2011年1月30日日曜日

ザッケローニ・ジャパン、優勝おめでとう

 1月31日の未明、多くの家庭で歓声が上がったと思います。サッカー日本代表が、アジアカップで優勝しました。

 オーストラリアは体力に勝る強豪でした。堅い守備と鋭い攻め上りと高さを活かしたロングボールで、圧倒的に攻め込んできました。
 日本は動きが固く、日本らしい「走ってパスをつなぐサッカー」ができませんでした。後半途中からディフェンスの岩政選手を投入し、サイドバックの長友選手が前線に上がって、サイド攻撃を仕掛けました。

 しかし、決定的なチャンスはオーストラリアに数多くありましたが、決めかねたまま90分を0点で終わりました。

 0対0で延長に突入後、前田選手に替わって起用された李忠成選手が、長友選手のセンタリングを左足でダイレクトにボレーシュート。ゴール左に見事に決まりました。我が家は、息子と私とで大きな歓声を上げ喜びました。

 サンフレッチェ広島の李選手は、韓国籍の在日4世でしたが、日本代表をめざすため日本国籍を取得しました。親戚一同からは猛反対を受けたそうですが、両親が賛成してくれて決めたそうです。
 そのような李選手が、サンフレッチェでの活躍を認められ、日本代表の優勝を決めるゴールを上げたことは、うれしいの一言です。

 ザッケローニ監督は、就任から負けることなくアジアのトップにチームを立たせました。次期ワールドカップに向けて、さらにチームを牽引していってもらいたい。李選手もレギュラーとなって、世界的な大選手を目指して欲しいと思います。


 ザッケローニ・ジャパン、おめでとう。
 
 ところで、私がイタリアに旅行に行ったとき、街の厨房や工房の職人さんにお会いしました。街のおじさんは、みんなザッケローニ監督のように、髪がうすくて笑顔が素敵でよくしゃべります。ザッケローニ監督を見ると、懐かしいイタリアの陽気なおじさんを思い出します。

2011年1月29日土曜日

星亨

 「星亨(ほしとおる)、押し通る。」 とまで言われた政治家、星亨をご存知ですか。

 星亨は、明治時代に活躍した自由民権運動の闘士です。
 星は嘉永3年(1840年)江戸に生まれました。父親は左官の棟梁でしたが、あまりの貧しさに星が生まれてまもなく出奔してしまいました。母が町医者の星泰順と再婚し、星は生きながらえることが出来ました。そして、みずから勉学に励み、陸奥宗光の知遇を得て出世しました

 星は、板垣退助や後藤象二郎らが明治14(1881)年に設立した、自由党に参加しました。党の機関紙の発行を担当していた星ですが、自由党の幹部河野広中と福島県令の三島通庸とが衝突して多くの党員が逮捕された福島事件では、弁護を担当するなど頭角を現しました。

 そして明治25(1892)年に行われた第2回衆議院選挙に当選。召集された第3回帝国議会で、初当選ながら議長に就任しました。
 しかし尊大そのものの星は、明治26年に反対党から不信任案を突きつけられ、採決の結果賛成多数で可決されてしまいました。

 ところが翌日、星は平然と議長席に着きました。驚いた議会は星の7日間の登院停止を決議しました。それでも星は7日後、再び平然と議長席に着いたのです。
 
 この間の星の振る舞いを反対党の機関紙は、「星亨、おしとおる」 と評したのでした。
 結局、議会は星を除名して無理やり議席を奪いました。

 星亨は、これにひるむことなく自由党の中枢に登りつめ、明治33年(1900年)伊藤博文を総裁に立憲政友会を設立し、第4次伊藤内閣の逓信大臣に就任しました。

 明治34(1901)年、星は衆議院議員と兼務していた東京市会議員として、様々な汚職事件に関与し、「公盗の巨魁」 とまでそしられました。
 そしてついに、星を憎む旧幕臣の伊庭想太郎によって、市会で斬殺されました。享年51歳でした。

 星は藩閥の出身でもなく、最貧民の出身ということで,際だつ光を放つ政治家だったといえましょう。
 このリーダーシップとあくの強さは、現在の政治家が失っているものではないでしょうか。

2011年1月28日金曜日

餅つき

 この写真は、見ての通り餅つきをしているところです。
 旭町の小学校で行われたとんど祭りに誘われた時に、餅もついてみなさいと薦められ、杵を持たせていただきました。

 家の近くの公園でも、毎年町内会の方々と一緒に餅つきをします。餅をついていると粘りが強くなって、杵をぺたんと下ろした後、引き上げる時に背中や腰の筋肉に大きな力がかかります。このような時に怪我をしてしまうことが、ままあります。
 危ない瞬間だといつも注意して餅をつきました。

 つきたてのお餅は本当にやわらかく、丸めてすぐのお餅はとてもおいしい。私は特にあん餅が好きです。自分のついた餅は更に格別ですね。

 皆さま、楽しいひと時をありがとうございました。

2011年1月24日月曜日

伊藤博文

 伊藤博文は、明治の大政治家です。
 内閣制度、憲法、議会制度。現代に続いているこれらの制度は、すべて伊藤博文が手がけました。不世出の大政治家と言って良いでしょう。

 山口県熊毛郡の農家に生まれた伊藤は、父が萩の武家に養子に入ったため、足軽の身分になりました。萩市の伊藤の旧家を訪れましたが、一目で家中が見渡せる本当に狭い住まいでした。
 その伊藤は、高杉晋作、木戸孝允、そして大久保利通の知遇を得て、明治14年の政変で明治政府の中心に座りました。
 
 伊藤は本格的な政党を組織しようと、明治33年立憲政友会を組織しました。しかし軍や官僚がこの動きに抵抗し、伊藤は3年で政友会を離れます。
 その後、軍制を敷いた元帥・山縣有朋の直系である桂太郎が首相となり、小村寿太郎外相と日露戦争に突き進みます。伊藤は戦争を回避しようと動いていましたが、流れを止めることはできませんでした。

 日本はその後、韓国の併合に突き進みます。なぜ突き進んだのか、詳しく知りたいのですが、まだよく分かりません。伊藤についての研究がさらに待たれます。
 まだ謎の部分が多いのですが、伊藤は混迷する現代政治に大きなヒントを与えてくれる政治家と思います。

 
 ところが、大政治家という割りに、ドラマなどにおける伊藤のイメージはどうも軽いのです。
 
 明治維新を舞台にした大河ドラマでは、坂本竜馬、西郷隆盛らが重厚に描かれ、伊藤は軽い役者がふんするのです。尾藤イサオ、伊丹十三らが演じていました。

 そんな中、「明治の群像」というドラマで伊藤を演じたのが山崎努でした。ようやく策略家の大物政治家というイメージで演出されたと感じました。
 
 その後、妻を殺害した元勲・黒田清隆(江守徹)と、その後妻(黒木瞳)を描いたドラマでは、伊藤をなべおさみが演じました。顔がそっくりで千円札がそのまま出て来たようでした。
 これには少し笑ってしまいました。
 以後、なべおさみがはまり役となるかと思いましたが、日露戦争を描いた「坂の上の雲」では加藤剛が演じており、真面目な悲壮感漂う伊藤になってしまいました。

 山崎努、なべおさみ、加藤剛。いずれもひとかどの名優ですが、個性も異なるし演出家の描き方もまったく異なります。
 イメージのつかみにくい政治家だと言えましょう。

2011年1月20日木曜日

決算委員会の論戦

 1月20日は、市議会決算特別委員会の総務関係の質疑が行われました。
 各議員は、広島市の不適正経理を取り上げました。ある議員は、決算書の数字をやり変えよと主張しました。別の議員は、市長はじめ市の管理職から集める弁済金について質問しました。また別の議員は、黒字決算なのになぜ市債を20億円発行しなければならなかったのかという質問をしました。

 この三名の議員は、総括質疑など以前の委員会で同様の質問をしています。同じ質問には当然のように同じ答弁が繰り返されます。同じテーマで60分に及ぶ質問と回答を繰り返してるので、まるでテレビの番組の再放送や再々放送を見せられているようです。

 その中で面白かったやりとりは、平木典道議員の質問です。
 
 決算には不用額という金額が示されています。年度内に事業ができなかった執行残と、入札の際予定価格より少ない金額で契約したため、お金が余った入札残などが不用額になります。

 平木議員は、
「不用額の分類はしているのか。不用となった予算は他に多く流用するのか」
と質問しました。
 この質問に対し古川智之財政課長は、
「分類はしていない。また不用額は来年度の貴重な財源となるので、他への流用は極力認めていない」
と答弁しました。この議論はここで終わりました。

 しかし、不適正経理の調査で、いろいろな消耗品を購入する際に他の物品に差し替えて購入したことで「不適正」とされました。流用の手続きをする手間を省くため「差し替え」たという理由でしたが、認められませんでした。

 古川課長の言うとおりだとすれば、消耗品を購入する現場では、流用という手続きを極力避ける事になります。そのため「差し替え」の必要が生じたのではないかと思います。

 私は以前、「不適正経理の再発防止のため、手間はかかっても流用の手続きを取らせよ」と迫りました。
 その際、現場の所管課長は「流用の手続きを取るよう周知したい」と答弁していました。
 しかし、平木議員の質問に対する財政課長の答弁で、流用して良いのか良くないのかが判らなくなりました。
 ともあれ、一番困っているのは現場の職員でしょう。
 
 早急にこの矛盾について質問して行きたいと思います。
  

2011年1月19日水曜日

白鵬、稀勢の里に連敗

 大相撲初場所11日目、横綱白鵬は関脇稀勢の里に突き出され、初日からの連勝は11でストップしました。
 先場所連勝記録を63で止められた稀勢の里に今場所も苦杯をなめました。

 「負けて騒がれる力士になれ」
ある親方が将来有望の力士に言った言葉ですが、白鵬は見事に負けて騒がれる力士となりました。
 負けて騒がれる力士というと、私の記憶では大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍の5人の横綱でしょうか。

 昭和の大横綱双葉山が強かった理由は、同じ相手に続けて負けなかったことです。70連勝を阻んだ安藝の海には、その後二度と負けませんでした。
 そんな全盛期の双葉山を、昭和15年の1月場所と5月場所に連続して倒した力士がいます。五ツ島奈良男(いつつじま ならお)です。

 五ツ島は172センチ、112.5キロと体格に恵まれませんでしたが、常に受けて立つ堂々たる相撲振りでした。本場所ではなかなか力を発揮できず「稽古場大関」というありがたくない異名を持っていました。
 しかし、双葉山を倒した15年の二場所は11勝4敗、13勝2敗と好成績を上げ、ついに16年1月大関に昇進しました。残念ながらけがのため、五ツ島の大関はわずか2場所限りでした。

 しかし、五ツ島の名は双葉山時代を飾った名力士として、燦然と輝いています。

2011年1月18日火曜日

1月決算委員会の日程

 1月に開催されています21年度決算特別委員会の日程です。

 13日(木)  決算総括質疑
 18日(火)  第1分科会 経済環境関係
         第2分科会 厚生関係
 19日(水)  第2分科会 文教関係
         第3分科会 建設関係
 20日(木)  第1分科会 総務関係
         第3分科会 消防上下水道関係
 27日(木)  討論、採決

 本来は、10月にこの決算特別委員会の結論を出すはずでした。しかし、8億円を超える不適正経理が発覚し、21年度決算にも及ぶために異例の事態となりました。

 13日の質疑で碓井法明議員(自民・新政)が、秋葉市長の退任について質問しましたが、市長は21年度の決算審査には直接関係無いと、応じませんでした。若林新三委員長(市民連合)も、答弁を求めませんでした。

 現在、委員会の冒頭で委員長はこのように注意します。
「決算審査の範囲を超えないように質問してください。」

 私が当選したての平成11年には、委員長からこのような発言はありませんでした。
 私は、1年目から所属する決算の分科会で90分の質問を続けました。それまではせいぜい共産党の議員が30分の質問をする程度でした。
 90分の質問をするからには、テーマは多岐に渡ります。追及されて困窮した執行部は、仲の良い主流派の議員たちに働きかけ、なんとか私の質問を止めさせよう、もしくは短くさせようとします。
 その頃から「決算審査の範囲を超えないように」という一言が加わったのです。

 自分たちで厳密な枠を押し付けておきながら、自分たちは自由に聞きたい質問をしようとする。こういった姿勢が保守系の議員に目立ちます。
 それでもそういった専横は通じなくなったのは良いことです。

 それを一部マスコミは理解しておらず、市長は退任について市議会で答えないなどと報道しています。
 誤解をしているとしか言えません。

2011年1月15日土曜日

広島市長選挙

 1月15日に驚くべき知らせがありました。佐伯区選出の市議会議員の桑田恭子さんが、4月に行われる広島市長選挙に出馬されることを表明されたそうです。

 この2期8年間、議員としてご一緒してきました。お互い子どもが2人いて、どちらの子も同い年と言うこともあり、仲良くさせていただきました。

 政治信条は異なりますが、桑田さんには頑張ってほしいです。私ども民主党も、桑田さんに負けない候補者を立てたいと思います。

2011年1月14日金曜日

米銃乱射事件

 1月8日、アメリカアリゾナ州トゥーソンで、民主党の集会に参加していた男性が銃を乱射しました。銃撃されたガブリエル・ギフォーズ下院議員は、頭部を打ちぬかれ重傷です。さらに、集会の参加者6名が死亡、13名が負傷する惨事となりました。

 この事件の背景には、オバマ大統領が進めるさまざまな改革を支持するリベラル派と、これに反対するティーパーティーなどの保守派の対立があります。
 特に、言動が過激な保守派に組するマスコミは、ペイリン前アラスカ州知事をはじめとする保守派の言動をセンセーショナルに報道し、両者の対立をあおったと言われています。

 民主主義は、すなわち言論の政治です。あらゆる暴力は排除されなければなりません。
 しかし、残念なことに有史以来改革を訴えた政治家の多くは、凶弾もしくは凶刃に倒れてきました。

 アメリカでは、アブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディ。
 日本でも、歴史上最大の改革であった明治維新前後には、坂本竜馬、大村益次郎、そして大久保利通らが暗殺されてきました。
 明治時代に入ると、過激派や保守派による民権派への襲撃は、板垣退助、大隈重信、星亨などが標的とされました。
 いずれもその時代における、改革の旗手ともいうべき政治家です。

 改革に反対する勢力があるのは当たり前です。言論の自由とはそういうことです。
 しかし、反対の手段に暴力が用いられるのは決して許される事ではありません。また、反対の論調によって暴力を過剰に煽り立てる一部マスコミが存在することも、歴史が雄弁に物語っています。

 最近の広島市政をめぐる報道も、一方に偏った論調が目立ちます。以前は両論を併記するなど、公正な報道が多かったように思います。
 なぜ偏ってきたのでしょうか。大きな疑問を感じます。

2011年1月11日火曜日

Youtube・秋葉市長不出馬宣言

 今年の市長選不出馬を表明した秋葉市長は、インターネットの動画Youtubeで15分のメッセージを配信しています。
 すでに4万件を超えるアクセスがあり、市長のYoutubeでの宣言を評価する人が296人、評価しない人が67人でした。

 一方で11日のRCCニュースは、以前と同様に不出馬について共同記者会見を開かない秋葉市長を批判しています。
 市民相談センターに寄せられた市民の声は、市長の行動を評価しないという人が多数であったと報道しました。Youtubeで動画を見た人の中では好評価が多いということには触れませんでした。

 これは一方的な市長批判の報道です。

 他のメディアで目立つのは中国新聞です。
 広島市での最高発行部数を誇る中国新聞ですが、秋葉市長のインタビューを得られていません。これを市長による市民への説明放棄という、やや冷静を欠いた論調で書き立てています。

 市長は広島テレビと産経新聞のインタビューには応じています。しかし、どのメディアに対しても、市長は同じ事を同じようにしか語らないでしょう。

 それにもかかわらず、
「あの新聞社にはしゃべったのに、我が社にはしゃべってくれない。けしからん。同じ内容でよいから、わが社にしゃべってくれ。」
という、嫉妬感情のままに記事を書いているように見えます。
 大人の対応とは思えませんし、その新聞しか読まない読者に
「市長がけしからん」
と思わせるのが目的なのだろうと思いたくもなります。

 では、市長がなぜ共同記者会見を開かないか。
 それは、共同会見では自分の真意を伝えてもらえないと語っていることからも明らかです。
 
 各メディアの姿勢にこそ、共同記者会見が開かれない原因があると思います。

2011年1月9日日曜日

スポーツ

 スポーツの効用について語らせていただきます。

 私は学生時代,野球部でした。万年補欠でしたが、くじけず楽しく続けてきました。今も現役のバリバリです。一昨年の大会ではタイムリーヒットを放ちました。昨年はサヨナラ負けの原因となるトンネルをやらかしました。トンネルとはゴロが股の下を通過するエラーで、野球の中でも恥ずかしい部類のプレーだと思われます。

 それと、3年前からフットサルをやっています。狭いコートでのサッカーですが、なかなかハードなスポーツです。へたくその素人ですが、たまに蹴ったボールがゴールの網をゆらすことがあります。始めた頃から考えると奇跡です。

 今日は段原の子ども会の新年会がありました。サッカー部、野球部、剣道部、水泳部、バトン部、音楽部の皆さんがお集まりでした。そこでスポーツの話になると、大いに盛り上がります。ひょんなことから、サッカーの審判をする事になりそうです。資格が無いので、今から講習を受けにいかねばなりません。

 子どもさんがスポーツをされてる方は、ご自身でもでも楽しまれたらいいと思います。
 運動不足の解消などはもちろんですが、脳が活性化されるそうです。

2011年1月5日水曜日

秋葉市長の辞任

 広島市の秋葉忠利市長は、1月4日の挨拶で4月の市長選挙に出馬しないことを表明しました。
 昔の流行語ですが、あっと驚くタメゴローでした。本当にビックリしました。

 私は12年間支えてきたつもりですが、とにかく苦労続きの舵取りでした。
 
 今後はどんな場所で活動されるかはわかりませんが、2020年に向けての核兵器廃絶にお力を注いでいただきたいと願います。

 まだ任期は満了していませんが、長い間お疲れ様でしたと申し上げたいと思います。

2011年1月4日火曜日

坂の上の雲

 ドラマ「坂の上の雲」は好評のようです。特に広瀬少佐の旅順閉塞戦は迫力がありました。

 司馬遼太郎の原作も読みました。しかし、この小説は事実に基づく小説というか詳細な戦記物です。これをドラマにするには少し無理があるようで、どうしても戦争賛美調になってしまいます。原作の精神とはどこか違って来たように感じます。

 戦争を知る世代の人たちによると、あまりに軍人がかっこ良すぎるそうです。実際、本木雅弘や阿部寛の軍服姿は、美しすぎて現実とはあまりにかけ離れています。まさか、かっこ良さだけにあこがれて、戦争の悲惨さを見ようとしない若者はいないとは思いますが。

 そして、このドラマに大きな違和感を感じる理由は、わざわざ3年に分けて放映することです。早く完結させれば良いのにと思いますが、こういう話があります。

 以前、総理大臣であった安倍晋三氏は、在任中「美しい国」という目標を掲げました。そして戦争放棄をうたった憲法9条を改正し、再軍備をもくろんでいました。
 憲法改正には議会の三分の二の賛成が必要です。当時、自公連立政権は衆議院でそれを達成していました。あとは参議院で勝利すれば実現します。参議院で勝利するために3年かかると予想し、安倍総理はNHKに働きかけて「坂の上の雲」を3年かけたドラマに仕立てました。世論を再軍備に誘導するためです。
 しかし、3年前の参議院選挙で自公は敗北しました。その後、安部総理は体調に変調をきたし、志半ばで辞任して憲法改正は議論されなくなりました。
 結局ドラマ「坂の上の雲」だけが、3年に分かれて放映されています。これが大いなる違和感の原因なのです。

 ということなのですが、よくできた話です。

 若い人たちが戦争で死んでいくことには反対です。
 原爆を投下された広島は、国民の先頭に立って平和を希求して行くべきではないでしょうか。

2011年1月2日日曜日

大河ドラマ

 テレビで大河ドラマの特集をやっていました。第1回の「花の生涯」から今回の「江」までで50回の記念番組でした。

 いやあ、懐かしかった。昔の映像もさることながら、その年その年の情景が浮んできました。
 私は1964年の第2回「赤穂浪士」から大河ドラマを見ていた記憶があります。その頃は、祖父、祖母、父、母、兄、妹そして私と一家揃ってテレビの前に陣取って、45分間釘付けになっていました。
 
 知りたがり屋の私は、大人たちにいろいろたずねました。
「義経は舟を飛び移るのに、なぜ平家は飛び移らないのか。」
「信長はなぜ逃げずに火事の中、舞っているのか。」

 これらは歴史的な名場面のため、みんな教えてくれました。
 中でも、一番詳しく教えてくれたのは祖母でした。祖母はその頃視力を失っていましたが、私にとっては何でも教えてくれる先生でした。
 
 弁慶の立ち往生の場面、赤穂浪士の討ち入りの場面、秀吉が死ぬ場面。
 
 テレビの音声を聞きながら、祖母は目を輝かせていました。
 
 今振り返ると、祖母は目が見えないぶん、他の誰よりも想像力を働かせて大河ドラマを見ていたのでしょう。

2011年1月1日土曜日

一月一日

 年の初めの ためしとて
 終わりなき世の 目出度さよ
 松竹立てて 門ごとに
 祝う今日こそ 楽しけれ

 皆さま、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

 家族で初詣に参ってきましたが、夕方だったためか淋しいたたずまいでした。松や竹も、紙に印刷して門口に貼ってあるだけです。
 みんな大晦日まで忙しく働いて、門松を立てるどころではない世の中になったのかと感じました。

 年末年始ぐらいは、ゆっくりと迎えることのできる世の中にならないものでしょうか。