2011年7月6日水曜日

犬養毅

 先日、岡山県の庭瀬にある犬養木堂記念館に行ってきました。江戸時代に建てられた生家と、平成5年に建てられた記念館がありました。特に、生家は代々の庄屋であった犬養家にふさわしい堂々たる建物で、保存状態も良好でした。
 これは犬養の子孫の方々が、岡山県に寄贈したものです。広島市にも加藤友三郎や早速整爾といった大政治家がいましたが、生家は原爆で焼失しました。犬養家が保存されているのは、うらやましい限りです。

 犬養木堂こと犬養毅(1855-1932)は、明治・大正・昭和を通じて活躍した政党政治家です。慶応義塾で福沢諭吉に学び、任官したあと明治14年の政変で大隈重信とともに下野。翌年の立憲改進党設立に参加しました。そして35歳だった明治23年、第1回衆議院選挙に岡山県第三区から当選しました。以降連続19回当選、42年の間衆議院議員として活躍し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれました。

 犬養は、立憲改進党、進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党、革新クラブに所属。政治家としてのほとんどの時間を反政府、野党の党首や幹部として過ごしました。野党の党首として、時の首相に国会で論戦を挑みました。その姿はオオカミとあだ名され、政府首脳に恐れられたものです。

 立憲民政党の濱口雄幸首相に対し、犬養は野党、立憲政友会の党首として質問に立ち、濱口もそれを受けて立ちました。新聞各社はそれぞれのあだなで、ライオン対オオカミの対決と評しました。
 議会の論戦に堪えうる質問や答弁は、学問の素養、日々の研鑽、いかに自分の思いを言葉に込めるかという三点で決まってくるでしょう。

 首相となった犬養は5・15事件で海軍青年将校に射殺されます。撃たれる前に、「話せば分かる」と将校らを諭そうとしましたが、「問答無用」と撃たれてしまいました。心から言葉を尽くせば、将校らを説得できるとの自信を持っていたのです。

 過去の政治家に比べれば、現在の政治家の言葉がいかに軽いことか、嘆かわしい限りです。 このたびの松本龍大臣の被災者に対する言葉、松井一實市長の被爆者に対する言葉。とても政治家の言葉とは思えません。

 松本大臣は早々に辞任しました。松井市長はどうされるのでしょう。
 私は12月の議会で、直接市長に質問します。誠心誠意挑みたいと思います。