2010年5月31日月曜日

スポーツと脳

 私は野球やフットサルなどのスポーツが好きで、時間を見つけては参加しています。
 最初は疲れたという気持ちの方が強かったのですが、最近は2時間くらいのプレーの後、何ともいえない爽快感を味わうようになって来ました。
 野球にしてもフットサルにしても、一瞬の判断やひらめきでプレーしています。短時間に脳内に大量の神経伝達物質が駆けめぐっているのではと感じます。

 先日、野球の試合に出場しました。その日初めての打席は、ワンアウト二塁のチャンスで回ってきました。
 初球は外角の直球でストライク。甘い球だったので「しまった」と思いましたが、次の球に準備しなければなりません。2球目は打ち気で構えましたが、低目のボール。ちょっと落ち着きました。ピッチャーは、どんどん投げ込んで来ます。3球目も外角の直球で、叩きつけると打球は高いバウンドで一二塁間を抜けるヒットとなりました。割とスムースにバットが出ました。
 その次のバッターの時に1点が入り、4対1で勝つことができました。

 この1打席、わずか3球の短い時間。その中でも、脳内のいろいろな場所が働いているのでしょう。
 その後は爽快なホルモンが出てきて、たいへんご機嫌になりました。 
 この爽快感はスポーツならではのものだと感じます。 スポーツは最高です。

2010年5月29日土曜日

朴智星(パク・チソン)と前田健太

 先日サッカーの練習にグラウンドに行ってみたところ、誰も来ないので仕方なく帰りました。
 テレビをつけてみると、サッカーの日韓戦。これを見るために練習がなくなったのかと思いました。実際そのようでした。

 見始めた時には、すでに韓国が1点リードしていました。ゴールをあげたのは、キャプテンであるパク・チソン選手です。パク・チソンは、世界最高レベルのイングランド・プレミアリーグで常に優勝を争う、マンチェスター・ユナイテッドのレギュラー選手です。

 プレミア・リーグでも、やたら動き回るパク・チソンはよく目立っていました。この日のパク・チソンは、さらに圧倒的な存在感を示していました。まるで韓国チームのすべてを背負っているかのようでした。混戦で転びそうになりながらもボールをキープし、日本のディフェンスを振り切ってシュートを決めました。
 残念ながら日本チームに、すべてを負うという気概を示した選手はいませんでした。0-2での敗戦も当然のように思います。

 競技を問わず、日本にはチームを背負って立つという選手はいないのでしょうか。

 いました。広島カープの前田健太投手です。

 5月27日のロッテ戦に登板し、強打のロッテ打線を8回まで無失点に抑えました。この日は前田健太ただ一人がロッテに対峙するという様子で、圧倒的な存在感でした。3-0で勝ち、今の時点でチームの20勝のうち8勝を一人で挙げています。

 もし昭和30年代なら毎日のように投げていたでしょうが、さすがに今の時代ではそのようなことはないでしょう。しかし、毎日でも投げる姿を見ていたい、魅力満点の投手だと思います。

 

2010年5月14日金曜日

サム・クック

 黒人歌手、サム・クックのCDが届いたので聴いています。 
 以前テレビでサム・クックが歌っているフィルムを見ましたが、若くスリムで身のこなしも柔らかい、かっこいい歌手でした。黒人歌手というと、レイ・チャールズやスティービー・ワンダーといった、音楽性と生き様にかっこよさを見出す歌手が浮ぶびます。クックはそれに加えて、ルックスにも魅力を感じさせました。

 代表曲 「 A Change is Gonna Come 」 は1964年1月30日の録音です。当時、黒人の公民権運動が盛り上がっていました。暗殺されたマーチン・ルーサー・キング牧師は、その中心人物でした。
 クックも歌手生活の中で、黒人に対してさまざまな差別を味わっていました。黒人の解放を願って作った曲が、この「A Change is Gonna Come」でした。力強く、そしてやさしく歌い上げています。
 しかし、クックはほどなくその生涯を終えます。売春婦と一緒に逗留したラブホテルで、管理人の女性に撃ち殺されるのです。その原因は未だに謎とされています。

 
 話は変わりますが、広島市の課題のひとつが、「子ども条例」の制定です。議会にも反対意見があり、市民の間にも反対意見があります。彼らはこう主張します。
「子どもは未熟な存在だ。だからわれわれ大人が保護してやるのだ。」
「分別の無い子どもに権利など与えては、世の中がとんでもないことになってしまう。」

 しかし、考えてみてください。
「子ども」を「黒人」「女性」「平民階級」「奴隷」という言葉に置き換えてみましょう。どこかで聞いたような言葉ばかりではないでしょうか。彼、彼女らも、言われなき差別と戦ってきました。

 「子ども条例」に反対する人たちの主張を聞くたびに、私は差別と闘ってきた人たちを思い浮かべます。条例反対派は「黒人」「女性」「平民階級」「奴隷」たちの権利も、認めたくないと主張している様に聞こえます。
 さまざまな解放の歴史の中、なぜ子どもだけは別なのでしょうか。それとも今までの解放の歴史を否定するのですかと問いたくなります。

2010年5月13日木曜日

清水善造

 前回は日本歴代最高のテニス・プレーヤーであるブルドッグ佐藤について書きました。その佐藤の先輩に当たるのが清水善造です。清水は群馬県出身で東京高商(現・一橋大学)へ進みました。1921(大正10年)には世界ランキング第4位にランクされています。
 
 軟式テニスから硬式に転向した清水は、1920年(大正9年)ウィンブルドンでの全英オープンに出場しました。あれよあれよと勝ち進み、前年度の優勝者への挑戦者決定戦に臨みました。対戦相手は当時世界一の強豪、ビル・チルデン(米国)。チルデンはテニス愛好家がよく着用するチルデンセーターにその名を残しています。
 清水は4-6,4-6と2セットを失いますが、3セット目に清水は猛然と反撃に移ります。6-7と追い上げて迎えた第14ゲーム、ラリーの応酬から清水は右コーナーへするどいドライブショット。これをチルデンはかろうじて拾い、ボールはふらふらっと上がりました。
 この時、チルデンは足をもつれさせて転倒してしまいました。コートの左はがら空きです。
 ところが、清水は左に打たず、右に弱いボールを打ちました。立ち直ったチルデンは、これを激しく叩き返しポイントを取りました。清水はこの時、左に強く打ち込むか、裏をかいて右に打つか迷ったそうです。中途半端なショットだったのです。
 
 しかし観客はこの時総立ちになって清水のプレーに拍手を送ったのです。このセットは結局チルデンが11-13で取り、3-0で勝ちました。
 
 清水が打った弱い球は、後日大きく取り上げられました。1933年(昭和8年)、なんと国定教科書に掲載されました。この弱いボールこそいわゆる「武士の情け」。 「日本人」の武士道精神のあらわれであり、「日本男児」の名誉であると国粋主義の高揚に利用されました。会場で賞賛されたのは、「清水のプレー」だったのですが。
 おおらかであったデモクラシーの大正時代から、ナショナリズムが高揚した昭和へ。個人を尊ぶスポーツの精神はあたかも悪であるかのように扱わました。何においても国家が個人に優先する時代でした。

 現在でも、オリンピックやワールドカップなどに過剰なナショナリズムが垣間見られます。個人、あるいはチームの栄誉がすなわち国威の発揚となり、負けてしまうと国家の恥であるという意見や論調が一部にみられます。
 清水が利用され、佐藤が犠牲になった時代へ引き戻そうとでも言うのでしょうか。
 
 広島市議会も最近ナショナリズムの高揚を目指す動きがあり、その先行きが懸念されます。
 国際平和文化都市広島を変容させないように、頑張ってまいりたいと思います。

2010年5月12日水曜日

ブルドッグ佐藤

 最も世界で活躍した日本人テニス・プレーヤーというと、誰を思い浮かべられますか。私はなんといっても伊達公子選手です。
 1996年全英オープンの準決勝、伊達は当時女王といわれたシュテフィ・グラフ選手と激突しました。
 第1セットはグラフが取り、続く第2セット、グラフのサーブを伊達が強烈なリターン。一歩も動けなかったグラフが、「だめだ」という表情で首を横に振っていました。
 私は、伊達が勝ったと思いました。しかし日没となり、翌日に順延となりました。結局伊達は敗れました。伊達は世界4大オープンで、計3回ベスト4に進出しています。しかしそれ以後、伊達を超える選手は出てきてません。

 男子選手では1933年(昭和8年)シングルスのランキング世界第3位に輝いた、佐藤次郎選手までさかのぼります。
 佐藤は1908年(明治41年)群馬県の出身で、早稲田大学に進み世界4大オープンに出場しました。1931年の全仏、1932年の全英・全豪、1933年の全仏・全英で、いずれもシングルス・ベスト4に進みました。計5回のベスト4進出の中で、33年の全仏オープン準々決勝では、当時実力世界一のフレッド・ペリー(英国)を下しています。
 佐藤は、その力強いショットといかつい風貌からブルドッグと呼ばれ、世界中の人気者でした。
 
 しかし、そんな佐藤の競技生活は衝撃的な結末を迎えます。
 1934年(昭和9年)4月5日、デビスカップ選手権への遠征の途上、汽船の甲板から月のマラッカ海峡に投身自殺して果てたのでした。
 世界4大オープンは個人戦ですが、デビスカップは日本チームとして出場します。個人戦で好成績を上げる佐藤が、日の丸を背負って戦うデビスカップで勝てないことを、日本のテニス界は非難していました。佐藤は神経衰弱となり体調を崩していましたが、それを押しての遠征でした。

 当時の偏狭なナショナリズムが26歳の若きテニスプレーヤーを殺しました。世代を問わず、また議会においても国会から地方議会に至るまで、偏狭なナショナリズムは一定の支持を受けています。
 佐藤選手の悲劇以降に日本がたどってきた道を振り返れば、これがいかに危険な思想か理解できると思います。

2010年5月11日火曜日

大英博物館

 世界の博物館といえば、何と言っても大英博物館です。ロンドンを訪れた時、オックスフォードに留学していた友人が連れて行ってくれました。
 世界の文化遺産が一堂に会した、途方も無いコレクションでした。古代エジプト、ギリシャ、ローマ、シリア、インド、中国、朝鮮、そして日本の宝物が陳列されていました。これらは主に、19世紀に収集したものになります。帝国主義の時代に世界中に領土を持っていた、日の没することの無い大英帝国700万点のコレクションです。

 ところで皆さんは大英博物館の入場料が無料であることをご存知でしょうか?
 
 その理由を友人が教えてくれました。
「これらのコレクションは、世界各地から盗んで持ってきて飾ってあるものだ。盗品を展示してお金を取るのは、さすがに後ろ暗いから、無料にしているのだ。」
 なるほど、もっともな説得力のある話です。最大級の遺産は古代エジプトのロゼッタ・ストーンです。
 イギリスの先輩はフランスです。ルーブル美術館も、大英博物館に負けず劣らず盗品を陳列しています。5万点ある古代エジプトの遺産のうち、最大級はデンデラの黄道帯です。ナポレオンがエジプト遠征の際に持ち帰った物です。
 
 日本でも第二次大戦後、多くの文化遺産が流出してしまいました。その行く先は、アメリカなどの占領国です。10万点の刀剣、沖縄の王家である尚家の財宝が失われました。
 近年、ユネスコの仲介で遺産の出土国へ遺産を返還する作業が始まっていますが、イギリスやフランスはこう反論しています。
「世界の遺産なのに、返還してしまうと出土国だけの遺産になってしまう。」
 じゃあ今はイギリスやフランスだけの遺産ではないか。独り占めしているじゃないかと思います。すみやかに出土国に返還すべきでしょう。

 戦後、日本政府は領土の返還を要求してきました。私は文化遺産の返還も要求し、返してもらいなさいと言いたいです。広島市内から持ち去られた遺産もあるはずです。
 
 現在広島市には博物館がありません。文化遺産を返却してもらった際には、博物館を建てて展示してほしいと思います。

2010年5月10日月曜日

北林谷栄(きたばやし たにえ)さん

 女優の北林谷栄さんが98歳で亡くなられました。私はとてもびっくりしました。北林さんには失礼なのですが、もうとっくに亡くなられたと思っていたからです。その理由は、映画やテレビでいつも老婆の役を演じていたからでした。

 NHKは以前、祝日の朝9時から日本映画をリバイバルで放映していました。ある休日の朝、勤務医である私は「出勤しないで良いが、病院の敷地内にある宿舎から遠出してはいけない」という、「待機」の当番に当たっていました。
 その日の9時から放映されたのが、1959年の作品 「にあんちゃん」 でした。これは、ある10歳の少女の手記を映画化した作品です。佐賀県の炭鉱で働いていた朝鮮人の炭鉱夫が結核で死亡し、男女4人の兄弟が残されました。この手記を書いたのは、末っ子の女の子です。「にあんちゃん」はすぐうえのお兄さんです。

 炭鉱住宅には朝鮮人の住民がたくさんいて、小沢昭一などが扮していました。その中で、北林さんは朝鮮人の老女の役でした。お葬式の時は、アイゴーアイゴーと大きな声で泣いていました。そして4人兄弟の長男の長門裕之や、長女の松尾嘉代に向けてこう言うのです。

「おまえたちー、げんきだせよー。」  

 だせよーの「せ」にアクセントがあるセリフまわしが、今も耳に残っています。
 口では4人を励ますのですが、おコメひとつぶ恵むわけでもなく、小沢昭一からは、「どけちー。」とどなられます。北林さんはそれに対して、「うるせー。」と言い返すのでした。

 1959年は私が生まれた年ですので、北林さんは当時47歳でした。役柄は65歳くらいでしたから、私のイメージでは116歳で亡くなられた計算になります。
 不思議な女優さんだったと思います。

 合掌。

2010年5月5日水曜日

広島のケーキ工房

 眼の奥が痛いと言う方の相談を受けました。Aさんとします。
 コンタクトを1日15時間装用しているというので、「そりゃー長すぎる、仕事がすんだら眼鏡にされては。」 と言いました。
 すると、「いや、仕事が15時間です。」と言われました。 週に3,4日は15時間のお勤めだそうです。他の日でも12時間は働くそうです。
 「パソコンを操作する仕事ですか?」 と聞くと、ケーキを販売しているのだそうです。
 そういえば繁華街で営業している洋菓子屋は、10時くらいに開店し22時でもまだ営業していたことを思い出しました。準備や片付けを含めたら15時間にはなるでしょう。
 Aさんは、20歳代の女性ですが、その疲れた様子がとても気になり、「眼のことも心配ですが、身体が心配ですね。」 というと力無く笑っておられました。

 別のケーキ工房に勤めるBさん。パティシエになりたくて就職した20歳代の女性です。
 Bさんの店はAさんの店ほど大きくありません。Bさんはケーキ作りが仕事なので、10時開店のところ8時には出勤します。後片付けの終わったあとに、予定されなかったミーティングがしばしば入り、15時間くらいは勤務することもあるそうです。
 しかし、給料は月に手取り13万円ポッキリで、時間外手当はつきません。1日8時間だけ働いたことになっているようです。もちろんタイムカードもありません。
 オーナー社長が言うには、「てきぱきすませて8時間で帰宅するのも、15時間働くのもあなたの裁量よ。」 だそうです。
 この工房では若い社員さんが1年も続かないのだそうです。当然だと思います。いくら若い人とはいっても、労働条件が過酷過ぎます。
 
 この二つのケーキ工房は若い女性の弱み、つまり就職難に付け込んで、労働力を安い賃金で不当に搾取していると言わざるをえません。
 労働基準法違反で告発できるのは、本人の申告によらなければなりません。もし申告したとしすると、これらのケーキ工房は彼女たちを解雇するでしょう。不当解雇だと訴訟することも可能ですが、「さっさと辞めちゃえ」、と言って辞める方が簡単です。

 しかし、そんなことでは問題は解決しません。鳩山内閣も連合も、未組織労働者に支援の手を差し伸べるとうたっておりますが、その手が届く気配は全く届ありません。

 ケーキを作ったり、そのケーキをお客さんに売って喜んでもらったり。大きな夢を抱いて就職したにもかかわらず、冷たい現実に打ちひしがれている人たちを助けなければ、と思います。
 くやしいことですが、この二つのケーキ工房には夢というものは存在していません。全てのケーキ工房がそうでないことを願います。

2010年5月4日火曜日

ゴールデンウィークの高速道路(帰り)

 昨日の記事の続きです。
 
 なぜ5月3日にわざわざ高速道路に乗ったのか。それは、津山のとなりの真庭市久世で野球の試合があったからです。私が所属していた広島大学医学部の野球部が、中国リーグで下関市立大学と対戦するからです。

 津山から米子道分岐まではぎっしり渋滞していたので、国道181号線を西へ進みました。道は広く整備されており、道の駅が大きくきれいな姿を見せていました。しかし車は少なく、人影はさらに少ないようでした。
 そのまま進んでいると、やっと久世の町並みに入りました。1983年の春リーグ以来ですので、27年ぶりの久世です。ずいぶん美しい町並みに変わっていましたが、こちらも人影はまばらでした。

 会場の真庭やまびこ球場も新しく変わっており、人工芝のグラウンドになっていました。
 地元選出の有力代議士の力で、道も町並みも公共施設も整備されています。しかし人口の流出は止まりません。長い自民党政権の失政を確認したドライブでした。

 肝心の野球はというと、惜しくも負けてしまいました。
 
 そんな中で印象に残った場面があります。
 広島大のチャンスの場面で、バッターは初球を見送ってストライク。ここでバッターはタイム。バッターボックスをはずすと、ポケットから何か取り出し空を仰ぎました。

 天に何か誓うのかと思ったら、右手をかざして目薬をさしたのです。左目、そして右目。
 押せ押せで息詰まる場面、この点眼の動作は非常にゆっくり感じました。雰囲気ががらりと変わりました。
 改めてバッターボックスに入りなおし、次のストレートをきれいにセンター前へはじき返したのでした。
 この冷静を取り戻す所作は、見習うべきだと思いました。

 もちろん単にコンタクトが乾いて、見えなくなっただけかも知れませんが。

ゴールデンウイークの高速道路(行き)

 5月3日はゴールデンウイークの中日です。珍しく車で出掛けました。岡山県津山市に義父の墓があり、お墓参りに行きました。いつもは義母と妻と参るのですが、義母が入院中のため、夫婦だけで行きました。

 家を出発し、新しくできた広島高速2号線東雲ランプから高速道路に乗り込みました。広島東インターからいつものように、山陽道を東上しようとしました。
 
 そこで「おっと。」 思い出しました。
 家を出るまでは、高速4号線から西風新都インター経由の中国道ルートをとるはずだったのでした。それを忘れてつい家の前を右に出たので、勢いで東雲まで行ってしまいました。

 広島東インターから左へハンドルを切り、中国道を進みました。渋滞も無く順調に進みました。山には山桜が咲き、山つつじも濃いピンク色を添えていました。はるかに中国山地の山並みをのぞみ、快適な道のりでした。
 絶好の日和の中、中・大型のバイクがツーリングしており楽しそうでした。中国道はカーブが多い上に、アップダウンに富んでいて面白いのでしょう。

 反対に、落合ICから米子道への分岐点まではぎっしり渋滞していました。 
 朝の連続ドラマ 「ゲゲゲの女房」 の舞台、境港の水木しげるロードを訪れる人たちでしょうか。反対側の下りも、二車線ともにぎっしりでした。

 私達は院庄ICで降り、津山のお墓参りは無事に終わりました。

 明日に続きます。

2010年5月2日日曜日

姫路菓子大博覧会

おかしの姫路城

左から井上さん、松坂、柳田さん

 姫路菓子大博覧会は、2008年の4月18日から、5月11日までの24日間開催されました。会場は姫路城の東側と、北側の公園です。
 24日間に92万2千人の来場者があったと聞き、姫路市にお話を伺いに訪れました。ご説明いただいたのは、姫路菓子博2008実行委員会の事務総長の井上さん。そして姫路市市長公室 政策推進室の柳田さんです。

 全国菓子博は、1911年に東京・赤坂で第1回が開かれました。姫路は第25回で、次回の第26回は広島で開催されることが決定しています。
 広島市の構想は、旧市民球場を解体して跡地を公園にし、広島菓子博を開催するというものです。広島の菓子組合が誘致に成功し、井上さんが博覧会の旗を広島へ届けられたそうです。        

 お2人のお話は、「大変な苦労だった。でも、やって良かった」という貴重なお話でした。
 1998年に第23回の菓子博が盛岡で開催された後に、兵庫県の菓子同業組合が開催に名乗りを上げ、10年の準備期間をおいて大成功に導いたのです。

 開催の目的は、菓子業者をはじめ地元・中小業者の活性化でした。業界が博覧会の中心となり、姫路市は会場の提供、職員の応援、県や警察との調整などを引き受けました。
 全国47都道府県に出展を呼びかけ、すべての都道府県から出品がありました。珍しいお菓子が一同に会したわけです。20億円の経費を掛け、これでこけたらどないしょと心配されていたそうですが、70万人の予想を上回る92万人の来場者にほっと胸をなで下ろされたとのことでした。

 業界にとって一番のプラスは、姫路の菓子職人が刺激を受けて技術の向上に取り組み、さらに美味しいお菓子を作ろうと奮闘されたことだそうです。

 お二人のお話は、当事者としてのご苦労と喜びに満ちていました。
「2年もたったらかなり忘れとりましたが、話し始めると、あれもあったこれもあったと記憶がよみがえりますね。」と笑顔で話されました。

 広島の菓子博も全国からたくさんの方にきていただけるよう、しっかり準備していきたいと思いました。
 もちろん私自身もお菓子が大好きです。大きな楽しみで、今からちょっとワクワクしています。