2753人で、前年に比べて504人増加しました。これで12年連続で自殺者数は3万人を超えることになりました。東京では山手線・中央線などの幹線が人身事故のため毎日のように遅れますが、そのほとんどは事故ではなくて自殺だそうです。
 
 12年間連続で3万人を超えた原因は、小泉・竹中両氏の新自由主義経済の路線です。このため、解雇・倒産・多重債務などの経済苦を理由とした、働き盛りの男性の自殺が急増しました。
 小泉内閣に始まった新自由主義経済政策は、安倍・福田・麻生それぞれの内閣に受け継がれました。その結果、貧困層は急増し自殺者が減少しない状況を作っています。
 
 昨年政権交代が実現し、鳩山内閣が誕生しました。大型予算を組んで経済対策に意を尽くそうとしていますが、まだ効果は出ていません。
 
 経済対策のほかに、精神疾患の患者さんへの様々なケアを充実させること。
 ひとりひとりを、孤独やひきこもりから引き出すコミュニティづくりなどの施策を充実させること。
 自殺の原因は広範囲に渡っているので、広範の施策が必要になってくるのです。
 
 生活が苦しくても、病苦にさいなまれていても、支えてくれる家族や友人がいれば生きて行けます。家族や友人が、患者を支えられるようにお手伝いするのが政治の役割だと思います。

2010年1月24日日曜日

百人一首

  テレビドラマで百人一首をするシーンがありました。上の句を読み上げる場面で、自然と下の句が口をついて出てきます。「あまつかぜ・・」という上の句を聞くと、「おとめのすがた・・・」という下の句が出てきました。

 百人一首にはたくさんの思い出があります。母は中学時代、ひたすらカルタを取り、全部覚えるほどになっていました。そんな母から手解きを受け、小学生の頃かなり覚えました。源平戦といって50枚ずつ札を手元に広げ、先に50枚取った方が勝ちです。

 中学3年の時古文の授業で、源平戦をやりました。歴史も古典も何でも知っていて、将棋も麻雀も滅法強い友人がいたので、いつも対決していました。
 何度やっても50対45で私の勝ち。勝負事に無敵だった彼の悔しそうな顔が忘れられません。

  ある日、母との対決の日が来ました。お互いに「ハイッ!」「ハイ!」と声を出して札を抑えます。いよいよ49対49で、残り1枚を取った方の勝ちというクライマックスを迎えました。
  読み手の父の声に反応し、カルタを取ったのは私でした。反射神経の勝利だったと思います。両親とも子どもの頃にかえったように、はしゃいでいました。「もう一回しよ。」

 家族との会話が少なかった中学時代でしたが、貴重な思い出となっています。

2010年1月23日土曜日

大相撲初場所



朝青龍



白鵬




 大相撲初場所は、終盤戦を迎えました。12日目まで1敗で並んでいた白鵬と朝青龍の両横綱のうち、安定していると思われていた白鵬が日馬富士に突き落としで敗れ、昨日13日目は魁皇に取ったりで敗れました。昨年6場所90日間でわずかに4回しか負けなかった白鵬が、よもやの3敗を喫してしまいました。
 これで朝青龍の25回目の優勝が近づいてきました。今場所、特に終盤に入っての朝青龍の集中力は素晴らしいと思います。昨日も琴欧州と前廻しの取り合いの中から、とっさに両手で琴欧州の左手首をつかんでかいなひねりで倒しました。
  
 昨年の様子では、覇者交代かと思っていましたが、まだ両横綱鼎立の時代が続くでしょう。双葉山、大鵬、千代の富士はいずれも大横綱でした。しかし彼らの全盛期にライバルとなる力士がいなかったことは残念でした。
 白鵬と朝青龍は、まだ20歳代です。5,6年はライバルとして切磋琢磨してもらいたいものです。

 
 ちなみに、写真は私が撮りました。国技館の2階席で観戦した時のものです。

2010年1月22日金曜日

都市整備公社

 広島市が一時利用の駐車場を保有しているのはご存知かと思います。
 基町の立体駐車場などもそのひとつで、資産は市の所有です。その管理は都市整備公社という市の外郭団体が行っています。 
 このたび、市の駐車場の指定管理者の選定が行われました。多くの駐車場は、ある民間会社が指定を受けました。そのため、都市整備公社の業務が減ることになりました。
 
 そこで、公社の幹部は現在雇用している臨時職員44名をすべて解雇することに決めました。同じ職場で勤務していた、プロパー職員や非常勤嘱託職員は、1名の退職者を除いて全員が引き続き公社で雇用されることになっているそうです。
 ちなみに臨時職員は日当6300円、プロパーは年収600万円、非常勤嘱託は300万円もしくは220万円だそうです。給与に差はありますが、業務内容は一緒だそうです。
 
 昨年12月の市議会総務委員会で、人事課長は「プロパーや非常勤嘱託については、市、公益的法人等が一体となって出来る限りの努力をします。」と答弁しています。
 このたびその答弁に触れ、臨時職員は含まれないのかと人事課長に聞くと、「質問した議員は、臨時職員についてはたずねられませんでした。」と答えました。
 
 なぜ、臨時職員についても同様に救済しないのでしょうか。何か意図があるのかはわかりませんが、とても不公平だと感じました。

2010年1月21日木曜日

国宝不動院



 広島市内に現存する国宝の建造物といえば、東区牛田にある不動院の金堂です。
 毛利輝元の下、外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、寺運も傾いていた不動院を再興しました。さらに豊臣秀吉に依頼し、山口に在った大内義隆建立の金堂を移築させました。1540年頃の建築と言われています。
 金堂は唐様で、鎌倉時代中期に宋から輸入された建築様式です。鎌倉円覚寺の舎利殿も同様の建築物で、こちらも国宝に指定されています。

 不動院の境内には、広島城主福島正則の墓と安国寺恵瓊の墓が近くに建てられています。関ケ原で戦った両雄が、400年たった今、こんなに近くに葬られているとは本人たちもびっくりしていることでしょう。



 不動院の歴史について、市はもっと市民や観光客に情報提供してもいいのではないでしょうか。
 広島市にある数少ない国宝なので、多くの人に参拝してもらいたいと思います。

2010年1月20日水曜日

大震災

 カリブ海に浮ぶハイチで起きた大地震は、1月12日の午後4時53分に発生しました。いまだに被害の全貌は不明で死者も5万人、あるいは10万人に上るといわれています。災害に遭われた方々へのお見舞いと一日も早く救援の手が届くことを祈ります。

 国内では、1月17日阪神・淡路大震災からちょうど15年目を迎えました。神戸市では発生した午前5時46分に、6434人にも上った亡くなられた方々への黙祷が捧げられました。
 当時私は広島県内の総合病院に勤めていました。病院内の宿舎にいたのですが、木造の2階建ての2階で寝ていました。ガガガガガッと短いストロークで揺れ、驚いて跳ね起きたことを昨日のように覚えています。震源は近くかと思ったら、神戸だったことにまた驚きました。

 ハイチの地震は1923年(大正12年)の関東大震災を思い出させます。粉々に倒壊した建物を写真やフィルムで見ましたが何といっても被害が甚大です。東京では、倒壊後の火災が被害を大きくしました。

 広島でも芸予地震が起きました。当時の反省点を忘れず不意の災害に備えていかなければなりません。

新春のあいさつ

 15日の「松坂ちこう 新春のつどい」でのあいさつについて、ここで紹介します。年頭の決意を表明させていただきました


 昨年、広島市にとっての大きな出来事は新球場の建設です。新球場は大変な人気を博して、カープ60年の歴史の中で最高の観客動員を記録しました。その秘密は色々な場所にあります。
 高齢者に配慮した傾斜の緩い座席や階段、そしてスロープ。若者には、臨場感のある傾斜のきつい内野二階席や、パフォーマンスシート。これらは多くの市民の方々からのアイデアを取り入れて完成しました。そのため、市民にとっても深い愛着が生まれているのではないでしょうか。
 
 今年、特に力を入れて取り組む課題は、子ども施策の前進です。児童相談所の一時保護所では、毎日午前中1時間の勉強時間しかありません。一般の小中学校と同様の授業機会が与えられるべきです。数ヶ月間の入所とはいえ、虐待を受けた子どもたちに勉強する習慣をつけてもらうことが大切です。
 それまで必ずしも幸せでなかった人生だったことと思います。しかし、しっかりと学んで社会で生活してもらいたい。皆さんの税金を使わせてもらって、そのお手伝いをしたい。
 それが私の役割だと感じています。

2010年1月18日月曜日

新春のつどい

 15日は、毎年恒例の「松坂ちこう 新春のつどい」を開催しました。




謎めいたあいさつをする清水後援会長。





市政報告をする松坂ちこう
 
広島交響楽団のみなさまによる弦楽四重奏でお楽しみいただきました。

お寒い中、お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。

2010年1月15日金曜日

長く忙しい一日

 今日14日の出来事を振り返ります。議員の正月の忙しさを感じていただければと思います。

 市民団体の方々が親と子への研修を主催しているのですが、マツダ財団への助成金を求めることになりました。そこで広島市教育長の推薦をもらうため、教育長の部屋を訪問しました。団体の方から説明を聞いて、濱本教育長はこころよくサインする事を約束されました。

 次に、明日開く私の「新春のつどい」の件で、デパートで働く友人を訪れ、何を着るか打ち合わせしました。

 ついで市役所に取って返し、宿題をいただいていた市民の方に電話しました。
 広島市都市整備公社という外郭団体があるのですが、公社の仕事が減ってしまったため人員整理することになりました。その際臨時職員が40人ほど整理され、高給を取っている正規職員や、市OBがほとんどをしめる嘱託職員は整理されないということでした。これを疑問に思われてたそうで、引き続き調査することになりました。

 次は毎月定例の相談日です。南区の熊平製作所労働組合を訪れ、組合員の方から相談を受け付けます。今日は前回いただいた課題の返事をしました。引き続き取り組む課題についても話をしました。

 次は明日の「つどい」で司会を担当する友人と、進行の打ち合わせです。広島交響楽団のカルテットによる演奏もあるため、いかにステージを注目してもらうかを相談しました。

 それからは、新年宴会です。まずは、お世話になっている全日通労働組合の旗開きです。ゲストの、地域再生プロジェクトの理事長をつとめる先生と同席させていただきました。
 「広島市は、もっと歴史的な建造物や資料を活用すべきだ。毛利輝元や比治山の陸軍墓地、出汐町の煉瓦倉庫。もっと顕彰し市民に紹介すべきだ。」 
 意気投合し、大変楽しく話させていただきました。

 最後は広島市医師会の新年宴会です。医師会員の先生、病院の院長先生、県や市の行政の方々。たくさんの人たちと新年の賀詞交換です。積もる話もあり、自分の席に座っているよりも挨拶に立ち歩くほうがはるかに長い宴会です。しかし皆さん喜んでいただいて、たくさんの激励をいただきました。

 とても長く忙しく、しかし充実した一日でした。
 たくさんの方々からの激励やご支援をいただいて、今年も前に進んでまいります。

2010年1月14日木曜日

大福茶席と濃茶席

 12日は上田宗箇流のお茶会に招かれ、西区古江東町の上田流和風堂へ行って来ました。同席は25名で、そのうち男性は7名と少数でした。
 
 まず敬慎斎という間で濃茶席(こいちゃせき)です。席順を決められていて、社会的地位の高い年配の男性がトップ、ついで社中で地位の高い年配の女性が2位と3位です。それに続いて男性、そして女性という順でずらりと並びます。
 
 部屋が変わって大福茶席(おおぶくちゃせき)は、和風堂の鎖の間です。炉の中の釜が、天井から鎖で吊り下げてありました。
 この和風堂は、広島藩浅野家家老の上田家の上屋敷にあったのですが、この度復元されました。六畳ほどの部屋の一畳分は周りより一段高くなっており、殿様がお成りの時に座る席です。その上には鐘が吊り下げてあり、柱には撞木(しゅもく)という鐘を突くための棒がかけてありました。お付きの小姓を呼ぶときに使ったものなのでしょう。桃山時代あたりにタイムスリップした気分です。

 大福茶とは普通の抹茶に梅干しと黒豆を入れるもので、おめでたい席で振る舞われるものです。また、最初にいただく濃茶は、茶入れに入った抹茶を全部茶碗に入れ、かきまぜてドロッとなった茶を3~5人で回し飲みするのです。

 ところで、濃茶の席ではいつも思い出す逸話があります。
 
 戦国時代の武将である大谷吉継は、ハンセン氏病を患っていました。
 濃茶の席でのこと。吉継の顔から出たウミが、茶碗の中に落ちてしまいました。それを見ていた大名たちは、茶を飲むふりだけで茶碗を次へ次へと回していきました。
 しかし、石田三成だけは平然と茶碗に口をつけ、何事もなかったように濃茶をごくごくと飲み干したそうです。吉継は三成の行動に感激し、二人の友情は深まりました。そして吉継は関ヶ原の戦いで、三成に殉じて果てたのでした。
 
 差別や偏見が当たり前の時代でしたが、吉継は三成に救われました。また三成も関ヶ原で孤立しがちな中、吉継に救われたことでしょう。
 計算や利害関係のない友情の素晴らしさを表す、とても好きなエピソードです。
 

2010年1月12日火曜日

松本議員の結婚式


 11日は、大変おめでたい一日でした。
 二十歳の長女は成人式に、妻は段原3丁目町内会の新年会に出席。そして私は広島2区選出の松本大輔衆議院議員の結婚披露宴に出席しました。
 
 さすがに現役議員の結婚披露宴となると300名を超える出席者で、一番向こうが見えないほど広い宴会場にたくさんの人が集っていました。
 出席した議員の中でも人気抜群なのは、仙谷由人大臣と蓮舫参議院議員です。二人の席のまわりは、名刺の交換や写真に一緒に納まろうとする人たちで、常に行列が出来ていました。二人は笑顔でひとりひとりと挨拶をかわしていました。さすが民主党の顔として、党の支持率アップに一役買っている人たちだと感じました。
 
 せっかくの機会なので、私も挨拶にいき名刺を渡しました。仙石大臣は、手品のようにパッと名刺を出して握手をしてくれました。そして、「秋葉市長とは今でも親友です。」と一言発して、次の人と握手しました。仙石大臣と秋葉市長は、衆議院の初当選が同期の間柄なのです。
 蓮舫さんと支援者がツーショットで写る際に、写真を撮るのを引き受けたところ、蓮舫さんは名刺を出しながらお礼を述べに来られました。「広島の方々に大変お世話になっています」と、とても初対面とは思えない親しさで一言述べられました。
 
 二人とも、この会話の間10秒もありません。しかし、その短い時間の中で心をつかまれ、お二人から見習う点が数多くありました。
 おめでたいだけでなく、大変ためになった一日でした。

2010年1月11日月曜日

性同一性障害夫婦の子

 「心と体の性別が一致しない性同一性障害だと診断を受け、女性から男性に戸籍上の性別を変更した夫が、第三者の精子を使って妻との間に人口受精でもうけた子を、法務省は『嫡出子と認めない』との見解を示した。」

 朝日新聞の10日付け朝刊第1面に、このような記事が掲載されました。その理由について法務省は、父親が戸籍から元は女性だったとわかるため、遺伝的な父子関係が無いのは明らかだからとしています。
 一方で夫婦間に子どもが出来ない場合、第三者の精子を使う非配偶者間人工授精(AID)では遺伝的な父子関係は無いにもかかわらず、嫡出子として法務省は受理しています。

 これは明らかに性同一性障害者に対する差別と言えます。

 遺伝的な父子関係が無いことが理由ならば、AIDによってもうけた子どもは、全員が嫡出子として認められないことになります。
 法務省は2004年に施行された特例法で、戸籍上の性別変更を認めています。それにもかかわらず、なぜこのような差別的な扱いをするのでしょうか。理由が分かりませんし、理屈も全く通っていません。
 
 社会には、様々な差別を受けている人がいます。差別をし続けている人がいるので、当然のように無くなりません。差別をする理由や背景も様々でしょうが、受ける側のことを考えると決して許されない問題です。
 今回の一件は、国家機関である法務省たるものが、自ら差別して不合理な行政手続きをしているのです。空いた口がふさがりません

2010年1月10日日曜日

プールとフットサルと新年宴会と

 今日は何だか久々の土曜日という感じがしました。
 
 午前中は日ごろの運動不足解消のためプールで泳いできました。魚になったような気分にさせてくれます。

 その後は、フットサルのコーチとミーティングです。いつも的確なアドバイスに、教えられることばかりです。フットサルが趣味ですが、実は私にはサッカーの経験がありません。高校の体育の時間と、大学で学年対抗の試合に出ていたぐらいです。
 その学年対抗の試合のときに、サッカー部にいた友人が私にこうアドバイスしました。
 「松坂、お前バックやってくれ。ほいで球は蹴らんでええけ、フォワードのヤツにつきまとうて邪魔してくれ。それだけでええけたのむで。」
 私はそれを忠実に守り、一度も球に触ることのないままひたすらつきまとっていました。最小失点に食い止めたのですが、サッカー部で固めたフォワードが、絶好の得点機を何度も逸し負けてしまいました。
 サッカーなのにボールに触らなくていいと言われるほどの未熟さでした。しかし、サッカーは少し練習すれば出来るのではないかという気がしていました。
 大学時代からほぼ30年経ちました。2年前に始めたフットサルですが、コーチに教えられながら上達するのが楽しくて仕方ありません。彼の手腕には感服しています。

 夕方からは段原学区子ども会の新年宴会に参加しました。
 宴もたけなわとなって、各テーブルを回った時、若いお母さんたちの所でこのブログやホームページの話をしました。
 「このホームページは3人のスタッフの協力で出来たんですよ。ホームページの作製と写真などの映像担当のスタッフ、衣装をコーディネートしたスタッフ、そしてブログで私の文章を編集するスタッフです。気合入れて作りましたのでぜひご覧になって下さい。」
 と話したところ、さっそく携帯を取り出してブログにアクセスしていただきました。アクセスした時こうおっしゃいました。

 「まるで違う人のようですね。」

 私はブログの出来が素晴らしいとほめられているのか、それとも普段の私はいい印象を持たれていないのだろうか、少し悩んでしまいました。
 特に言葉も無く
「どうぞご愛読ください。」
 とだけ言いました。

 スタッフの3人は喜んでいるのだろうと思いますけれど、少し複雑な気持ちです。


 

2010年1月9日土曜日

1月8日の出来事

  新年も8日が過ぎましたが、大変毎日が長く感じられます。なぜだろうかと思い、8日の一日間を振り返ってみました。
 
 午前中は、医師会の役員を務めておられる先生の診療所へご挨拶に上がりました。といっても診療の合間の15分なので、長居したというほどでもありません。

 昼休みにはデパートに行きました。数年前に着ていたスーツがだぶだぶになったので、リフォームをお願いしました。新春セール中とはいえ、2日や5日に比べればお客さんもぐっと減っていました。おかげで私の友人からゆっくり新商品の説明を受けることができました。彼の知識の豊富さはまさにプロだと思いました。

 次に、中区役所に行き、区政振興課で働いている友人を訪れました。彼女は以前私が勤めていたクリニックのスタッフでした。検査とコンタクトレンズの販売が仕事でしたが、ユニークな接客とてきぱきとした仕事振りは、まさに接客のプロと言えるものでした。今は臨時職員として勤務しており、訪ねると嬉しそうにカウンターに出てきました。役所の仕事は自分に向いていると話しています。
 その合間に、「ちょっと失礼」とカウンターから出てきました。そして、向かいの課で話をしている男性の元に近づき、落ちていたハンカチを拾ってやさしく渡していました。
 このさりげない所作に私はいたく感動しました。このもてなしの心こそ市職員に求めたい部分です。

 その後、教育委員会の特別支援教育課の三村さんを訪ね、次に前の企画総務局長で現在代表監査委員の南部さんを訪ねました。
 難題が発生したときには、三村さんとも南部さんとも激論を交わしながら、事態を好転させてきました。当初は上手く行かないときに、私が激しく攻めたてるものですから、緊張したやりとりを交わしたと記憶しています。お二人は上手く行った事業を振り返って喜んでおられましたが、その余裕ある態度に敬服しました。

 そして、夜は私がお世話になっている運輸労連広島県連合会の旗開きに参加させていただきました。ここでは運輸行政についてざっくばらんな議論が戦わされ大変勉強になりました。大いに盛り上がり、最後に河野副委員長の締めの挨拶となりました。新春らしく干支の話題になりました。

 
「虎と言えば、アニメのタイガーマスクです。」

 盛り上げるため周りの人たちが、
「サンドバッグに~♪」と歌いだしましたが、
「そりゃあしたのジョーじゃ。」というツッコミ。
そもそもタイガーマスクはプロレスで、あしたのジョーはボクシングです。

 ついで、
「虎は生まれたばかりのわが子を、谷に突き落とすそうです。」
という言葉にも、
「そりゃー、ライオンじゃ。」
と的確な指摘が入ります。

「まあ、とにかくおめでとうございます。」

 このようなやり取りが続き、爆笑のなかで手締めをしてお開きとなりました。

 長いブログだと感じられたと思います。毎日、ほんとうに長い一日を過ごしています。

2010年1月8日金曜日

初詣で

 今日は、あいさつ回りの合間に友人と初詣でに行きました。
 本殿前で拝んだ後、絵馬を奉納しました。願掛けののち、絵馬を掛けようとしたところ、友人がこう叫びました。

「こりゃあ、欲張りでしょ。」

 先に掛けられていた絵馬を見ると、家内安全、就職祈願そしてもうひとつ。メジャーデビューする願が掛けられてました。3つの内容はビッグなので、なるほどこりゃ欲張りじゃなぁと思いましたし、神様も大変だと思いました。

 その時私の頭には、急にある曲が浮んできました。新呉節(しんくれぶし)という大正3年のヒット曲で、広島県呉市で盛んに歌われたという別名軍港節です。

 神様も 勝手な願いにあきれてござろー
 火難盗難 チョイト 病難や
 死んでも命の ヨッコリャ あるようにとエ
 投げるまた賽銭が たった5厘 チョイチョイ

 5厘は今でいう5円くらいでしょうか。今でも通じる大正時代の風刺です。

 100円を投げた私のささやかな願いも叶ってほしいですが、この方の願い事も叶って欲しいと思います。
 これだけ多くの願を掛けたのならば、5円や50円どころではなく大枚をはたかれたのでしょうから。

2010年1月7日木曜日

30年のサイクル

 いよいよ新年宴会がスタートしました。今日は連合広島の旗開きと、段原学区社会福祉協議会の新年宴会があり、両方に出席しました。
 
 連合の会では、勤労者福祉功労知事表彰を受けた方に記念品が贈呈されました。その中で、表彰者の一人である田中秀和さんのスピーチがとても印象に残りました。
 田中さんは県庁職員労働組合(県職)の委員長を務め、その後自治労県本部の委員長を務められました。私の政治経歴13年間、すべての期間で支えていただいています。
  
 昨年は政権交代が成りましたが、過去にも政権交代のチャンスがありました。
 1989年に参議院選挙があり、土井たか子委員長の社会党が自民党を破り参院で第一党となりました。翌年の衆議院選挙で社会党が勝てば政権交代が実現していました。
 
 当時、田中さんは労働組合の役員で社会党を支援していました。親戚が静岡におられ、右翼の大立者だったそうです。東京でその親戚と会った時に、田中さんは
「もし政権交代したら、全国の右翼は、左翼の政治家も労組の役員も始末するために動く。だが、下っ端にあんたの始末をさせるわけにはいかない。わしが広島へ行って直接始末する。」
と言われたそうです。もし当時政権が交代していたら、自分はこの場にいなかったとおっしゃっていました。
 当時はそのようなこともあったが、今の状況では右翼が動くとは思えない。それは、社会が変わったからだ。30年のサイクルで変わるのだ、と締めくくられました。
 社会党が参院で勝つまでに10年、それからこの度の政権交代まで20年かかりました。
 
 それにはたゆまぬ努力があればこそです。その努力で県職を力強い組織に変えた、田中さんの言葉は重みを持っています。
 私も田中さんと同様に、常に努力することを忘れずに進んで行きたいと思います。

2010年1月6日水曜日

消防局の危機管理

 5日は広島市の消防出初式が基町の中央公園で開催され、多くの市議会議員と一緒に出席しました。
 各区消防団の分列行進のあとのことです。バリバリバリという爆音とともに、2機のヘリコプターが飛来しました。場内アナウンスはその爆音にかき消されながらも、「危機管理は・・・・」と聞こえました。

 すると隣席から「何が危機管理ね。おかしいよ。」と声が聞こえます。声のほうへ顔を向けると、「あそこを見てご覧なさい。」と言っていました。
 その方向を見てみると、市長、市議会議長そして消防局長、消防団長らの上がっているひな壇の直ぐそばに、ラフなスタイルの男性が近づいてきょろきょろしています。そのそばには消防局の制服を着た隊員が2人、その男性をあえて無視するかのように前を向いて立っていました。議員席の真横や後にもたくさんの消防局の職員が見物していました。
 
 男性のそばの2人は、ひな壇上のVIPを警備する役目を担っているようでした、しかし、2人を含めて誰も危機を認識していません。隣席の声はそれを指摘していたのです。もしも男性が壇上に駆け上がってしまうと、誰も彼の行為を防ぐことが出来無くなります。

 数分たっても状況は一向に変わらないので、私が顔見知りの消防局員に注意をしました。彼は自ら男性のところへ行き、一般席はあちらですと案内しました。男性は黙って後方に下がり、立っていた私の横に移動しました。思わず不審物を持ってないか見てしまいましたが、特に気になる所持品はありませんでした。

 結局事なきを得たわけですが、不特定多数が集まる会場では場内警備はとても重要なことです。消防局は火を消すことと、救急の患者を搬送することだけが仕事だと思い込んでいて、警備はあずかり知らぬことという様子でした。
 危機管理を叫ぶのはいいのですが、その言葉の意味をきちんと理解すべきではないかと思いました。

2010年1月3日日曜日

おめでとうございます

 皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 
 さて、一年の計は元旦にありと申しまして、私も元旦に様々な目標を立てます。しかし、子どもの頃からその通りになったためしはありません。
 ひどい時は、日記をつけようと年末に日記帳を買い求めましたが、元旦につけて二日はつけず、三日どころか一日坊主に終わりました。そんなこんなでいつの間にか元旦には何もしなくなるようになりました。
 
 こういう歌がありました。

「今年こそほんとに うんと働くぞ
そして ああして こうもする
うその行き止まりの 大晦日
なった なった なった
大晦日が お正月に
なってまたおめでたく ブーラブラ」

大正6年のブラブラ節です。

今年こそ、ああして こうもするぞ
と言いながら大晦日になってしまう。

のんきないい歌だと思います。

残念なことは、私の美声で皆さんに
聞かせて上げられないことです。

残念ー、残念ー。

2010年1月1日金曜日

大晦日の挨拶

 20年ほど前、海外へ行く時には大韓航空をよく利用していました。
 大学院の学生時代に海外に行き、日本に帰る前にソウルに降り立った時のことです。金浦空港で「今からツアーに連れて行きますからどうぞ参加ください、料金はいりません。」と声がします。疲れていましたが、ただならばと思い参加したところ、総勢15名ほどの日本人が集まりました。
 
 若い女性のガイドさんが、上手な日本語で説明しますが、私のように今から日本に帰る人や、今からハワイに向かう人、誰もソウル旅行を目的できたわけではありません。後方の座席では皆寝ているようです。誰も何もたずねないので、私が「あのタワーは何ですか。あの建物は?」などとたずねました。
 するとガイドさんから、「ひとつ私からおたずねしてよろしいでしょうか。」と真面目な顔で質問がありました。何だろうと構えていると、「お正月の挨拶は、おめでとうございますですよね。大晦日のご挨拶はなんでしょうか。」
 
 一瞬、はてと思いましたが、「よいお年を、ですね。」と答えました。
 ガイドさんは納得した様子で、「おおそうですね。よいお年を、ですね。なるほど。」と言い、私も「そうです。大晦日に日本人はみんな、よいお年を、と挨拶して別れます。」と二人で笑いました。ガイドさんは、バンさんといって英語、日本語に堪能な才女でした。日本語の試験があるために勉強していたようでした。

 皆様、今年はご愛読いただきありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
それでは、よいお年を。