2010年1月14日木曜日

大福茶席と濃茶席

 12日は上田宗箇流のお茶会に招かれ、西区古江東町の上田流和風堂へ行って来ました。同席は25名で、そのうち男性は7名と少数でした。
 
 まず敬慎斎という間で濃茶席(こいちゃせき)です。席順を決められていて、社会的地位の高い年配の男性がトップ、ついで社中で地位の高い年配の女性が2位と3位です。それに続いて男性、そして女性という順でずらりと並びます。
 
 部屋が変わって大福茶席(おおぶくちゃせき)は、和風堂の鎖の間です。炉の中の釜が、天井から鎖で吊り下げてありました。
 この和風堂は、広島藩浅野家家老の上田家の上屋敷にあったのですが、この度復元されました。六畳ほどの部屋の一畳分は周りより一段高くなっており、殿様がお成りの時に座る席です。その上には鐘が吊り下げてあり、柱には撞木(しゅもく)という鐘を突くための棒がかけてありました。お付きの小姓を呼ぶときに使ったものなのでしょう。桃山時代あたりにタイムスリップした気分です。

 大福茶とは普通の抹茶に梅干しと黒豆を入れるもので、おめでたい席で振る舞われるものです。また、最初にいただく濃茶は、茶入れに入った抹茶を全部茶碗に入れ、かきまぜてドロッとなった茶を3~5人で回し飲みするのです。

 ところで、濃茶の席ではいつも思い出す逸話があります。
 
 戦国時代の武将である大谷吉継は、ハンセン氏病を患っていました。
 濃茶の席でのこと。吉継の顔から出たウミが、茶碗の中に落ちてしまいました。それを見ていた大名たちは、茶を飲むふりだけで茶碗を次へ次へと回していきました。
 しかし、石田三成だけは平然と茶碗に口をつけ、何事もなかったように濃茶をごくごくと飲み干したそうです。吉継は三成の行動に感激し、二人の友情は深まりました。そして吉継は関ヶ原の戦いで、三成に殉じて果てたのでした。
 
 差別や偏見が当たり前の時代でしたが、吉継は三成に救われました。また三成も関ヶ原で孤立しがちな中、吉継に救われたことでしょう。
 計算や利害関係のない友情の素晴らしさを表す、とても好きなエピソードです。