2012年11月6日火曜日

Japanese は日本か日本人か(下)

 
前回の続きです。

「広島平和資料館の展示の誤りを訂正することについて」という陳情書は、なぜ日本に原爆が投下されたのか考える良い機会ととらえ、平和資料館の館長、副館長、学芸員の三名から説明を聞きました。

 まず、「Japanese」 を、日本人とせず日本としたのかという問いには、館長が「戦争をしているのは、国家と国家だから、日本で良い」との回答でした。

 では原文が「Japan」 とせず「Japanese」 とした理由は何かと聞くと、三人とも「使用したアメリカ首脳は、Japan も Japaneseも 同じ日本という意味で使っているのです。区別は無いのです。」と簡単に答えました。

 納得はいかないながら、そういう単純な話かと思い、別の質問をしました。

「1943年5月にトラック島に集結した日本艦隊とは、どういった規模か。まだ戦艦大和、戦艦武蔵も健在のはず。ここに原爆を落せば日本艦隊は壊滅すると、軍事政策委員会の面々は考えていたのであろう。艦隊の規模を教えてほしい。」

 しかしだれも口を開く者がいません。なにも知らないようでした。

「あなたがたの資料館の展示について、来館者から質問があってもだれも何も答えられないのですか。それでよく資料館の館長だとか、学芸員だとか言えますね。」
と、言いました。

 誰も何も言い返しませんでした。

彼らが次に訪れた際、
戦艦は大和、武蔵はじめ8隻。航空母艦は、翔鶴、瑞鶴はじめ7隻。巡洋艦は、利根、筑摩はじめ17隻がトラック島に集結していたと教えてくれました。
 詳しく調べていました。 しかし 「トラック島に集結した日本艦隊・・・」の解説文を掲示するときに、調べておくべきでした。

 
 

 私は、陳情者が唱えているように、日本に原爆を落した理由が人種にあるとは考えていません。

 しかし、アメリカ国民やアメリカ軍は、1941年の12月8日の真珠湾攻撃を忘れてはいないでしょう。

 1943年の5月の段階で、太平洋は日本の連合艦隊に席巻されていたので、アメリカの敵愾心は旺盛の時期でした。
 一方、第2次大戦が勃発した1939年9月、ドイツと戦っていたのは、フランス、イギリス、ポーランドでした。ついで1941年6月に、ドイツはソ連に攻め込みました。

 一方アメリカにはドイツ系の移民も多く暮らしており、欧州の大戦への不介入を1939年の9月に宣言していました。参戦を躊躇していたのです。

私が 「真珠湾攻撃の時に、アメリカとドイツは開戦していたのか。」
と質問すると、館長は
「たぶん戦争していたと思います。」
と答えました。

 私は、日独伊三国同盟のため、真珠湾攻撃のあとにドイツ、イタリアとアメリカが開戦したのではないかと思っていました。
 調べてみると、1941年12月11日にドイツ、イタリア両国がアメリカに宣戦布告しています。日本が真珠湾を攻撃したことによって、アメリカはドイツと戦争をするはめになったのです。館長はこの歴史的事実について、正確な知識を持っていませんでした。

 当時のアメリカ政府首脳にとっては、
「にっくきジャップ(Jap すなわち日本人)め。真珠湾のうらみを果たすまで戦うぞ。」
という心境にあったと思われます。

その心境ゆえ、公式文書にも 「Japanese」 を用いたのではないでしょうか。
 それが「Japan」では、心境が伝わらないように思います。

 館長のように、真珠湾攻撃のときに米独は戦火を交えていると思っている人には、この敵愾心や、うらみは深し真珠湾などというアメリカ人の心境は分からないでしょう。

 もっと勉強していただかないと、解説文に説得力が無くなってしまいます。 「世界の」広島平和記念資料館では無くなって、「広島市だけ」の平和記念資料館になってしまうでしょう。