2012年1月9日月曜日

満蒙開拓青少年義勇軍

1931年、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破。これを中国軍の仕業と決め付け、当時、満州を治めていた張学良軍に攻めかかりました。関東軍は瞬く間に満州全土を支配下に置き、1932年に傀儡国家「満州国」を建国しました。
 この間の関東軍の進行はすさまじく、無人の野を行くが如しでした。

 これらは全て、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐の作戦でした。関東軍は、支配下に置いた満州の地から、満州人を追い出しました。そして広大な平野に、日本本土から開拓農民を移住させる計画が立てられました。総勢500万人にのぼる開拓移民団の移住です。 実際の人数は27万人でしたが、いずれも貧農の次男三男たちでした。
 日本にいても食うや食わず、満州で3年辛抱したら40ヘクタールの広大な農地が手に入る。この話にみんな飛びついたのです。

 満州に渡った開拓農民は、もし国境を接するソ連軍が攻めてくれば関東軍と共に戦うことになっていました。その関東軍は、1943年ころから太平洋戦線に転戦し手薄と成りました。

 そこで、1944年6月に全国から15歳の生徒へ呼びかけ、満蒙開拓青少年義勇軍として志願させたのです。86,000人をソ満国境へ配備し、武装したうえで農作業に従事させました。
 1945年8月9日、突如ソ連が太平洋戦に参戦。戦車や機関銃による攻撃で、青少年義勇軍の子どもたちは相次いで倒れました。一緒に戦ってくれるはずの関東軍は、いち早く敵の攻撃を知り、満州南部に撤退していました。

青少年義勇軍や開拓農民は、自分たちで逃げるしか無かったのです。その様子はまるで地獄絵図でした。自分でわが子を殺す母親、濁流の中で流される親子。母親に負ぶさっている間に、息を引き取る子ども。

 私の妻の父は、両親・姉・弟・妹らと、奉天で旅館を営んでいました。中学生だった妻の父は、撫順の飛行機工場で働いていました。工場が閉鎖になり、奉天に戻ると関東軍の司令部と兵舎があり、ソ連が攻めてくれば守ってくれると信じていたそうです。
 ところが、8月10日の朝になると関東軍の兵舎はもぬけのからで、人っ子一人いなかったそうです。ソ連が攻めてくるという情報を得るや否や、奉天を捨てて南へ逃げたのです。

 それからが大変でした。ソ連軍に占領されて捕虜になり、あちこちへ移動させられました。その間、国民党軍の支配下に入ったり、共産軍が入れ代わったり辛苦をなめたそうです。1946年に帰還船で日本に帰国したのですが、幼い弟、妹をはじめ幾人も家族や親類を失いました。

 開拓民は27万人のうち8万人が死亡。青少年義勇軍は8万6千人のうち、2万人が死亡しました。
 関東軍の「五族協和」「王道楽土」の美名にだまされ満州に渡った人たち。彼らの無念を誰が知るものでしょう。

 軍であったり、官であったり。公が民に語るメッセージには、とんでもない嘘があります。 それは戦後60年以上経ち、世紀が変わった現在でも、残念ながら受け継がれている悪しき伝統なのです。