2013年2月19日火曜日

2月議会の日程

2月の議会、および3月の予算特別委員会の日程です。
25年度当初予算、24年度補正予算などが提案され、審議・議決されます。

2月14日 本会議 市長説明
2月19日 総括質問
2月20日 総括質問
2月21日 総括質問・24年度提案に対する質疑・予算特別委員会の設置
2月22日 常任委員会 (消防上下水、文教、建設)

2月25日 常任委員会 (総務、経済観光環境、厚生)
2月26日 本会議・24年度関係議案の議決

予算特別委員会
2月28日 厚生
3月1日  厚生

3月4日 文教
3月5日 文教
3月6日 建設
3月7日 建設
3月8日 経済観光環境

3月11日 経済観光環境
3月12日 消防上下水道 中学校卒業式のため13時開会
3月13日 総務
3月14日 総務
3月15日 総括質疑

3月25日 予算特別委員会 討論・採決

3月26日 本会議 討論・議決

3月12日は13時開会
それ以外は、10時開会です。
どなたでも傍聴できます。どうぞお越しください。

2013年2月6日水曜日

女子柔道 吉村理事の辞任

 2月5日、全柔連の吉村和郎強化担当理事が辞任しました。女子選手15人による告発は、「前強化委員長」の辞任を求めていました。「前強化委員長」とは、吉村氏のことです。

 吉村氏の本意がどこにあったのか。辞任の記者会見では、はっきりとは明言しませんでした。
 

 ただ、昨年の9月ロンドンオリンピックの後に、強化委員長として臨んだ記者会見では、「辞任するのか」との記者の質問に「おまえら、おれを辞めさせたいんやろ」と反論し、辞任の意思が無いことを明確にしています。
 一方で、期待された女子柔道チームが金メダルわずかに1個にとどまったことについて「自分が責任を取って進退伺いを出す」とも言っていました。しかし、全柔連の幹部の小野沢弘史専務理事によると、吉村氏は進退伺いなど提出していないそうです。

 翌月、吉村氏は新設された全柔連の強化担当理事に就任しました。
 吉村氏のためにつくられたポストです。

 吉村氏は1951年生まれ、1986年に全柔連のコーチに就任して以来27年間全柔連に所属しています。
 1996年に全日本女子チームの監督に就任。2004年のアテネオリンピックでは、女子柔道が金メダル5つを獲得しています。

 きわめて長い間、日本柔道界に君臨してきた指導者であるがゆえに、思うがままにふるまってきました。
 辞任した園田監督は、吉村氏の警視庁柔道部の後輩です。吉村氏が園田氏の指導に影響を与えたことは容易に想像できます。

 15人の告発にあるように、園田前監督の暴力やハラスメントによって、選手は心身ともに傷つけられました。園田氏の行為は、吉村氏そして吉村氏に連なる柔道界の幹部の持つ体質そのものです。
 これを機に、日本柔道界が選手の尊厳を尊重する組織に変わってもらいたいと思います。

 ひるがえって広島市役所も似たような体質にあるといえましょう。
 庁内で多くのパワーハラスメントを見聞きしています。それを見て見ぬふりをする管理職がいます。吉村氏、園田氏のような上司や管理職がたくさんいるのが広島市です。
  

 この際、多くの吉村氏、園田氏には退いていただき、新しい風通しの良い組織に変わってほしいと思います。

2013年2月4日月曜日

園田監督の辞任

 柔道女子日本代表監督の園田隆二氏(39)が2月1日辞任しました。選手への暴力やパワーハラスメントが原因です。

 全国各地でスポーツの監督やコーチによる暴力が明るみに出てきています。
 大阪市立桜宮高校のバスケット部の高校2年生の主将が、顧問の教員から数十発にわたって殴打され、翌日の平成24年12月23日に自殺したこともきっかけの一つでしょう。

 広島市内でも、野球やサッカーの強豪校で暴力が振るわれてきたことを知っています。私の知る限りでは、暴力を振るったとされる監督やコーチは、転勤などの処分(?)を受けています。
 なんとなくうやむやに終わって、表ざたにはならなかったものの、同じ学校では同じ暴力は振るえなくなりました。一応の改善とみて良いでしょう。
 
 

 一方で、桜宮高校の教師は15年以上も在籍して暴力を振るい続けていたといいます。これは異常だと言えます。許されないことです。
 桜宮高校のバスケット部は強豪として名が通っており、バスケットをしたいから桜宮高へ入った生徒もたくさんいます。殴られてもいいから、頑張って良い成績を上げたいという思いを持つ子もいると思います。
 また、暴力を振るったとしても、強いチームに仕立て上げた監督を擁護する保護者もいます。

 それはどちらも間違った考えだと思います。暴力を振るわれてもよいから勝ちたい、上手くなりたいという考えは時代遅れです。
 もしそれで勝ったとしても、誤った認識を持った指導者を育てる一因にもなります。

 そんな中で、柔道のトップアスリート15名が、園田監督の暴力やパワハラを文書で糾弾したことは画期的だと思います。しかも。選手の申し出を無視して、監督をそのまま居座らせようとした全日本柔道連盟やJOCにも、改善を文書で申し入れました。
 選手たちの勇気に拍手を送りたいと思います。

 園田監督が指揮したロンドンオリンピックでは金メダル1個に終わり、マスコミは「惨敗」と表現しました。惨敗の原因は園田監督の指導にあり、その監督が選手に暴力を振るっていたので糾弾されましたという、分かりやすいシナリオです。

 しかし、ちょっと考えてみましょう。
 暴力を振るっていた園田監督のもとで、女子柔道が金メダルラッシュだったらどうなったのでしょうか。暴力が続くことに対し、選手やマスコミはどう反応したのでしょうか。
 

 その答えはわかりませんが、はっきり言えることがあります。金メダルラッシュは、あり得ないことでした。今回の 暴力による指導が、金メダルに価しないことが明らかとなりました。
 

 スポーツの世界での暴力の根絶を、自殺した高校生が願っていたこと、また15名の柔道選手が願っていることは事実です。

 私も根絶を願う者の一人です。

 せめて広島市の学校現場での暴力は、根絶したいと思います。

 

2013年2月2日土曜日

横綱 大鵬

 元横綱大鵬の、納谷幸喜さんが亡くなられました。享年72歳でした。  

 昭和15年に生まれた大鵬は19歳で入幕し、昭和36年9月に21歳3か月で早くも横綱に昇進しました。
 当時私は2歳と6か月。大鵬の横綱昇進の記憶はありません。

 相撲についての記憶にあるのは、大関の北葉山英俊と大関の佐田の山晋松が、ともに13勝2敗で激突した優勝決定戦です。贔屓の佐田の山が北葉山にあっけなく押し出され、悔しかったことを鮮明に覚えています。これが38年の7月場所ですから、38年の1月場所くらいから、テレビの相撲を熱心に見ていたと思われます。

 38年の5月場所は、横綱大鵬が15戦全勝で11回目の優勝を飾りました。なんと6場所連続の優勝でした。6連覇中で、大鵬の敗戦はわずかに7回。大鵬は23歳になったばかりでした。

 このころわたしは4歳。その頃からすでに大鵬は無敵でした。柏鵬時代と呼ばれていますが、横綱の柏戸 剛が大鵬に対抗していたのは、私がものごころつく前のことでした。
 柏戸は男っぷりもよく、相撲も一直線の豪快な相撲で、人気もありました。とくに祖母、お手伝いで住み込んでおられたKさんが、熱狂的な大鵬のファンでした。

 私の記憶にある柏戸は下位の力士に取りこぼしが多く、とても大鵬に対抗できていませんでした。
 一方、よく対抗したのが大関の佐田の山でした。しかし大鵬に比べて軽量の佐田の山は、大型力士を苦手としていました。そのため、終盤に大鵬と激突するときはたいてい1敗程度の差がついていました。

 それでも1敗の差であれば、佐田の山が大鵬に勝てば優勝のチャンスが生まれます。
 ある年の佐田の山と大鵬の取り組みです。
 佐田の山が頭で当たって猛然と突き押しで大鵬の上体を起こします。なおも佐田が突っ張ります。
 しかし大鵬は下がりながらも、下半身は崩れません。そのうち大鵬は右、左と差し、佐田の動きを止めてゆっくりと 寄り切ります。寄り切って大鵬が勝ちました。

 それでも佐田の山は、40年の3月に横綱に昇進しました。大鵬はそれまでに佐田の山と21戦して、1回しか敗けていません。いかに偉大な壁として立ちはだかっていたかわかります。

 43年5月に引退した佐田の山のあと大鵬に肉薄したのは、大関玉乃島正夫です。176センチと恵まれない身体ながら、精進を重ね、41年9月場所後に21歳で大関に昇進。42年11月場所よりコンスタントに2ケタ勝利を収めてきました。
 そして大鵬が休場した43年5月場所では、13勝2敗の成績で初優勝をとげました。覇者交代かと思われました。
 しかし大鵬は休場明けの43年9月場所初日、前頭の栃東に敗れたものの、2日目から連勝を始めました。そして44年3月場所2日目、前頭の戸田に敗れるまで45連勝を記録しました。

 私は当時小学校4年生、学校が終わるや真っ先に家のテレビの前に陣取って、相撲を見ていました。この45連勝中も大鵬は危なげなく勝ち進んでいました。応援する玉乃島が、猛然とうわ突っ張りで大鵬の上体を起こそうとするのですが、たくみに差し込まれ逆に玉の上体が起きてしまって勝負ありでした。

 とにかく大鵬は強かった。負けなかった。そしてここ一番の相撲では必ず勝ちました。
 北の富士と玉の海(玉乃島改め)が同時に横綱となった45年3月場所で、大鵬は全勝の玉の海、1敗の北の富士を連破して優勝を遂げています。この2番の相撲は、絶対負けられないという執念が大鵬を勝たせたのでした。

 ところで大鵬には中学3年のときに握手してもらったことがあります。掌がやわらかくておもちのようだったのが強く印象に残っています。

 優勝32回、6連覇2回、45連勝の記録、まさしく大鵬の前に大鵬なく、大鵬の後に大鵬なし。不世出の横綱でした。
 
 ご冥福をお祈りします。