2011年2月25日金曜日

領土問題

 最近、飲み会が増えました。話題にのぼることが多いのが領土問題です。
 尖閣諸島や北方領土、さらに竹島をめぐる日韓の帰属争いなどにぎやかに延々と続きます。

 私と同年代には、なぜか勇ましい人が多く、「憲法9条を改正し、再軍備して領土問題に決着をつけるのだ。」 と息巻いています。
 「それは難しい問題です。」 などと応じますと、議論は終わりません。そこで私はこう言ってみました。

 「じゃあ、遼東半島を還してもらいましょう。」 

 すると、みんな違う話題に移りました。議論を静かにさせるには、良いアイデアだと思いました。
 北方領土も竹島も、間違いなく日本の領土だったのです。そして、遼東半島も数日間ですが日本に割譲されたのでした。

 1895年、海陸の戦闘で日本は清国に勝利をおさめました。そして下関の料亭 「春帆楼」 で清国全権李鴻章と総理大臣伊藤博文、外務大臣陸奥宗光の間で 「下関条約」 を結びました。
 その主な内容は、領土の割譲でした。遼東半島、台湾、澎湖諸島です。遼東半島は旅順、大連などの要塞都市を含み、北京、天津と朝鮮半島の中間に位置する大陸の要衝です。日本中は、万歳万歳のあらしに明けくれました。

 ところが条約締結の数日後、ロシア・ドイツ・フランスの三国が、日本に対し遼東半島を還付せよと干渉してきました。これが「三国干渉」 です。
 仕方なく、伊藤と陸奥は三国の干渉に応じました。国民の不満は、伊藤と陸奥に集中しました。批判の嵐の中、陸奥は自伝の中で、「他策無かりしを、信ぜんと欲す。」 と述べています。 (遼東半島の還付より外に、策は無かったと信じたいと言う意味です。)

 勇ましい人たちは、「北方領土を還せ」 「竹島や尖閣諸島を渡すな。」 と言います。
 しかし、返還させるのは、遼東半島を日本の領土にするぐらいくらい困難なのです。

2011年2月19日土曜日

市議会本会議・秋葉市長の答弁


 18日の広島市議会本会議、私は総括質問初日のトップバッターで質疑に立ちました。これは、12年間の議員生活で初めてのことでした。ご支援いただいている皆さまに感謝申し上げます。

 今回の質疑では、秋葉忠利市長へ質問をしました。
 1・就任時に描いていた夢とは。
 2・その夢は実現したか。
 3・これまでリーダーとして引っ張って来られたが、これからの道しるべを示して欲しい。
 の3点です。

 その答弁ですが、
 1・21世紀は広島が世界のリーダーとなること。そこから発するメッセージが世界を変えていくこと。
 そして、リンカーンの言葉を借りて 「市民の市民による市民のための広島市政」 を確立することと答弁されました。
 2・取り組んだ施策を紹介し、夢の具体化が図られたと結ばれました。
 3・広島市民は力を持っている。その自信と誇りとを活かすことで、さらに素晴らしい街ができる。広島市基本構想と広島市基本計画を軸に、「世界のモデル都市」 を目指してほしいと述べられました。

 最後に、
 「市民の皆さんに、幸せになってほしい」 という思いで働いてきた時間は「宝物」だ。
 と語られました。

 私の夢は、社会的弱者のみなさんに「ああ、私は幸せです。」 と言ってもらえる広島市を実現することです。市長への質問の中で、そう述べました。
 市長は、このメッセージにきちんと応えられたと思います。

 質疑が終わった後、藤田博之議長が私に教えてくれました。
「あなたの質問が23分じゃった。答弁が全体で55分かかっとる。そのうち市長が18分答弁した。6年間議長をやっとるが、18分は飛びぬけて長い。」
 市長の12年間の思いが伝わってきた答弁でした。もちろん私も12年間の思いを伝えました。

 このやりとりは広島市議会のホームページから簡単に視聴することが出来ます。ぜひご覧下さい。

2011年2月17日木曜日

2月議会の総括質問

 2月18日からの広島市議会総括質問は、私がトップバッターです。
 12年間の議員生活の中で、初日でのトップバッターは初めてのことです。
 これも、日頃からご支援していただいている皆さまのおかげです。本当に、ありがとうございます。

 質問の内容は、
 
 1.秋葉市政の12年間
 2.大学病院の院内学級
 3.グループホームの入居者の処遇について
 4.出島産業廃棄物処分場
 5.広島市の就労支援策の就労時と就労後の支援について

 以上の5項目です。

 特に、秋葉市長への質問の機会は最後となるため、直接市長の所感をたずねることにしています。
 どのような答弁になるかは分かりませんが、広島市民へ熱いメッセージを語っていただきたいと思います。

 質問の様子は、ケーブルテレビやインターネットで生中継されます。
 2月18日の、午前10時から1時間ほどです。どうぞご覧下さい。

2011年2月13日日曜日

ひと味違う質問

 2月と3月の広島市議会の日程です。

 2月15日は議会の初日です。秋葉市長が23年度予算案について説明します。
 2月18、21,22日は総括質疑です。議員が市長に質問します。

 2月24日からは、予算特別委員会です。

2月24日・・・文教関係
  25日・・・厚生関係
  28日・・・建設関係
3月1日・・・・消防上下水道関係
   2日・・・経済環境関係
   3日・・・総務関係
 
 上記のようになっています。


 3月8日、予算特別委員会の採決を行います。
 3月9日本会議で採決を行います。
 傍聴はどなたでも可能ですので、ぜひお越しください。
 いずれも10時開会ですが、3月1日のみ13時の開会です。

 松坂ちこうは、2月18日の10時から総括質問に立ちます。
 イの一番に質問できるのは、初めてのことです。
 3月1日も質問に立ちます。

 他の議員には真似の出来ない、ひと味違う質問だと自負しております。どうぞご期待ください。

ムバラク政権の終焉

 12日の朝、ニュースは一斉にエジプトのムバラク大統領が辞任したことを伝えました。30年続いたムバラク政権は倒れました。
 多くの国民がカイロ市内の広場に集まり、ムバラク退陣を叫んでいました。エジプト軍も出動しましたが、大きな衝突には至りませんでした。 
 同じく北アフリカのチュニジアでは、エジプトに先駆けて政権交代が起こりました。24年続いたベンアリー大統領政権が、市民によるクーデターで倒れました。チュニジアの花にちなんでジャスミン革命と呼ばれています。

 ムバラク大統領は空軍の出身で、サダト大統領のもと空軍司令官をつとめました。1973年の第4次中東戦争では、イスラエル軍に電撃戦を展開し、壊滅的打撃を与えました。以後、キャンプデービッドの合意により、エジプトとイスラエルは友好関係を結びました。
 イスラエルに強烈な一撃を与えたムバラクは、その功績により副大統領に上りつめました。そして1981年、サダト大統領が暗殺されると大統領に昇進しました。松平健ばりの時代劇スターのような風貌で、国民の英雄ともてはやされ、歴代のアメリカ大統領とも友好な関係を作っていました。
 しかし、30年は長すぎたのでしょう。

 一方の日本、自民党政権も1948年から2009年まで61年間続いたわけで、エジプトの2倍以上の長期政権でした。

 政権交代してから初めての統一自治体選挙が、4月10日に行われます。
 政権交代後の流れを元の木阿弥にしないためにも、広島の市議選、県議選、市長選で勝たなければなりません。踏ん張りどころです。
 松坂ちこうへのご支援よろしくお願いします。

2011年2月11日金曜日

広島市長選挙動く

 秋葉広島市長が任期満了での退任を表明して、1か月と1週間が過ぎました。この間、大原邦夫氏、桑田恭子市議、呉羽山人氏、田中正之氏が立候補を表明されました。

 そしてついに、自民党県連が担ぎ出した松井一實氏(58)が立候補を表明し、10日の18時から記者会見を開きました。松井氏は厚生労働省出身で、現在は中央労働委員会の事務局長です。テレビに映った印象は、お役人そのものでした。

 同じく10日午前、沖宗正明市議が豊田麻子副市長(44)に立候補を要請されました。二人で話された内容についてはわかりません。
 沖宗さんは、市民市政クラブという会派の幹事長です。この会派には、藤田博之議長や海徳貢元議長らが所属しています。沖宗さんは無所属ですが、藤田、海徳の両氏は自民党員です。このお二人は、他の自民党市議とは一線を画しておられるようです。

 この3日前の7日、女性団体の代表・川瀬啓子氏が、同じく豊田副市長に出馬を要請されていました。この1週間で、豊田さんは多くの支援者がついていることを確信されたことと思います。

 豊田さんは、広島市初の女性副市長。総務省出身で、情報通信分野が専門です。副市長に就任されてから何度かお話をしましたが、新しい感覚を持っておられます。
 これからの広島市は「いままで通り」ではなく、新しい感覚で引っ張って行かなくてはなりません。

 豊田さんが市長選への出馬を表明されることを、心から願って止みません。

2011年2月8日火曜日

春場所の中止

 大相撲の八百長事件は、ついに三月の大阪場所を中止にさせるまでに至りました。不祥事による本場所の中止は、前代未聞です。
 2月4日、元魁傑の放駒理事長は高木文部科学大臣に謝罪しました。現役時代、若い女性に人気のあった魁傑の面影はありませんでした。見ていて気の毒になるほど当惑していました。

 ところで相撲協会がはっきり八百長だったと認めた一番があります。
 昭和47年三月場所12日目でした。前場所途中休場した大関・前の山は、カド番でこの日まで5勝6敗と苦しい星取りでした。一方の大関・琴櫻は、7勝4敗で勝ち越しの目途のたった星取りでした。
 立ち上がって、すぐに右四つ。突き押しが得意の両者にしては、不本意な立ち上がりです。ここで前の山が右から下手投げを放つと、琴櫻はころんと転がり前の山が勝ちました。
 相撲協会の監察委員長だった花籠親方は、この1番を無気力相撲と決定し、両力士の親方に処分を一任しました。前の山の高砂親方は出場を辞退させ、前の山は大関を陥落することになりました。
 
 この監察委員会が設置されていた理由は、この数場所前に無気力相撲があったためです。
 
 4人の大関の中で常に二ケタの勝ち星を上げていた大関・大麒麟と、その場所カド番の大関・琴櫻との一番でした。琴櫻は5分の星で、大関陥落もあやぶまれていました。
 両者立ち上がって右四つ。出足鋭い両者は激しく寄り合うかと思われました。ところが大麒麟が自ら後ずさりして土俵際まで下がり、琴櫻はそれに合わせて寄り進み寄り切って勝ちました。
 私はこの一番をテレビ中継で見ていましたが、場内の何ともいえない奇妙な様子が伝わってきました。
 両者は勝ち越しで場所を終え、大関の地位を維持しました。新聞各社も、「無気力相撲だ」「大関互助会だ」と批判していました。 
 
 その後、八百長疑惑はあったにも拘わらず、相撲協会は今日に至るまで何らの手も打っていません。新聞各社も、紙面で八百長疑惑を報道することは無かったように思います。

 以前の大関は、カド番を何度も迎えるほど力が衰えると、そのうちに引退したり大関から陥落したりしたものです。ですから、10回以上もカド番を迎えながらも規則的に一場所おきに勝ち越して、大関に留まっている力士が「がちんこ力士」だとは信じられません。
 それなのに日本人最高位の魁皇はえらく誉めそやされ、元・千代大海の賭博参加疑惑もうやむやです。新聞各社は疑問に思わないのでしょうか

 理事長は相撲界の腐敗した部分を切り捨てられるでしょうか。
 腐敗した組織の末路は悲惨なものとなります。民間の会社でも様々な施設でも団体でも、腐敗を取り除くことができなければ自壊していくだけです

 広島市役所も腐敗した部分が少なからずあります。その部分を切除することを、新市長に期待します。

 

2011年2月5日土曜日

八百長を断った力士

 今回の八百長メール事件のため、大阪で開催予定の大相撲三月場所(春場所)が流れるようです。大事件です。
 
 私は相撲には八百長が存在すると思っています。
 
 優勝を賭けた大一番で、弱いと思われた力士が強いはずの力士にあっけなく勝つ場面など、何度か見てきました。
 また、取り組みを見ていて「こりゃ八百長じゃ。」 「なんでここで攻めんのか。」 「どうして相手十分の組み手にすぐいくんか。」
 などと思う取り組みが、幕内でも一日の中で数番はあります。
 
 昭和3年1月場所のことです。張り出し小結の玉錦三右衛門は26歳、千秋楽を前に7勝3敗でした。対戦相手の前頭13枚目三杉磯善七は37歳、ここまで10戦全勝でした。老雄三杉磯は、玉錦に勝てば栄誉ある賜杯を抱くことになります。千載一遇のチャンスです。

 三杉磯の後援会から、玉錦のもとへ使者が来ました。
 
 「五万円で負けてくれませんか。」

 当時の1円は今の数千円ほど。2千円で計算しても1億円の価値があったことになります。
 しかし、玉錦は断固として退けました。そして千秋楽の土俵で、寄りたてる三杉磯をうっちゃりでやぶりました。結局、優勝は大関の常陸岩英太郎のものとなりました。
 玉錦は千秋楽の夜、優勝した常陸岩の祝宴に招待を受けましたが、
「私は力士として、最善を尽くしたまでです。」
と語り、出席しませんでした。

 このエピソードは、後に横綱となり9回の優勝と27連勝を飾った名力士・玉錦を称えるものです。
 しかし当時から八百長が行われ、後世においても改められていないことも物語っています。

 八百長の蔓延は、深刻です。

2011年2月3日木曜日

相撲の八百長

 相撲界を揺るがす八百長事件が発覚しました。
 春日錦と清瀬海のメールのやりとりは、具体的な相撲の取り口や、一勝負あたりの星の金額など明らかになっていました。まさに動かぬ証拠です。どこまで波及するのか、どこまで解明が進むのか、注視したいと思います。

 相撲界には、八百長をする力士と八百長をしない力士がいるといわれています。八百長をしない力士は、いわゆる「がちんこ力士」と呼ばれます。
 八百長力士がどんな力士かは確証がありませんが、がちんこ力士には特徴があります。
 一つは上位の力士に強い反面、下位の力士にとりこぼす。もう一つは常に全力相撲で、怪我が多い。というところでしょうか。

 昭和の末に活躍した力士では、ハワイ出身の高見山大五郎、突貫小僧と呼ばれた富士櫻、現・放駒理事長の魁傑、通算最多出場回数の記録を持つ大潮。
 平成では、魁傑の弟子で横綱の大乃国、広島県出身の安芸乃島勝巳。
 彼らは、間違いなくがちんこ力士です。
 現在では、白鵬の連勝記録を止めた関脇・稀勢の里はがちんこだと思います。

 今挙げた力士の特徴は、「ここで勝てば、殊勲賞がもらえる」「大関に上がれる」「優勝できる」という場面で、白星を逸することが多い力士たちです。

 ある年の九州場所でした。安芸の島は13日目を終わって7勝6敗。二横綱を破る殊勲の星を上げ、あとひとつ勝てば殊勲賞間違いなしでした。しかし下位の力士に連敗し、殊勲賞を棒に振りました。まさにがちんこ力士でした。

 この度の事件を契機に八百長の実態が明らかにされ、土俵が充実することを願ってやみません。