2013年9月29日日曜日

広島カープ、クライマックスシリーズに進出(その1)

 9月25日、広島カープは中日ドラゴンズを2対0で破り、3位以内を確定しました。初のクライマックスシリーズ進出を決めたのです。1997年の3位以来、16年ぶりのAクラス。テレビでは特番を組み、カープファンの歓びに応えました。うれしいかぎりです。

 しかし、いつからカープはこんなに弱くなっていたのか。15年もBクラスを続けていたとは、情けないかぎりです。

 では、強い時代とはいつだったか。
 1975年に初優勝し、1997年に最後のAクラスを記録するまでの23シーズンのうち、なんと19シーズンがAクラスです。そのうち優勝が6シーズン、強かったカープを記録が物語っています。
 ほんとうに強かった。

 カープは、1950年の球団設立以来、ずっとBクラスでした。1967年まで18シーズン連続でBクラスです。
 ほんとうに弱かった。

 そのカープが突如優勝争いに加わったのが1968年のことです。わたしが小学校4年生のことです。

 新監督の根本陸夫のもと、阪神タイガースから「職人」と呼ばれた大打者の山内一弘、内野手の朝井茂治を獲得し、シーズンに臨みました。

 とくに年間防御率が2.91でリーグ2位と投手陣が活躍しました。

 安仁屋宗八は57試合に登板し、32試合に先発、抑えに22試合に登板しました。完投が20試合、313イニングを投げ、23勝11敗、防御率2.07でした。

 外木場義郎は45試合に登板し、うち40試合に先発、 抑えに5試合登板しました。完投が19試合、302イニングを投げ、21勝14敗、防御率1.94(リーグ1位)でした。

 この二人は連日登板して勝利に貢献していました。

 チームはめずらしく4月から快進撃を続け、優勝争いを繰り広げていました。
 7月の23日、24日に行われたオールスター戦は、第1戦が外木場、第2戦が安仁屋といずれもカープの投手が勝ち投手となりました。ひょっとしたら優勝もあるぞという気になったものでした。 

(つづく)


2013年9月19日木曜日

馬場辰猪 その二

 続きです。

 馬場辰猪が守り抜こうとしたのは、自由民権の理念でした。結党して日の浅い自由党を残して藩閥政府の資金で外遊する党首板垣退助の行動は、この理念を運動の内部から腐食させるものと映りました。

 さらに辰猪は、東京大学総理の加藤弘之の挑戦を受けて立ちました。
 

 加藤は福沢諭吉とならぶ啓蒙思想家です。加藤は著書「真政大意」や「国体新論」で、天賦人権論にもとづく自由の精神を紹介しています。

 その加藤は明治14年10月、突如転向を声明し、みずから「真政大意」や「国体新論」を絶版としました。そして明治15年10月、「人権新説」を著し、自由や平等は人間固有の権利ではなく、優勝劣敗、適者生存という進化論にもとづくと論じました。

 つまり、生存競争の勝者である藩閥政府の保証によって、はじめて権利が発生すると述べています。そして天賦人権論を「妄想」と決めつけました。
 この加藤の意見は、数年前に広島市議会で「子どもの権利に関する条例」に反対する一議員の意見を思い出させました。その議員は、子どもの権利が生まれながらに備わっていることについて我慢がならないようでした。

 辰猪は加藤の「人権新説」を批判し、明治16年1月「天賦人権論」を刊行しました。

 加藤は「権利というものは一般に政治権力によって付与される」という議論を繰り返します。

 一方で辰猪は、「主治者が法律を施行するときは、元来人民の幸福を大にするをもって目的となすべきである。これは自然法に基づきて生じ来たるべきものなり。」 と、幸福となる権利は天賦のもの(生まれつきそなわっているもの)であると反論しています。
 
 

 この辰猪の議論は、まったく我が意を得たりというものでした。わたしも議員として、市民の幸福となる権利は元来そなわっているもの と考え行動しています。

 しかし、辰猪は集会条例を適用されて発言の機会を封じられていきます。明治18年11月には爆発物取締法規則違反で逮捕されます。その後明治19年6月にようやく証拠不十分で釈放されます。

 辰猪は発言の機会を求め、釈放の十日後に渡米します。そしてアメリカで藩閥政府批判を繰り返します。しかし、元来の肺患のため、明治21年11月1日フィラデルフィアで死亡します。享年39歳でした。

 遺作「日本政治の状態」の表紙には、「頼むところは天下の輿論(よろん)、目指す仇は暴虐政府」 とローマ字で刷り込みました。文字通り、藩閥政府の打倒に捧げた生涯でした。

 高知市立自由民権資料館の松岡館長は、「講演で辰猪の話をしますと、思わず泣けてくるのです。」 とおっしゃってました。

 わたしも、広島市の偉人や先達の話をするとき、涙を流すくらい偉人の足跡をしっかり踏まえたいと思いました。 まったく辰猪ほど、みずからの思想を一貫して表明し続けた政治家はいません。広島市議会にも、国会にも。

馬場辰猪 その一

 馬場辰猪(ばば たつい)は土佐の人。明治初年に活躍した自由民権運動の運動家であり思想家です。
 私は辰猪のおかげでこの夏の猛暑を乗り切ることが出来ました。というのは、辰猪の伝記を毎晩読んでいたからです。

 辰猪の伝記が猛暑を忘れさせてくれるくらい面白かったのかというと、そうではありません。
 伝記の著者は、歴史家であり評論家の萩原延壽氏です。萩原氏の文章は、たいへん辰猪に対する思い入れに満ちた名文でした。この格調の高さと引用した辰猪の文章の難解さが、わたしを夢の中へいざなったのでした。しかも辰猪の文章はカタカナと漢字で書かれており、慣れない文体はより一層まぶたを重くしたのでした。

 そんなわけで、伝記を読み終わるのに1か月以上かかりました。しかし、じっくり遅読し熟読したため、辰猪はわたしの中で生き続けることでしょう。

 高知市に市立自由民権記念館があり、辰猪の足跡についても詳しく展示されています。このような歴史博物館を広島市に建設するため、この記念館を訪れました。

 辰猪は1850年(嘉永3年)土佐藩上士格の武家の次男として生まれました。満16歳で江戸の慶応義塾に学び、1870年には土佐藩の留学生として渡英しました。海軍機関学の勉強のかたわら、英国の中流家庭の自由主義者との交流を深め、英国の政治制度を学びました。

 1878年(明治11年)に帰国すると、政府に職を求めず、自由民権運動の中心的思想家となりました。1881年(明治14年)には板垣退助を総理とする自由党に参加します。元来英国流の穏健な思想家であった辰猪は、その後藩閥政府による迫害や弾圧を経て、急進的な考えに変わっていきます。

 辰猪は藩閥政府を専制政府と批判しながらも、自由民権運動の内部に大きな危惧を抱きます。そのきっかけとなったのが、1882年(明治15年)に巻き起こった板垣退助の洋行問題です。

 辰猪は、自由党が党勢拡大に全力を傾けなければならない時に、板垣が洋行することは適当でないと批判しています。さらに辰猪は東京在住の数十名の党員とともに、洋行を断念しなければ総理の地位から追放するという告発状を板垣に送付します。

 これに怒った板垣は、辰猪を党の機関紙「自由新聞」から追放し、自身は1882年の11月から翌1883年(明治16年)6月まで洋行します。資金については、藩閥のリーダー井上馨が三井から二万円を引き出し、後藤象二郎の手を経て板垣に渡したということです。

 板垣と自由党に絶望した辰猪は、1883年9月に自由党を脱党します。 (つづく)






高知県の自由民権記念館と筆者

 

 

2013年9月16日月曜日

バレンティンと田中将大

 ヤクルトスワローズのウラジミール・バレンティン選手は、9月15日のヤクルト対阪神戦で、第1打席に、阪神タイガースの榎田大樹投手から今シーズン56本目のホームランを放ちました。

 今までの年間ホームラン記録は55本。王貞治選手(巨人 1964年)、タフィ・ローズ選手(近鉄 2001年)、アレックス・カブレラ選手(西武 2002年)の3選手が達成しています。世界の王はもちろん、ローズ、カブレラ両選手とも、記録した年はチームをリーグ優勝に導いています。

 バレンティン選手は、2011年、2012年ともにホームラン王に輝き、さらにバッティング技術を磨き、新記録を達成しました。
 個人的な感想ですが、55本を放った3選手に比べるとチームの成績が今一つなだけに、バレンティン個人のみに脚光が当たっていたような気がします。
 ヤクルトは、昨年活躍した選手が次々と怪我のため離脱し、優勝どころか3位を争う力もありませんでした。ヤクルトファンには気の毒な1年だったと思います。その憂鬱さをバレンティンが吹き飛ばしました。

 楽天イーグルスの田中将大投手は、 9月13日のオリックス・バッファローズ戦で2失点に抑える完投勝利をあげ、開幕からの連勝を21とし、1957年稲尾和久投手(西鉄)が記録した同一シーズン最多連勝記録20を塗り替えました。

 田中は今シーズン24試合に先発。21試合に勝利し、そのうち8試合が完投勝利でした。6月9日の巨人戦に勝利して以来は、14試合全てに勝利しています。登板すれば当たり前のように勝つ。素晴らしい記録です。
 田中には恵まれた体力と、投げ込むたびに雄叫びをあげる気力とが備わっています。さらに高卒で楽天に入団して以来、野村克也と星野仙一の二人の監督から指導を受けました。佐藤義則投手コーチからは、5年間指導を受け続けています。優れた指導者に恵まれており、その指導を受け入れて自分のものとした田中は立派だと思います。

 日本シリーズは、おそらく巨人と楽天の対戦でしょう。7戦のうち先に4勝したチームが日本一です。
 巨人は内海、杉内、菅野、ホールトンの4人で先発をまわすでしょう。星野監督は田中をどう起用するのでしょうか。初戦の次は第4戦か第5戦か、リリーフでの起用はあるのか。興味はつきません。

 
 
 
 日本シリーズといえば忘れてはならない投手がいます。もちろん稲尾和久です。

 稲尾は1956、1957、1958年の西鉄の3連覇に貢献しました。巨人を4対3で破った1958年の日本シリーズで、7試合中6試合に登板し、西鉄の4勝のうちすべてで勝利投手となりました。
 稲尾はこの活躍で、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれました。

 シーズン最多連勝記録を塗り替えた田中に、日本シリーズでも稲尾の活躍に勝るともおとらぬ素晴らしい成績をおさめてもらいたいと思います。

2013年9月8日日曜日

混戦のセリーグ

 今年のプロ野球、セ・リーグは読売ジャイアンツの独走でほぼ決まり。パ・リーグは首位に立った楽天イーグルスが千葉ロッテマリーンズに迫られましたが、田中将大投手の開幕20連勝の活躍によって2位を引き離し優勝を目前にしています。

 優勝の行方に興味が無くなったので、テレビ各社はプロ野球を報道せず、オリンピック東京開催のニュースばかりです。

 セ・リーグは首位巨人と2位阪神が、それぞれ10をはるかに超える貯金を強みに順位を決定づけています。
 3位以下はいずれも借金10を超えるチームばかりで、それぞれのファンはため息ばかりついてきました。

 しかし、仲良く負け続けた結果、ペナントレース終盤に思わぬ盛り上がりを見せ始めました。
 広島カープ、中日ドラゴンズ、横浜DeNAベイスターズがクライマックス・シリーズをかけて白熱の3位争いを演じているのです。

 9月8日の日曜日、中日はヤクルトの4番・バレンティンに一発を浴びて敗退。横浜は好調の打線が今夜も活発で、広島に大勝しました。
 その結果、3位の広島を2ゲーム差で中日と横浜が追うという展開になりました。

 名古屋の中日ファンにたずねると、いったいどうなってるんやと言っていました。11年連続のAクラスチームのプライドがずたずたにされたという感想でした。

 7年連続Bクラスで、しかもそのうちの6年は最下位の横浜はこの快進撃に盛り上がっています。横浜スタジアムでの土曜日の広島戦ですが、28920人が詰めかけてベイスターズに声援を送っています。
 
 借金14とさんざんですが、3番モーガン、4番ブランコの新戦力に、5番中村紀洋も好調。梶谷、荒波、石川といった俊足の選手たちも力を付けています。投手陣では、新人の三嶋が先発ローテーションの一角をしめ、移籍のソーサが抑え投手として活躍しています。

 横浜を50年以上応援しているファンに聞くと、先発ピッチャーが頼りない、広島の方がええと言っていました。

 借金10の広島カープは15年連続のBクラス。以前は負けると選手に罵声を浴びせていたファンもたいへんマナーが良くなりました。応援して楽しければ良いといった雰囲気です。何年も負け越しが続いているからでしょう。

 去年のカープは全日程終了時で借金10の4位でした。去年と同様の成績ですが、単独の3位です。前田健太、バリントン、大竹、野村の先発陣は安定し、中継ぎ陣も揃って、抑えのミコライオも役割を果たしています。ところが打線に波があり、活発に打つ日と無抵抗の日が極端です。野村監督苦心の打線の組み替えが、まったく機能していません。

 中日が勝ち抜けないため、広島と横浜は幸運なAクラス争いに加わっています。ファンとしても、この行方にしっかり声援を送りたいと思います。

 わたしの理想は、広島、中日、横浜の3チームが熾烈な首位争いをしてくれることですが、長いプロ野球の歴史の中で、そうなったことは無かったようです。
 1997年に1位ヤクルト、2位横浜、3位広島という最終順位だったことがありますが、調べてみるとヤクルトと横浜は11ゲーム差、横浜と広島は6ゲーム差と、争ったとは言えない結果でした。

 しかし、もしも弱小チームの首位争いとなれば、長年の弱小チームファンは東京五輪の百倍は熱狂するのではないでしょうか。