2010年4月29日木曜日

久慈次郎

 昨日、グラウンドで倒れ帰らぬ人となった木村拓也さんのことを書きました。もう一人思い浮かんだのは、同じくグラウンドで倒れ不帰の人となった久慈次郎です。久慈はプレー中の事故で死亡しました。

 久慈は1898(明治31年)年岩手県の出身。早稲田大学の野球部で活躍し、卒業後ノンプロチーム函館オーシャンの主力選手として、都市対抗野球でその名を馳せました。
 
 転機となったのは、1934年(昭和9年)ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグら大リーグのトップクラスの選手を集めたアメリカ選抜チームが来日した時です。
 日本チームは急遽かき集められたメンバーで、主力は東京六大学の花形選手であった伊達正男、水原茂、苅田久徳らです。さらに投手陣には、まだ中学生(現在の高校生)の沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒンも加わっていました。その中で36歳の久慈は主将格の存在でした。

 日本チームはアメリカ選抜の前に歯が立たず、16戦全敗に終わります。しかし、1試合だけ日本があわや大殊勲という見事な試合がありました。
 
 場所は静岡草薙球場。先発投手は日本・沢村とアメリカ・ホワイトヒルです。沢村の武器は豪速球と、懸河のドロップと言われた大きく曲がり落ちるカーブです。

 この日の沢村は絶好調で、3番ルース、4番ゲーリッグを連続三振にとるなど中盤まで0対0の緊迫した試合となりました。
 沢村をリードした捕手が久慈次郎でした。リードも冴え渡り、アメリカ選抜は三振の山を築いていきました。しかし終盤7回、ゲーリッグが沢村のストレートを一閃。打球はライトスタンドに消えていきました。
 結局、1対0で日本は敗れました。しかし、沢村は、Schoolboy  SAWAMURA とアメリカの新聞に讃えられたのです。
 その後沢村は巨人軍へ入団しますが、久慈はプロ入りを拒否し、函館オーシャンで監督兼選手として都市対抗野球で活躍します。
 
 1939年(昭和14年)、函館オーシャンは、札幌円山球場で札幌野球倶楽部と戦いました。
 7回の攻撃、打者の久慈は四球を選びました。一塁へ歩みかけたところで立ち止まり、次の打者に指示を出しました。
 その時でした。塁を離れていた二塁走者を刺そうと、キャッチャーが二塁へ向けて送球しました。
 このボールが久慈の右こめかみを直撃し、頭蓋骨骨折、頭蓋内出血で帰らぬ人となりました。41歳でした。
 
 プロ野球殿堂入りした人の中で、選手として殿堂入りしたのは久慈が最初です。また都市対抗野球では、最高のプレーをした選手に久慈賞が与えられています。名選手であった久慈を、いつまでも忘れないために命名されたのだと思います。
 久慈はいつまでも後輩たちのプレーを天国から見守っていることでしょう。
 

木村拓也さん

 昨日28日は、マツダスタジアムに野球を見に行きました。試合前のシートノックを見ていて、思い出した人がいます。先日シートノック中に倒れ、帰らぬ人となった木村拓也さんです。巨人のコーチとして新しい人生をスタートさせたばかりの38歳でした。

 木村さんとは、カープの内野手として活躍されていた頃、カープ激励のつどいでお会いしたことがあります。当時は、市民球場を建て替えるのに人工芝のドーム球場にするのか、天然芝のオープン球場にするのかという議論が交わされていました。
 
 私が「プレーされる方としてはどう違うのですか?」と聞くと、木村さんは内野守備の動作をパーティーの会場で何度も繰り返しながら説明してくれました。木村さんは、人工芝にすると内野の守備範囲が狭くなり、野球が面白くなくなってしまうということをおっしゃられてました。 
 さすがプロの意見だと感心したことが昨日のようです。

  昨年は巨人軍の二塁手としてプレーし、今年はコーチとしてグラウンドに登場しました。その矢先、グラウンドで倒れたことが残念でなりません。
 木村さんは、その明るい人柄で名コーチ、名監督として球界のリーダー足りうる存在になれたのではないかと思います。

 新球場は木村さんの希望通り、野球の面白さが存分に伝わる天然芝のオープン球場になりました。昨日は両チームとも好プレーが何度もあり、人工芝では見られないであろうプレーもありました。
 この球場で木村さんのように躍動感あふれる選手が活躍すると、野球はやはり天然芝のオープン球場で見るのがいいなと感じます。


 木村拓也さんのご冥福を、心からお祈りします。

2010年4月27日火曜日

上海万博

 5月1日から上海で万国博覧会が開催されます。中国経済の発展とともに、上海は世界経済の中心となったと言っても良いでしょう。

 第二次大戦前、上海には租界という外国人の居留地がありました。治外法権で中国政府の法律は適用されない、外国人にとってのパラダイスでした。租界の外で人を殺しても、租界に逃げ込めば中国の警察は逮捕できません。

 1839年、欽差大臣の林則徐が広東で密輸されていたアヘンを没収、焼却しました。これに激怒したイギリスが清国に攻め入り各地を占領しました。アヘン戦争です。
 清国は敗北し、1842年に結ばれた南京条約で上海は開港され、外国人租界がおかれました。以後百年以上、租界には中国人の人権は認められず、公園の入り口には「犬と中国人は入るべからず」と書かれた札が立っていました。私の祖母はそれを実際に見たと言っていました。

 アヘン戦争以前、イギリスは中国から茶、生糸などを輸入し、銀で代金を支払っていました。銀の流出が著しいため、イギリス政府は植民地インドで栽培したアヘンを中国へ売り込ませ、銀の流出をくいとめたのです。
 世界の一流国が、貿易黒字を計上している国へアヘンを売りつけて、国家財政の大赤字を解消したのです。現代では許されることではありません。
 イギリスには恥という言葉がなかったのでしょうか。

 イギリスについで、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、そして日本も帝国主義戦争の尻馬に乗り、大陸を侵略しました。
 上海万博に出展するこれらの国々は、いかなる心境で上海に乗り込むのでしょうか。

日韓併合百年

 1910年は日韓併合条約が締結された年で、今年で百年が経過します。
 独立国であった韓国はこの条約で主権を喪失し、実質上日本の植民地となりました。朝鮮総督府が韓国を統治することになり、総督に就任したのは陸軍大将寺内正毅でした。軍人と警察官による武断政治の始まりです。

 韓国で少年時代を過ごした日本人にまつわるエピソードがあります。
 市内電車の中でのこと、乗客である日本人は、韓国人の車掌に対し、電車賃を床に投げて支払い、車掌はそれを拾っていました。
 その日本人は、終戦後広島に帰りました。電車に乗って韓国でしたように電車賃を床に投げたら、日本人の車掌から頭を殴られたそうです。韓国人は蔑み、哀れみの対象で同じ人間とは思われていなかったことを物語っています。

 25年前、私の友人が銀行から大蔵省に出向した時、大蔵省の官僚がこう言ったそうです。
 
 「植民地時代、日本は韓国に巨額の資本投資をした。水道も道路も作った。それを置いて帰ったのだから感謝されて当然だ。」
 
 この資本投資は、統治する日本人のための、日本人による投資です。電車の車内で、電車賃を投げつけられていた韓国人が、何を好んで日本人に感謝するでしょうか。

 アジアの現代史をこぞって学ぶ韓国人。日本史は明治維新で終わり、現代史を知らない日本人。
 当然対話はかみ合いません。

 「韓国人は過去にとらわれすぎる。過去にとらわれず、未来志向で行こう。」 このように語る日本人がいます。
 未来志向はもちろん素晴らしいことです。しかし、過去を学んだ上での未来志向であってほしいと思います。

2010年4月24日土曜日

松坂万三郎さん

 松坂万三郎さんは広島県府中市の市議会議員で、この度府中市の市長選挙に挑戦されました。姓は「まつさか」とにごらず、名は「まんざぶろう」とにごります。現職市長との一騎打ちで、投票日は25日の日曜日です。私「まつさか」も、昨日府中市まで応援に駆けつけました。

 松坂さんとは、4年前の民主党の地方議員研修会で出会いました。当時の小沢一郎代表が、全国から集まった地方議員ひとりひとりと、記念写真を撮ることになりました。
 「北海道から沖縄県までの順に並んでください。同じ県の中ではアイウエオの順に並んでください。」と指示がありました。広島県の議員が並ぶことになり、スタッフが「松坂さん」と呼びました。
 そこで、私が「はい」と返事をすると同時に、「はい」と返事が聞こえました。その返事の主こそが松坂さんだったのです。

 ふたりとも「えっ。」とびっくりして、顔を見合わせました。数秒間見合わせていると、スタッフの人がが、「府中市のまんざぶろうさんが最初で、広島市のちこうさんが次です。」とさばいてくれました。
 私たちは、お互いに「はっはっは」と笑って自己紹介をしました。松坂さんは生まれも育ちも府中市で、私は生まれも育ちも広島市です。
 近い親戚ではありませんでしたが、ひょっとしたら遠い親戚か三重県の松阪市をルーツに持つ地縁関係になるのかも知れません。

 昨日、選挙事務所に到着してすぐに松坂さんに挨拶すると、街頭演説で日焼けした顔で「もちろん憶えていますよ。」とにっこり笑ってくれました。
 演説会の終了後、同行している奥様に「この方は、広島市の松坂さんという議員さんだ。」と紹介して下さり、奥様がとても驚かれました。驚きながら喜んでおられて、その表情がすごく印象的でした。

 25日まであとわずかですが、素晴らしい府中市を目指している松坂さんに、どうかお力をお貸しください。

2010年4月22日木曜日

長谷川等伯

 長谷川等伯展を見に、京都に行ってきました。

 私は小学校の時、切手を集めていました。国宝シリーズという切手が発行され、安土桃山時代の切手の一枚が、絵師長谷川等伯の「松林図屏風」でした。この水墨画は、霧の中に煙る松林を描いたものです。
 
 御用絵師だった等伯は、豊臣秀吉の求めに応じて、金碧障壁画 「楓図壁貼付」 「松に秋草図屏風」 を豪快に描いています。京都国立博物館で見た実物は、写真で見たほどはぴかぴかと光ってはいませんでした。しかし、400年前はさぞや光り輝いていたことでしょう。
 秀吉の時代、夜の闇を照らすものは行灯かろうそくでした。そこで夜を昼のように彩るために、絵師たちに金ぴかの障壁画を書かせたそうです。
 
 同じ御用絵師である、狩野永徳らをはじめとする狩野派との闘争の中、等伯は息子久蔵を病で失います。
 その衝撃を乗り越えて、等伯は一転水墨画の傑作「松林図屏風」を残しました。故郷である能登の松林を描いた等伯の心情は、他の誰にも計り知れないのではないでしょうか。
 
 私はこの絵の前で、一番長くたたずんでいました。感想の言葉が出てきませんが、40年目にして初めて目の当たりにした、この不気味な絵を一生忘れないでしょう。

2010年4月18日日曜日

お風呂で死ぬということ

 暖かくなる日も増え、春の装いが街を彩るようになってきました。
 ところで季節の変わり目は亡くなる方が多くなるのはご存じでしょうか?要注意の時期なのです。
 
 昨日もお通夜がありました。ご近所の80代の奥様が亡くなられたのですが、お風呂に入った際に死亡されました。心臓が急に止まったのでしょう。
 先日は70歳代の女性が、同じくお風呂で死亡されました。
  これまで母の友人も2人、入浴中に亡くなっています。どの方も湯船の中で死亡されています。ご遺族の方は悲嘆に暮れておられると思います。
 亡くなられた方々のご冥福を祈ります。

 湯船の中で、どんなお気持ちで亡くなられるのかと想像しました。実はあまり苦しまれずに逝かれたのかなと思います。風呂が嫌いな方は別として、気持ちよく入浴されていると思うからです。

 今はあまり無いですが、以前は私も風呂に入っていて寝てしまうことがありました。
 私の友人などは、自宅の風呂の中で寝ることは、いつものことだそうです。
 スポーツジムで汗を流したあと、ジャグジー風呂という強烈な泡の出る風呂に入ったまま寝ることもあるのだと言っていました。これにはさすがに驚きました。無邪気というか無防備というか、私にはとても真似ができません。

 彼には少し浮世ばなれした面があり、よく不思議に思うことがあります。
 風呂の中で、黄泉の国に行っては戻って来ているのでしょう。そう考えると妙に納得してしまいました。
 

2010年4月17日土曜日

フットサルと野球

 2月3月と議会の日程が密で、体を動かす暇がありませんでした。そのぶん4月は取り返します。
 
 まずは16日の夜のフットサルです。1試合は7分間、5人で1チームです。この日はたくさん人が集まって、4チームできました。
 監督がいつも配慮してくれて、下手な私も出場した試合はほぼフル出場します。
 7分X6回出場し、1回はゴールキーパーでした。ポジションは守備が主ですが、チャンスとみると攻め上がります。
 2人攻め上ったところで、押し上げたところ丁度良く、フリーの私に横パス。それをダイレクトでシュート。相手キーパーが「見えん!」と叫びました。
 ゴールかと思いましたが、惜しくもワクを外れました。この日のハイライトは、このシーンでした。
 
 
 次の日には、野球の試合です。相手はなかなかの強豪、こちらは試合開始間際にやっと10人が集まりました。皆忙しいのです。私は6番でセカンドで先発しました。
 第1打席は四球。第2打席は2アウト三塁のチャンスで回って来ました。ストレートに狙いをしぼってファーストストライクを強振して空振り、2球目はファウル。3球目は待っていたストレート。予定ではクリーンヒットだったのですが、空振りの三振でした。
 次の打席は2-2から外のカーブがストライクとなり、また三振。
 
 守備も2エラーと、残念な結果に終わりました。
 取りにくいセカンド後方のフライ、目を切って後退したところ、ちょっと落下点を行き過ぎました。基本はおでこの前くらいでキャッチするのですが、とっさにグローブの手の甲側を下に向けてへその前で構えました。へその前でボールの感触がしましたが、落ちてなかったので無事キャッチできていました。
 これがこの日のハイライトでした。信じられないプレーでしたが、ほめられたものではありません。
 
 結局7イニングフル出場しました。フットサルも野球もへたくそですが、体力は確実についているのが救いです。

なせばなる

 「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」

 これは、藩政改革に努めた米沢上杉藩藩主、上杉鷹山公の歌です。私が中学生の時、倫理の先生が教えてくれました。良い教えです。
 
 教えてもらった後、ほどなくして、英語の先生が、こう問いかけました。

 「なせばなる、の歌を知っとるかね。」

 私は、「なせばなる」と詠み始めました。先生も一緒に詠んでいました。しかし下の句が違い、先生はこう詠みました。

「なせばなる なさねばならぬ 何事も ナセルはアラブの大統領」

 私は、思わず笑ってしまいました。今も思いだして笑いながらブログを書いていますが、誰が詠んだ歌なのか知りたいものです。皆さんもぜひ声に出して詠んでみて下さい。腹筋がよじれる方は多いのではないでしょうか。

 ナセルはアラブ連合共和国(現在のエジプト・アラブ共和国)の大統領で、西側にも東側にも属さない第三世界のリーダーとして活躍していました。
 私が小学校3年の1967年に、ナセルはイスラエルとの間で第三次中東戦争を戦いました。しかし6日間であっけなく敗れ、その後52歳で亡くなりました。
 
 その苦衷の中で、ナセルが「なせばなる」の歌を詠んでいたと、中学生の私は半分信じていたのでした。

2010年4月16日金曜日

政治家が飛行機に乗るということ

 政治家が飛行機に乗るということは、命がけのことだと思います。
 70年前、ポーランド軍の将校22,000人がソ連軍に虐殺された「カチンの森事件」という惨劇がありました。今月の10日、その慰霊祭に出席するためロシアのスモレンスクに向かっていた、ポーランドのカチンスキ大統領の乗り込んだ飛行機が墜落し、大統領をはじめ政府首脳が死亡しました。

 アフリカにコンゴ民主共和国という国があります。以前はベルギー領コンゴで、ザイールとも呼ばれていました。首都キンシャサでは、ジョージ・フォアマンとモハメド・アリが、ボクシングのヘビー級タイトルマッチを闘ったことがあります。世に言う「キンシャサの奇跡」です。
 
 コンゴでは、1960年ベルギーから独立する際に動乱が発生しました。コンゴ動乱です。
 総選挙で勝利したルムンバが首相に就任し、中央集権国家を目指しました。一方、世界の銅の7割を生産するカタンガ地方の指導者チョンベは、コンゴからの独立を目指しルムンバと対立しました。 
 ルムンバはソ連など東側の国に接近しました。これに対し鉱物資源に食指を伸ばすアメリカは、ルムンバと対立するカサブブ大統領やモブツ参謀総長を支援しました。
 
 国際連合はこのコンゴ動乱を抑えるため、武力介入を図っていました。これに期待していたルムンバですが、カタンガ州勢力によって1961年1月17日暗殺されました。
 
 ここで調停にのりだしたのが、ハマーショルド国連事務総長でした。しかし9月16日、彼を乗せた飛行機がコンゴへ向かう途中に北ローデシアのンドラで墜落。帰らぬ人となりました。
 
 結局、コンゴ動乱はアメリカの後押しを受けたモブツが大統領に就任し、32年間にわたる独裁政権を続けました。
 そのためハマーショルドの事故死は、アメリカの謀殺説がまことしやかに語られました。真相は不明です。

 ともかく世界中の政治家は、命がけで世界を飛び回っています。
 秋葉市長も世界の核兵器廃絶のため飛び回っています。これに市議会議員が、外遊の回数が多すぎるとかファーストクラスは贅沢だとか理屈をつけて、飛行機に乗る予算を削ろうとしました。
 了見の狭い話ではないかと思います。
 

2010年4月13日火曜日

ひょうきんな選手たち

 4月13日、マツダスタジアムで行われたカープ対ヤクルト戦。
 2対2で迎えた8回表、ヤクルトの攻撃。ランナー二塁でバッターは4番の強打者デントナ。ピッチャーはフォークボールで空振り三振に切って取りました。ピッチャーは、ガッツポーズでベンチに向かってダッシュしました。
 その時キャッチャーの石原がピッチャーに向かって走りより、一言声を掛けました。
 
 実は1アウトで、デントナを三振に切って取った時点では2アウトだったのです。

 ピッチャーは照れ笑いを浮かべてマウンドへ戻りました。そのせいかどうかは分かりませんが、ピッチャーは交代となりました。そのピッチャーは横山投手です。ベンチに下がる時も照れ笑いを浮かべながら、ナインに頭を下げていました。

 試合は延長戦となり、10回ウラに石原選手のサヨナラホームランでカープが勝ちました。ホームベースで祝福の水掛けが行われ、選手もファンも感動をひとつにしました。

 ところが、ヒーローの石原選手以外の選手が水をうしろ首から注がれています。逃げまどっていましたが、つかまってユニフォームを脱がされかけました。
 このいじられキャラは赤松選手でした。試合に出場しなかったものの、存在感を見せつけていました。

 今シーズン、マツダスタジアム初勝利でした。

2010年4月12日月曜日

名張毒ぶどう酒事件

 以前このブログで、裁判員制度について書いたことがあります。最近マスコミはあまり取り上げなくなりました。制度が定着し、問題無く運用されているということでしょう。
 今までの裁判は、法律の専門家である裁判長が一人で有罪か無罪か決めていました。しかし、裁判員制度の導入により、合議制で決定することになりました。つりあいのとれた判決が出されることを期待しています。

 「名張ぶどう酒事件」は今年の4月に再審請求が認められました。奥西勝被告は、1961年に36歳で逮捕されて以来49年間獄につながれています。 
 三重県名張市葛尾の公民館で開かれた集会に出席した5人の女性が、毒入りぶどう酒を飲み死亡したという事件でした。この会合に出席していた奥西被告は、三角関係を清算する目的で、妻と愛人を含む5人の女性を毒殺したという容疑です。
 容疑を疑問に思う人たちは、そもそも被告に殺人を犯す動機が無いということです。

 被告は一旦自白しましたが、公判で供述をひるがえし無実を主張しました。一審の津地裁は無罪、二審の名古屋高裁は一転死刑、そして最高裁で死刑が確定しました。以後再審請求を繰り返して来ましたが、この度それが認められることになりました。

 疑問に思うのは、同じ証拠、同じ証言を審査したにもかかわらず、一審は無罪、二審は死刑と極端に判決が振れたことです。
 真実は一つなので、どちらかの裁判長が間違った判決を下していることになります。

  私も、ある事件で裁判所に意見書を提出したことがあります。一人の裁判長は、この意見書を採用して判決を下しました。しかし、別の裁判長は不採用としました。依頼人の主張を鵜呑みにしているという理由でした。
 これは裁判長の主観によるもので、到底納得のいく判決ではありませんでした。裁判官の主観は正しいこともありますが、間違っていることもあります。そのことは知っておくべきだと思います。
 
 無実でも死刑にされる可能性はあるのです。

2010年4月10日土曜日

雨の曲

 私はデパートやスーパーによく行きますが、店内にはBGMが流れています。デパートはゆったりとした落ち着いた曲、スーパーではテンポの早い軽快な曲が流れているように思います。パチンコ屋では、軍艦マーチが定番でした。

 某デパートSに行った時の店員の方との会話です。
私「昨日は暖かかったのに、今日は雨も降って寒いです。なかなか春の装いができません。」
店員「雨が降ってますか。雨が降り始めると、曲が流れるのですが。」

私「デパートが店員に、雨降りを知らせるためですか。」
店員「そうです。スタッフから教えてもらいました。」

私「長年、デパートに買い物に来ていますが、知りませんでした。あめあめふれふれですか。
  それとも、雨というタイトルの曲なら、三善英史かジリオラ・チンクエッティとかですか。」
店員「いや、歌ではありません。曲だけです。」

私「何と言う曲ですか。」
店員「題名は分かりません。」

 何か深い理由がありそうでしたが、会話はここで終わりました。
 F屋でもT屋でもM越デパートでも、雨が降り始めたら流す曲があるのでしょう。
 
 雨が降ったことを店員に知らせる理由とは何なのか。

 自分なりに考えてみましたが、傘やレインコートをお客さんの目につくところに出す事くらいしか思いつきませんでした。

注;三善英史・・日本の演歌歌手。「雨」は1972年のレコード大賞新人賞受賞曲。
  ジリオラ・チンクエッティ・・イタリアのカンツォーネ歌手。「雨」は1969年サンレモ音楽祭受賞  
  作。

2010年4月7日水曜日

革命

 4月3日は民主党広島県連合会の総会でした。新しい役員として、三谷光男衆議院議員が代表、中原好治県議会議員が幹事長に就任しました。私も幹事の一人に名を連ねました。 
 ゲストとして講演されたのは、平野貞夫元参議院議員です。彼によると昨年8月30日の総選挙で民主党が圧倒的勝利を得たのは、無血革命だそうです。
 
 革命というとフランス革命やロシア革命が浮んできます。貧しき人民が、国王、皇帝それに連なる貴族を打ち倒し封建制度に代わる新制度を打ち立てました。
 しかし、このたびの民主党による政権交代は、革命のイメージとは遠くかけ離れているように思います。その理由は改革のスピードが遅く感じられるからではないでしょうか。いや、実際に遅いのではないかと感じることもあります。子ども手当が、ようやくこの4月から半額支給され、事業仕分けが22年度予算に反映された程度です。

 フランスでは、1789年の7月14日にバスチーユ監獄が人民の手に落ち、それをうけて国民議会が8月4日封建制の廃止を決議しました。そして8月26日には人権宣言を採択しています。フランス革命はすさまじい早さで進んでいったのです。

 この時期、議員である穏健派のミラボーと急進派のロベスピエールはこのような会話を交わしています。
(佐藤賢一著 小説フランス革命Ⅱ 集英社より引用)

 あまりに急速な議会を批判してミラボーはこう言います。
 
 「封建制廃止にしても人権宣言にしても同じだよ。高らかに理想をうたいたいのは分かる。けれどうかつに打ち上げれば、あとで嘘になってしまう。嘘になれば、それに怒る人間が出る。
 革命なんてまやかしだ。貴族がいた頃のほうがよかった。アンシャン・レジーム(旧体制)のほうが生きやすかった。そんな風にへそを曲げられ、元の鞘に戻るというような話にでもなれば・・・・」

 これに対して、ロベスピエールはこう答えます。 
 
 「なりません。ええ、封建制の廃止も、人権宣言も、決してうそにはさせません。」

 国政だけでなく市政においても民主党の革命を進めなければなりません。この2人の会話は、なかなか考えさせられるものがあります。

2010年4月2日金曜日

逆転

 3月31日、広島市議会は臨時議会を開催しました。秋葉市長が地方自治法の基づく市長の再議権を行使し、オリンピックの招致検討費2600万円を削減した修正案を再度議題としました。
 私は市に検討をさせてもいいという意見なのですが、修正した谷口議員(自民党新政)からは、どうせできないのだから市民や他の自治体に迷惑がかからないうちに断念しようという討論がされました。
 
 採決の結果、26日と同様修正案に賛成の議員は28名でした。しかし、再議では3分の2の賛成、つまり36名に足らず否決されました。
 その後休憩に入り、議長会派の市民市政、私の所属する市民連合、そして公明党、共産党で協議しました。招致検討費2600万円を100万円のみ減額する新たな修正案を提出し、賛成31人を得て可決成立しました。
 新しい修正案に賛成の議員は以下の通りです。

市民連合9名 (松坂、太田、都志見、田尾、酒入、若林、沖、森本、清水)
公明党8名 (平木、星谷、原、米津、安達、西田、渡辺、碓氷)
市民市政6名 (沖宗、海徳、元田、月村、八條、竹田)
共産党5名 (中原、中森、村上、皆川、藤井)
爽志会2名 (今田、土井)
未来クラブ1名 (馬庭)

 自民党新政と政和クラブは、再議で否決された修正案とほとんど変わらない別の修正案を提出しましたが否決されました。

 3月31日に議会が予算を議決できなければ、地方自治法により、市長が平成22年度予算を決めることが出来ることになります。
 「これでは議会の存在意義や責任を、議会が自ら放棄することになります。」
 私は新しい修正案に賛成の討論の中で、このように述べました。
 反対する議員から多くの野次が浴びせられましたが、可決成立したので議会としての最低限の責任は果たせてほっとしています。
 
 議決が逆転して、市長の提案が通りました。次は、夏に提出される検討結果を審議することになります。