2010年4月29日木曜日

久慈次郎

 昨日、グラウンドで倒れ帰らぬ人となった木村拓也さんのことを書きました。もう一人思い浮かんだのは、同じくグラウンドで倒れ不帰の人となった久慈次郎です。久慈はプレー中の事故で死亡しました。

 久慈は1898(明治31年)年岩手県の出身。早稲田大学の野球部で活躍し、卒業後ノンプロチーム函館オーシャンの主力選手として、都市対抗野球でその名を馳せました。
 
 転機となったのは、1934年(昭和9年)ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグら大リーグのトップクラスの選手を集めたアメリカ選抜チームが来日した時です。
 日本チームは急遽かき集められたメンバーで、主力は東京六大学の花形選手であった伊達正男、水原茂、苅田久徳らです。さらに投手陣には、まだ中学生(現在の高校生)の沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒンも加わっていました。その中で36歳の久慈は主将格の存在でした。

 日本チームはアメリカ選抜の前に歯が立たず、16戦全敗に終わります。しかし、1試合だけ日本があわや大殊勲という見事な試合がありました。
 
 場所は静岡草薙球場。先発投手は日本・沢村とアメリカ・ホワイトヒルです。沢村の武器は豪速球と、懸河のドロップと言われた大きく曲がり落ちるカーブです。

 この日の沢村は絶好調で、3番ルース、4番ゲーリッグを連続三振にとるなど中盤まで0対0の緊迫した試合となりました。
 沢村をリードした捕手が久慈次郎でした。リードも冴え渡り、アメリカ選抜は三振の山を築いていきました。しかし終盤7回、ゲーリッグが沢村のストレートを一閃。打球はライトスタンドに消えていきました。
 結局、1対0で日本は敗れました。しかし、沢村は、Schoolboy  SAWAMURA とアメリカの新聞に讃えられたのです。
 その後沢村は巨人軍へ入団しますが、久慈はプロ入りを拒否し、函館オーシャンで監督兼選手として都市対抗野球で活躍します。
 
 1939年(昭和14年)、函館オーシャンは、札幌円山球場で札幌野球倶楽部と戦いました。
 7回の攻撃、打者の久慈は四球を選びました。一塁へ歩みかけたところで立ち止まり、次の打者に指示を出しました。
 その時でした。塁を離れていた二塁走者を刺そうと、キャッチャーが二塁へ向けて送球しました。
 このボールが久慈の右こめかみを直撃し、頭蓋骨骨折、頭蓋内出血で帰らぬ人となりました。41歳でした。
 
 プロ野球殿堂入りした人の中で、選手として殿堂入りしたのは久慈が最初です。また都市対抗野球では、最高のプレーをした選手に久慈賞が与えられています。名選手であった久慈を、いつまでも忘れないために命名されたのだと思います。
 久慈はいつまでも後輩たちのプレーを天国から見守っていることでしょう。