2010年11月26日金曜日

南北砲撃戦

 11月23日の午後2時半すぎ、北朝鮮の黄海南道(ファンヘナムド)に駐屯する北朝鮮軍から、韓国の大延坪島(テヨンピョンド)にむけて砲撃が開始されました。約80発の砲弾が島に着弾し、兵士2名と民間人2名が死亡しました。
 
 韓国軍も応戦し、海峡を挟んで砲撃戦となりました。両軍の戦闘機も上空で遭遇しましたが、航空戦は回避されました。砲弾を浴びた島民は防空壕に避難しましたが、着弾した榴弾の破壊力は大きく、家屋は一発で倒壊していました。
 
 これは戦争です。

 1950年に始まった朝鮮戦争は1953年に休戦協定が成立し、休戦ラインを国境線としています。しかし、戦後の平和条約の締結には至っておりません。つまり戦争は一時休戦の状態で、常に一触即発の状況で推移しているのです。
 
 朝鮮戦争を戦ったのは、国連軍、韓国軍対北朝鮮軍、人民革命義勇軍(中国軍)です。義勇軍といいながら、中国軍の中枢にいた彭徳懐将軍が率いていましたので、中国の正規軍と言えるでしょう。
 直接干戈を交えた米・韓・朝・中の4カ国に、中・朝に武器供与したロシア(当時はソ連)、米軍に基地を供与した日本を加えた6カ国協議。
 6カ国協議は、協議の場で取り決めたことを遵守させることで、北朝鮮を抑え込もうという狙いです。その成果は、今のところ大きいとはとは言えません。しかし、当事者の6カ国が対話することでしか、朝鮮半島を含む東アジアでの平和は訪れません。
 
 日本は武力行使が出来ませんので、平和への道筋を示し、存在感を発揮するほかは無いと思います。広島市の核兵器廃絶への取り組みに対して政府が真摯に向き合い、日本は他の5カ国へ向けて強い平和のメッセージを送ってもらいたいと思います。

2010年11月22日月曜日

新しいヒロインたち

 連日、広州のアジア大会をテレビで観戦しています。忙しい中、テレビに釘付けになっています。

 そのアジア大会に先立って熱心に見ていたのは、女子バレーボール世界選手権です。
 銅メダルをかけたアメリカ戦、竹下佳江選手は「これでもか」とばかりに、エースの木村沙織選手にトスを上げていました。
 木村選手はこの重圧を打ち破り、銅メダルへのアタックを決めまくりました。

 アジア大会に入って釘付けにされたのは、女子体操競技です。
 女子体操というと、長らく小柄な10歳代の選手が活躍していました。しかし、今回は23歳の大学院生、田中理恵選手が活躍しました。大柄な田中選手は、プレッシャーを感じさせない笑顔をふりまき、団体総合では年下のチームメートを励ましていました。
 他の選手も健闘し、団体で銅メダルを獲得しました。田中選手は個人総合で銅、跳馬で銀を獲得し、女子体操で存在感を示しました。
 
 卓球の福原愛選手、テニスのクルム伊達公子選手も頑張り、銅メダルを獲得しました。

 大きな壁を打ち破ったのは、なでしこジャパンこと女子サッカーです。
 決勝戦では、2回連続優勝の北朝鮮に対し押され気味でしたが、後半コーナーキックから岩清水 梓選手のヘディングでゴールを奪い、1対0で初めての金メダルを獲得しました。選手たちのひたむきなプレーには感動しました。

 女子100メートル走では、日本記録ホルダーの福島千里選手が2位の選手をわずか100分の1秒上回り、11秒33で優勝。44年ぶりの金メダルを日本にもたらしました。
 
 福島選手の走りは広島ビッグアーチで見たことがあるのですが、その加速力には衝撃を受けた覚えがあります。テレビでは味わえない感動でした。

 多くの感動を与えてくれる女性アスリートたちに、心からのエールを送ります。
 この感動をより多く与えてくれるのが、スポーツ最大の祭典オリンピックです。
 
 ぜひ広島市への誘致が実現すればと思います。

2010年11月18日木曜日

白鵬敗る

 横綱白鵬が敗れました。無敵の堅城が、ついに崩れました

 九州場所二日目、前頭筆頭の稀勢の里との一番。
 立ち合い、白鵬は得意の右を差して寄って出ました。稀勢の里は後退しながらも白鵬の差し手を振り切り、突き押しで反撃して得意の左を差し右の上手を取りました。
 稀勢の里は休まず寄り進みます。白鵬は左からすくい投げを放ちましたが、腰が伸びて正面土俵に寄り切られました。
 受けに回った白鵬が、あわてて内掛けやすくい投げに行って墓穴を掘りました。とは言え、稀勢の里の速攻の見事な勝利でした。

 白鵬の連勝記録は63でストップしましたが、63連勝は偉大な記録です。称えたいと思います。

 69連勝を記録した双葉山は、昭和14年の1月場所四日目に安藝の海に連勝をストップされた後、五日目に両国、六日目に鹿嶋洋といずれも平幕力士に連敗しました。
 双葉山は、連勝ストップが大変ショックだったのでしょう。

 白鵬の三日目に注目しましたが、琴奨菊を難なくやぶり、続く四日目も安美錦を簡単に寄り切りました。ショックを乗り越え新たな連勝記録に挑戦を開始しました。

 とにかく今の土俵では抜群に強い。
 まだ25歳の若さです。また勝ち続けて連勝記録を今度こそ塗り替えてもらいたいと思います。

2010年11月8日月曜日

ロッテ日本一

 2010年のプロ野球日本シリーズは、千葉ロッテマリーンズが中日ドラゴンズを4勝2敗1引き分けで降しました。実力伯仲の両チームが力を出し切った結果、勢いのあるロッテが押し切りました。
 去年までみんな好き放題にやっていたロッテを、西村監督が上手くまとめて力を引き出したと思います。実力のある選手たちを、ひとつの方向に向けて走り出させました。
 私は西村監督のまとめっぷりが好きで、ロッテを応援していました。地元のチームではありませんが、嬉しく思います。

 この両チームの日本シリーズは、思い出があります。1974年の日本シリーズです。
 1965年から1973年まで、プロ野球は巨人が9連覇。日本シリーズも、巨人の9連覇していました。
 1974年、セ・リーグは与那嶺要監督の中日が優勝。巨人は2位で、やっと巨人一強の体制が終わりました。この年のパ・リーグは、金田正一監督のロッテが制覇しました。当時ロッテはマリーンズではなくオリオンズでした。
 金田監督はコーチャーズ・ボックスで派手なパフォーマンスを見せたり、太平洋ライオンズのビュフォード選手と殴りあったり、話題づくりに腐心していました。

 巨人の出ない日本シリーズは新鮮で、毎試合関心を寄せて見ていました。中日は高木守道選手の活躍で2勝1敗とリードしましたが、ロッテはのちに200勝投手となる村田兆次投手の活躍で4勝2敗で栄冠をものにしました。村田が出ると中日打線は全く打てませんでした。

 
 この年私は高校1年生でした。教室の後にロッカーがあり、放課後外国出身の先生が見回りに来て、ロッカーを閉めてないときに板書して注意されていました。

「ロシカーをしめて帰ってください」

 それを毎朝見るわれわれは、いつしかロッカーをロシカーと呼ぶようになりました。当然、ロッテオリオンズではなくロシテオリオンズです。
 たまにロッテのことをロシテと呼びながら、今は亡きその先生を偲んでいます。

2010年11月2日火曜日

助六

 歌舞伎十八番の筆頭にあげられているのが、助六由縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)です。
 鎌倉時代の敵討ちである、曽我十郎・五郎の兄弟を題材にした物語です。
 先日テレビ放映しており、楽しんで見ました。
 配役は、主人公の花川戸助六が12代目市川団十郎、屋号は成田屋です。助六の恋人、花魁(おいらん)の揚巻は当世ナンバー1の女形である坂東玉三郎でした。

 この助六の出で立ちがど派手で、特に紫のはちまきは助六の代名詞です。このあざやかな紫色は、いわゆる江戸紫と呼ばれています。
 さらに、せりふまわしや所作など、とにかく派手です。花道から登場する場面が見せ場ですが、江戸の男性はその所作にあこがれ、女性は黄色い歓声をあげたことでしょう。

 当時のファッションの最先端を行く団十郎は、質素倹約を説く幕府からにらまれ、7代目の時に江戸から追放されます。下火となった歌舞伎の人気を回復したのは、8代目団十郎です。

 歴代の団十郎は、荒事といって男性的な荒々しい演技が売り物でした。それに対して、8代目は和事といってスマートな中性的な演技で江戸のファンをとりこにしました。その似顔絵は飛ぶように売れ、たくさん残っている似顔絵は面長のやさしい表情に描かれています。
 残念ながら、8代目団十郎は1854年に31歳の若さで自殺してしまいます。その理由は今もって謎とされています。

 東京には歌舞伎座があり、観劇の機会が多くうらやましい限りです。広島にもたまに歌舞伎が来ますが、好きな役者でなかったり演目がなじみの無いものだったりで、まだ観劇の機会には恵まれていません。興行が少ないということが、広島が文化面で他の都市に遅れを取っている例のひとつと言えましょう。
 歌舞伎を含めた興行がたくさんあり、多くの市民が高い文化に触れることを目指したいと思います。

 余談ですが、おすし屋さんで助六を注文すると、いなり寿しと巻き寿しのセットが出てきます。私はこどもの頃から、なぜ助六というのか分かりませんでした。
 これは助六の恋人である揚巻からきています。「揚げ」がいなり寿し、「巻」が巻き寿しを指しています。江戸っ子が名づけた、いかにも粋なメニューといえましょう。