2011年12月13日火曜日

李鴻章

12月9日に、市議会で一般質問を行いました。松井市長が広島市の基本計画の内容について、議会の議決を経ずして独断で方針転換したことを、専制政治であると糾弾しました。市長側からは、なにが悪いかと開き直りの答弁が繰り返され、専制政治を否定する答弁はありませんでした。

 専制政治といえば、身近なところでは中国の最後の王朝・清国が浮んできます。
 清国は、20世紀初頭までつづいた大帝国です。李鴻章(りこうしょう)は、その清朝末期に活躍した大政治家です。最近、岩波新書から伝記が出たので、読んでみました。

 李鴻章は安徽省(あんきしょう)の出身です。太平天国の乱に際し、清朝は討伐の軍隊を募りました。それに応じたのが、湖南省出身の官僚、曽国藩(そうこくはん)と李鴻章でした。二人の活躍で乱を鎮定した清朝は、二人を高官に任命しました。以後、李鴻章は32年にわたり、政府の要職を務めます。

 時あたかも同治帝(どうちてい)の時代、政治の実権は帝の生母・西太后が握っていました。つづく光緒帝(こうしょてい)の時代にわたって李鴻章は活躍します。

 当時の清朝こそ、西太后による専制政治の真っ只中でした。憲法も議会もありません。政府の高官は、無能な政治家揃いで、まともな政令ひとつ発せられません。
 そのような状況の中、李鴻章はひとりで政策判断を下し、私費で軍隊を養いました。日清戦争を戦った陸軍は李鴻章の私兵である淮軍(わいぐん)であり、海軍は自ら購入した戦艦の定遠、鎮遠を主力とする北洋艦隊でした。

 終戦後の条約締結でも自ら下関に乗り込み、伊藤博文総理や陸奥宗光外相と会談しています。しかも、この下関条約で割譲した遼東半島を、数日後にはロシア、ドイツ、フランスに干渉させて日本から取り戻させました。三国干渉です。李鴻章は、条約交渉に入る前から三か国に手を回していたといわれています。

 その後も、義和団事変(ぎわだんじへん)の終結後、李鴻章は政府を代表して交戦国11カ国と北京議定書を交わしました。その翌年、1901年李鴻章は死去しました。享年79歳でした。その10年後、1911年の辛亥革命で清朝は滅亡しました。今年はその100周年です。

 その立役者である孫文や蒋介石は、NHKテレビで取り上げられました。
 しかし、李鴻章は全く触れられていません。李鴻章がいなければ、清朝の専制政治はとっくに終了していたことでしょう。

 いまの松井市政には李鴻章ほどの役人は見当たりませんし、市長自身も部下が忠節を尽くすほどの人物でもありません。専制政治が続くには、英邁な君主か、君主を支える功臣がいなければなりません。
 今の市政は長くは続かないでしょう。せめて市民に災いが降りかからないようにすることが、私の務めだと思います。